閑話:虚ろなる聖女は誰を救うか? 前編
*某ご隠居視点
彼の友人は『鬼』である。
確かに、友人の精神性とそれが根差す振る舞いにより、彼の友人が各所より『鬼』と評されることは事実であるが、そういう意味ではない。
かと言って、――詳しく聞いたことはないものの――友人が、『鬼』と呼ばれる種族の血を受け継いでいる、訳でもなく。
――遠い異国の文化圏で語られる、魔獣とは異なる魑魅の、彼が祈る存在とは違う『神』に近しい魍魎の、けれど、神にはなれなかった『鬼』。
『鬼』は、人ではない。
『鬼』の倫理は、思考は、人と異なる。
しかし、『鬼』は、時に自ら望んで人々の中へ入り込むのだ。
……人とはあまりにも違い過ぎる故に、『鬼』と人との交わりの多くが、いつしか悲劇で終わる、ある種喜劇的な現実があろうとも。
――そうして、人と寄り添うことを選んだ『鬼』を、裏切るのは。
本当はどこまでも誠実な『鬼』の、決して赦せぬ一線を踏み越えるのは、……いつだって、『人間』の側だ。
***
――ひとから、しあわせと言われる人生を送れなくても、結局は破滅するとしても、生きていくのは、これからも最期も、貴方の隣がいい。
如何な恋歌にも負けない程の、痛切な想いが籠った台詞に、なかなかの殺し文句だと、彼は思う。
彼は、政略を以て縁を結んだ正妃や側妃達とは、文字通り、相手の腕の中に飛び込んでいく程の熱情を、お互いに抱いてはいない。
自分についてはその様なものだから、彼は目の前の光景に素直に感心した。
しかしながら。
――地獄、と。
彼が、目の前に広がる惨状に抱いた感想は、一人の女性の一途な愛を混ぜ込んでも、そのままだったけれど。
すり鉢状の処刑場は、底が、観覧席から高く頑丈な壁で隔離され、咎人は逃げることもできずに見世物になるだけの、建設者の性格の悪さが滲み出た代物だ。
凶悪な魔物が跋扈する、竜穴の近場であるせいか、アルトビャーノの罪人の処刑には、竜穴で生け捕りにしてきた魔物を用いる。
無手の、あるいは逃げられぬように拘束した罪人を、数日間絶食させた魔物に喰わせるまでが、アルトビャーノの様式だ。
取り分け表に出してはいないものの、彼の感性では、自国の処刑法は、あまりに趣味が悪いと感じられる。
どうせ聞くなら、彼は、助命の哀願や断末魔の叫びよりも、素人の奏でる陽気な音楽や、見習い歌姫のつたない恋歌の方がずっと良いのだ。
それだけではなく、処刑の一部始終を堂々と公開してしまうのは、民の不満や恐れを残虐な娯楽で解消させる、性根の曲った彼の先祖の怠慢であった。
竜穴の魔物の脅威に晒され続ける、自国の民の心を慰める方法は、何も、いなくなるべきだと断じた誰かを、犠牲にするものである必要はないのだ。
例えば、歌でも、楽でも、絵画でも、――それこそ誰かを想って自らを彩るための装飾品だってそう。
――人の心に光を灯すものは、この世界にいくらでもあって、それらは人に作り出せるものであったというのに。
……アルトビャーノへの影響力が強い『教会』にも、不評極まりない処刑法は、だが、廃絶するには、凡愚の自覚のある彼の手には余る因習だった。
視界の端で、自分から王位を分捕った息子が嘔吐したのを認識し、彼は、育て方を間違えたと、今更過ぎる自覚と共に、天を仰ぐ。
この地は、魔素が凝る竜穴と、そこに住まう魔物と共に在り続けた、――他国よりも精強な魔物達と、常に鎬を削ってきたアルトビャーノ。
その君主たる者、人間だろうが魔物だろうが、たかが皮一枚の下に存在する内容物がそこら辺に散乱したぐらいで、行動不能になってどうするのか。
相手が魔物なら喰われるだけだし、暗殺者だったら殺されるだけだ。
……こんな事なら、残酷だと反対する正妃達には構わず、息子には、竜穴の魔物が狂乱する『沸き』での惨劇を、しっかりと見せておくべきであったか。
――綺麗な遺体の方が珍しい、人魔が入り乱れた激烈な戦いの、あまりにも、あまりにも生々しい残骸が、見渡す限りに転がり、あるいは飛び散って。
――大気を、大地を染め抜いたかと、錯覚する程に濃密な、悍ましい臭気が鼻腔に焼き付いた。
