優しい貴女に、誠実を
*筋肉妖精視点
彼にとって、アレクサンドリアの自由の礎たる寛容は、神無き世界の優しさへの絶望に支えられたものだ。
アレクサンドリアに地神はあれど、祈るべき神はどこにもいない。
祈る先のない世界が優しいと信じられるなら、彼らの覇王が先に立つ理不尽で不条理な生存闘争は、とうに終止符が打たれていいはずだ。
――本当は、彼とて、自分と違うものが恐ろしい。
数百年――長命種たる妖精の系譜に連なる彼には、そう遠くない昔に、彼らの一族に降り注いだ災禍は、今も鮮明に思い出せる。
その時彼が抱いた、一族以外の異種族に対する憎悪や嫌悪、不信は底知れず、忘却の癒しは傷の表層を取り繕っただけだ。
しかし、異質との共存に、隣人への愛や、理解と共感は必要ない。
故郷を失った彼を『悪の王国』に溶け込ませたのは、彼らの覇王の慈悲だ。
話し合っても譲り合えぬなら、剣をとれ。
――決して差し出せない最後の一線だけは、どんな手段を使っても、例え殺し合おうとも守ってよい、と。
彼らの覇王にそれを赦されたが故に、――得難い特権の代償に、他者の刃に身を曝す義務を負ったため、他のなにを差し出そうとも、彼は違う誰かに無関心でいられたのだ。
そうでなければ、彼にアレクサンドリアの民としての自覚が芽生えたものか。
理解しないのは気楽だ。
勝手に相手を規定すればいいのだから。
共感しないのは安らかだ。
自分ではない誰かの傷や感情に、振り回されずに済むのだから。
でも、だからこそ、彼にのしかかった絶望を乗り越え、先を征く覇王の背はあまりに眩しい。
彼がその在り方に憧れ、不格好な真似事を続けるくらいに。
――光輝に際立つ影のように、覇王に侍る忠臣の酷薄を、彼も理解できるほどに。
◆◆◆
「……お前、――恩返しのつもりだったのかっ?!」
いかつい顔の平民将軍が、脱力したように天を仰ぎ、頑張って目の前の出来事を呑みこもうとしたものか、唸りながら片手で顔を覆った。
存在そのもので強行突破し、招待すらされていない夜会に潜り込んだ彼は、突如勃発した修羅場をしょっぱい気持ちで眺める。
主君に優しくしてくれた恩返しに、婚約破棄。
神域住まいの彼にも、恩を仇で返したように見える事態を引き起こした張本人は、子供のように途方に暮れていた。
「……確かに、ベラータ侯爵令嬢に借りの返し方について確認を取らなかったのは、私が悪かったな……」
露骨に目を泳がせる女の子の素直さが、彼にはとにかく胸に痛い。
素直に自分とは異なる相手を理解しようとして、素直に自分とは違う人間を慮ろうとして、――その先に待つのは、ただの地獄だ。
どんな化粧よりもその感情が映えると、哀しいくらいに当人の自覚がない美貌に憂いをのせて、女王の忠臣は令嬢に目線を合わせる。
「ベラータ侯爵令嬢」
呼びかける声音は、悪鬼の異名にそぐわぬ真摯さだ。
ああ、でも、あの子と彼女は違う、違うのだ。
瞳に映る世界も、それに基づく思考も、何もかも。
「貴女はどうしたい?
――自分を愛していない男と一緒に破滅するのが、貴女の幸せだったのか?」
「リア、真面目に恩返ししたかったら、お前は言葉を選んでやれなっ?!」
気づかわし気な口調と眼差しとは裏腹に、彼が色付けた唇から紡がれる台詞は、非情で苛烈だ。
あの子を蔑ろにしない、貴重な男の諫言も、女王の忠臣に響くものか。
座り込んだ令嬢は、己の枠組みからかけ離れた存在への疑念と混乱に、緑がかった青い双眸を揺らす。
「忠告しよう、ベラータ侯爵令嬢。
知らなくとも、自覚がなくとも、呪毒に――呪術に手を出した馬鹿は、箍が外れて戻らない。
澱は聖職者が払えても、澱による変質は不可逆だ。
だから、貴女が愛した男は、すでにどこにもいないぞ」
紅い手袋に包まれた指先が、すっと、涙を流す令嬢の胸元に添えられる。
地神の巫女姫が心を込めて差し出したのは、残酷なほどの誠実だ。
――だがそれは、幼い無知に包まれて、冷酷や不実と間違われそうなものだった。
彼はそっと、令嬢の元婚約者を盗み見る。
この国の乙女たちには好意を持たれやすい顔立ちは、とても分かりやすく崩れていた。
異国の貴公子の顔に浮かんでいる表情は、言いたい放題なあの子への怒りなんかではないし、あることないこと言いだすほら吹きへの侮蔑でも、馬鹿な女への嘲笑でもない。
……受け入れ難いものに対する驚愕の裏にあるのは、無自覚に目を逸らした、男の『運命』への渇望だ。
彼は、知られる前に台無しになったものに、ひっそりと嘆息した。
彼以上に世界の優しさを見限ったあの子は、だから、決して気づけまい。
世界を呪った迷い子と人柱の末裔は、信じると自らに定めたもの以外、なにも信じない。
彼は、何度も見たものよりも、知らないままの女の子が哀れだった。
きっと、狂気に投げ込んだ精神ごと、知覚する世界全てがかけ離れていた方が、ずっとずっと救いがあったのだ。
だって、足元の蟻と自分は違うと、嘆くことなどあり得ない。
……悔しかったのは、恨めしかったのは、互いに言葉があって大切なものがあって、僅かでも互いに理解し合って信じ合う可能性があると、知っていたからだ。
他でもない、かつての『虚ろの騎士』がそうだ。
そこが地獄だと認識していなければ、地獄など、どこにも無い。
「それでも、愛する男との婚姻が貴女の幸せなら、――それだけで、夫に殺されようと、血族ごと滅びようと、貴女が満たされるなら、全て私のせいにしてしまえ。
貴女の婚約破棄の責任の一部は、私にもあるのだろう」
地神の巫女姫は、柔らく無垢に微笑んだ。
まるで、人々を救う聖なる乙女のごとく。
その身に凝縮された呪詛も、この瞬間にも己を貫きかねない怨嗟や刃の存在も知らぬように。
だがその娘は、人に大切なものがあると理解して、いつか憎悪が追い付いてくることを受け入れて、なお誰かの首に刃を振り下ろす悪鬼なのだ。
「ベラータ侯爵令嬢、自分がどうなりたいのか、今すぐ決めてくれないか?
――この場でないと、私が動く前に、貴女が消されてしまう」
怖気がふるうような穏やかな声で、令嬢には届かないだろう至誠がこもった双眸で、女王の忠臣は、主君の恩人に真摯に告げた。
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