女王陛下は友達がいない
*犯罪描写有のため、苦手な方は注意!
磨き抜かれた硝子から差し込む柔らかな光が、粒子を帯びて、緩やかに波打つ髪を明るく染める。
リアからすれば、やや夢見がちな細工の机に向かう主君が、あら、と、目を通していた書類に表情を変えた。
そして、嬉しそうに、懐かし気に、濃い目の茶色の瞳が細められる。
「――ちゃんと、幸せになれればいいわね」
そう呟いた主君はほわほわと微笑み、ペンを握り続けて硬くなった指先で、紙上にあるその文字の羅列を、ひどく大事そうに撫でる。
主君の手元にあるのは、限りなく敵に近い国の、高位貴族の婚約情報だ。
戦略を形成するための一欠片に過ぎない事実に、けれど、寿ぐように、祈るように、ささやかな夢想を主君は口にした。
仕える女王に侍りつつ、自分が担当する書類を処理していたリアは、少しばかり呆れた気分で主君を見やる。
頭の切れと見通す世界の冷徹の割に、リアの主君は、綿菓子の様にふんわりと甘ったるい幻想を、飽きもせず舌の上で転がすのだ。
「我が君の希望に、そいつらが従う義務はないだろう」
「リア、希望するぐらいはいいでしょう。
あの子は、私に優しくしてくれたもの。
別に、私にそうしたって、あの子には、特にいいことなんてなかったのに」
冷めた目でバッサリと切り捨てたリアに、彼女の主君は、むぅっと唇を尖らせる。
「我が君、ベラータ侯爵令嬢とはそれだけだろうが。
数年前に会ったきりで、手紙のやり取りすらない相手でなくとも、彼女の幸せを願うような人間は、他にもいるだろうよ」
「……だって、私と関わりあったら、あの子が不幸になるだけだもの。
優しくしてくれたのに、恩を仇で返したくはなかったわ」
暗く沈んだ主君の声に、リアは慰めもせず、肩をすくめた。
主君が恐れる、考え無しに手を伸ばした先の最悪は、リアがとうに経験済みだ。
鼻の奥、へばりついたままの血臭が、忘れるなと言わんばかりに、リアに存在を主張してくる。
――産まれた時からリアの足元に蹲る、澱んで濁り切った闇も、また。
「『悪の王国』の女王様だもの、私は自分勝手なのよ。
だから、友達じゃなくても、遠くから勝手に幸せになれればいいって思うの」
「……我が君に、友人がいたのか?」
第一の忠臣を自負しながらも、全く頭に入っていなかった情報に、リアは愕然とする。
「――と、ともだちはっ、……い、……ない、わね、………いないけれど、リアがいるし、クライも、ちゃんといるから、いいもの。
……あと、あと、べにひめも、み、みんなも、いる、わよ…………」
情け容赦ないリアの言葉に反駁しようとした主君は、台詞の途中で、手巾に顔を埋めて涙声になった。
リアの主君に、友達はいない。
そもそも、大凶星を宿星とするアレクサンドリア王家の血筋は、友達作りに高い高い壁があるのだ。
代々災いを招くとされ、敵を殲滅してきた『殺戮の覇王』の末裔には、無数の怨讐が絡みつく。
長い年月をかけて醸成された、アレクサンドリアへの負の感情は、覇王に近しい者を奈落に引きずり落とす理由には十分過ぎる。
王の傍らは、余人がほいほい踏み込める場所ではなく、かつての王の伴侶たちとて、王権をもって堅く守られたからこそ生き延びられたのだ。
だから、どんなに図々しい人種がアレクサンドリアの王族の友達面をしたところで、力がなければ、煮詰められた悪意に刈られて無為に死ぬだけだ。
王鞘は、絶対の忠誠と最期の救いを主君に差し出せても、しかし、友とは違うから。
書類を撫でる主君の手が、微かに震えていたことを、リアは言わない。
優しくしてくれた異国の少女と、友達になりたかったのは、本当。
友達になりたかった少女が、不幸になってほしくなったのは、本当。
遠い国で婚約したという、貴族の令嬢が幸せになれればいいと、願ったことも本当だ。