そんな、気の弱い者には拷問にも等しい光景を脳髄に刻み込まれた、幼き日を思い出し、彼は死んだ魚の目になる。
目の前に在る酸鼻の極みに、胃の中を空にしても尚足りず、泣きじゃくりながら悶えた彼は、よりによって実の父親に、頭を鷲掴みにされたのである。
この時、聖書に記された地獄も生温く見える現実から、稚い息子を逃がさなかった父王は、控えめに言っても悪魔だった。
……だから、甚大な心の傷となった光景が頭から離れず、まだ幼かった彼が、しばらく一人で眠れなくなってしまったのも、今は仕方がないと思える。
けれども、追い打ちをかけて最悪だったのが、彼がとうに卒業して久しかった、夜尿の復活であった。
当時、彼は、幼いなりに王族としての自覚と矜持を育てている真っ最中だったのだ。
そして、まだ幼いままの彼にとって、情けないにも程がある己の痴態は、自らの未熟な矜持を情け容赦なくへし折って。
――それまでに経験した覚えのない屈辱感に、彼のココロは滅多打ちにされてしまったのだ。
まさしく、泣きっ面に蜂、という諺が相応しいオモイデである。
ちなみに、当時の侍医には、『沸き』の経験者の中に、自分と同じような状態になる者もいるのだと、慈愛が籠った笑顔で慰められたものだ。
時間が、一番の薬だとも。
が、侍医にとっては、数ある症例の一例に過ぎずとも、彼にとっては、現在進行形の実体験だ。
侍医の、ありきたりをなぞる空っぽな言葉は、彼には、全く響きやしなかった。
むしろ、精神に疵を負った己の乳子を、少しでも安眠させようと奮闘した彼の乳母の、笑えるくらい下手な子守唄の方が、彼の救いになったのである。
――そんなものを自分の息子に味あわせるのはちょっと……、と思った彼は、結局、正妃達に負けず劣らず、息子に甘すぎたのかもしれない。
彼等は、竜穴から逃れられないアルトビャーノで生きていく為に必要な、境界線を見分ける目を、息子に身に付けさせてやれなかったのだから。
彼は、沈黙が支配する観覧席の階段を、ゆっくりと下りていく。
流石に、彼には、息子が権力に物を言わせて寵姫にした女性の様に、半裸で処刑場の底に飛び降りる気も、その度胸もない。
彼女が駆けて行った階段のそこかしこに、息子が最愛の寵姫に贈った高価な装飾品や、煌びやかな衣装の切れ端が散乱していた。
彼が、国を傾けかねないと危惧する、寵姫に対する息子の愛のカタチも、当の寵姫にとっては、走るのに邪魔なお荷物でしかなかった訳だ。
処刑される側とする側が、くるりと反転した処刑場の底は、彼が幼き日に目にした光景と、負けず劣らずの惨状だった。
今、処刑場の底にいるのは、生きている二人の人間と、いろいろなものをぶちまけてしまった、少し前まで魔物であったモノが五頭分。
……何というか、友人の処刑人役であった魔物に、彼は同情を禁じ得ない。
――だって、彼の友人は『鬼』だから。
『鬼神』の二つ名を得る様な『鬼』が、人の手に負える程度の魔物数頭如きに、どうこうされる筈もなかろうに。
そも、愛に狂った息子も、笑えない勢いで馬鹿になっていたのだ。
普通に婚姻が成立していた人妻を、権力任せに己の寵姫として召し上げるわ、止めようとした彼をほぼ強制的に隠居させるわ、寵姫の夫を、王の女に手を出した咎で秘密裏に処刑しようとするわ……。
傾国の美女と言うのは物語の彩には良いが、現実に存在するとなると、ひたすら頭を抱えるしかないと、彼は思い知ることになる。
狂った息子が権力者で、息子を狂わせた当人である友人の妻には、狂わせた相手への気持ちが絶無となれば、優秀ではない彼にはもう手に負えない。
投与した人間の精神を破壊する類の禁薬が、よりによって媚薬として息子に献上された日には、自棄になりかけた彼は、思わず自分で口にするとこだった。
……少なくとも、何も考えられなくなったら、それ以上息子の馬鹿に悩まずに済んだが、うっかり思いとどまってしまったので、今に至る。
……罪人の四肢に絡めた鎖を、魔牛に曳かせて八つ裂きにしてから、それでも死に切れないだろうその者を、魔狼に喰わせて止めを刺す。
それは、一体どこの国のいつの時代の処刑法だと、突っ込むのは置いておくとして。
とりあえず、息子よ、言っても聞かなかったろうが、一つ言わせてほしい。
――お前は、至高合金に比する強度と、その利点全てを覆す重量を有する、重金剛製の蛇腹剣を余裕でぶん回す、『鬼』を殺そうとしたと言うのに――。
血潮の臭気がゆるりと漂ってくる静寂に、ぴちゃりと、雫が垂れる音が奇妙に大きく響く。
処刑される者の声がよく聞こえる様に、――罪人の無様を観客がより楽しめる様に――処刑場の底には、魔法による特殊な処理が施されているからだ。
それ程視力の良くない彼の目は、最早全身、元の色が分からなくなり果てた友人の姿を捉える。
そして、どす黒く染まった友人の口が、澄んだ光を滲ませる何かを飲み込んだのを、彼は認識した。
――重金剛製の鎖も、それを曳ける魔物もいなかったならば、何故、
『アルトビャーノの鬼神』をもっと念入りに拘束しておかなかったのだ……。
観覧席の最下層まで降りきった彼は、観覧席と底を隔てる壁の、柵になった部分に寄りかかり、頬杖をついた。
哀れ、捕食者に繋がれてしまった魔牛は、あるものは、床の上で己の血肉を以て醜怪な花を描き、あるものは、同朋と仲良く一緒に壁の模様と化している。
また、数日ぶりの獲物を待ち望んでいただろう魔狼は、同じく何日か絶食していたらしい友人の、久方ぶりの食事になっていた。
……文明と権力に護られながら生まれ育った彼には、絶対に不可能な、素手で肉を裂くだけの、原始的を通り越して、随分と野性的な食事である。
まあ、竜穴の最深部の魔物を、単独で狩ってくる希少な人材が、彼の友人だ。
竜穴の周縁部で、息子の部下達がやっとせ生け捕りにした程度の魔狼など、おやつと変わらないのかもしれない。
だから、不思議ではあった。
彼の友人は、『鬼』だから。
――徒人と倫理も思考も異なるし、本当は、国なんて必要としない。
きっと、友人が、妻を連れて逃げるのは簡単だ。
それに、一度きりだが、友人は、実際に邪魔な者達を殺し尽くしたことさえあったのだ。
ただ、友人が嗤いながら切り刻んだ人間達は、見事に埃塗れの人種で、どうあがいても処刑場行きであったから、彼も大目に見ることが出来たのだけれど。
「――ヴィル、どうしてこんなことをしたのさ?」
当たり前に、彼は友人に尋ねる。
王としてではなく、貴人のものでもなく、彼個人の、友人に対する口調と声音で。
――土壇場で死を拒絶した理由ではなく、処刑場に引き出されるまで、何もしなかった理由を。
処刑場の底に飛び降りた妻を抱きしめながら、食事に勤しんでいた友人が、ふと、彼を見上げる。
普通に十はサバを読める友人の童顔には、今は凄惨な血化粧が施され、真夜中に出くわしたとしたら、どんな猛者でも腰を抜かしそうな有様だ。
深々と深く朔夜を連想させる、友人の漆黒の瞳は、ただ凪いでいて、己の身に降りかかった理不尽に対する感情は窺えない。
「セイ、お前の顔は立てておくべきだろう?」
友人の答えは、さらりと返ってきた。
夕食にパンを買わなければ、と、日常の会話と大差ない軽さで。
そして、友人の台詞に、彼は両手で顔を覆わずにはいられなかった。
彼には友人の言葉の意味が分かるが、そのせいでココロが痛い。
もう、非常に痛くて、仕方がない。
「……うん、気持ちは、嬉しい、かな?
――でも、私の面子の為に命を懸けられても、嬉しくないというか……」
どうせ、狂人を友にしただけで、ガタ落ちする程度の評価だし。
――彼の器が、人妻への愛に狂うような息子より下だと、周囲に認識されていたという話だけだし。
それが悲しいのは、彼個人の感情でしかないのだし……。
血で汚れ切った掌が、抱きしめた妻の、美しく整えられた白銀の頭を撫でる。
汚れていく髪など気にも留めず、双眸を抉られて尚、他者を狂わせる美を保ったままの女性は、自らが選んだ『鬼』に、しがみ付いて離れない。
「――アルトリアが、幸せなら、俺はそれで良かったんだがな」
「――ヴィルの隣じゃないと、無理」
「……ヴィル、うちの馬鹿息子が馬鹿で、本当にごめん」
囁くような友人の台詞に、友人の妻は涙声で即答し、彼は最大限の誠意を込めて頭を下げた。
彼はもう権力者