唯一無二たる主君の、本人にさえ顧みられない本当を、覚えておくと、リアは決めた。
――――――――決めたから。
――――――――外れだな、と、リアは温度のない声で胸中に吐き捨てた。
口の中が苦くて、気持ち悪いったらありゃしない。
リアに向けられる幾つもの卑下た目も、乱暴に曝された素肌にこびりついた体液の感触も、ただ不快だ。
主君が友達になりたかった令嬢の婚約者や、その友人だと言うその他に付き合ってみたが、逆に清々しいくらいにろくでもなかった。
大の男が数人集まらなければ、娘一人嬲ることもできなければ、呪毒を使っておきながら、それがなんだか理解していないなど、馬鹿馬鹿しいにも程がある。
こんな奴らとは、接触するだけ時間の無駄だとよく分かって、それだけが今回の収穫か。
床の上に座り込んだリアの頭の上で、無遠慮に無神経な言葉が飛び交う。
高貴さなぞ鼻で笑うような発言の数々を、リアは適当に聞き流していたが、その中の一つが聞き捨てならずに、思わず眉を顰めた。
武門の嫡男が卑しい笑顔で、主君が友達になりたがっていた令嬢をこき下ろす。
夫を必要としなくとも、子を産まねばならないリアと、婚姻までの純潔を重視される令嬢は、違うのに。
これはないな、と、心の中の屑箱に、リアはぽいと投げ捨てた。
「――婚約者が私にも劣ると言うのなら、すぐに婚約を破棄すればよろしいではないですか」
幸せになれればいいと、唯一無二たる主君が願っていたのだ。
敵地に赴いた主君は、だが、ひどく嬉しそうに、たった一人、自分に優しくしてくれた令嬢のことを土産代わりに語った。
主君が、そんなちっぽけな思い出を、削れるばかりのどこかの埋め合わせにしていたのを、リアは知っている。
……その令嬢と同じことが、自分にはできないと、リアは、情けなさを飲み下したから。
だから、これは必要ない。
我が君が友達になりたかった彼女を幸せにしない男なんて、要らない。
本当は、口を挟むつもりもなかったのに、嘴を突っ込んでしまったリアに、自覚はなかった。
その面に浮かんだ魔魅を。
その壮絶な魂の色こそが、地獄の底で咲く花を、悍ましく艶やかに彩ることを。
愛情に何の希望も持たず、自分が愛されるに値するとも、愛されたいとも思わないリアは、だから、己への称賛を表面上しか理解できていないのだ。
朔の夜闇を宿す黒瞳には、見る者まで焼き尽くしそうな、激烈たる業火が燃え盛る。
自らをも焼きかねない黒炎は、けれど、見る者の温度を奪う極寒を孕んでいた。
区別される個から、ただの背景の一部に堕したのだと、紙面の文字の羅列以外の存在だとは、もう認識さえしてもらえないのだと。
おそろしく無情な眼差しは、相手が理解できずとも突きつける。
「私よりましな女など、いくらでもいるのでしょう?」
うつくしき悪鬼は嗤う。
破滅に誘う魔性を、その唇にのせて。
己には、お前らごときに損ねられる価値など無いと、凄絶に。
片腕が欠けた白い裸身は、穢せども侵せないと、見せつけて。
――だからその女に価値はないのだと、愚かな平民将軍程度がお似合いだと、彼らに思い込ませるまでに、深々と爪を立てた。
厭われるのは、当然だ。
狂おしいほど魅了しておいて、微笑み一つはおろか、一瞥たりとも返さないのならば。
憎まれるのには、十分だ。
その存在を問答無用で刻み込んだくせに、崖下へと突き落とす、指一本の労力すらかけてくれぬならば。
違う誰かに夢中になるのは、当たり前だ。
甘美で綺麗な夢に逃げ込まなければ、その心が手に届かない絶望を、嫌でも直視しなければいけないのだから。
……ベラータ侯爵令嬢の婚約者への恋情を、これっぽっちも考えていなかったのは、間違いなくリアの失態であった。
Copyright © 2014 詞乃端 All Rights Reserved.




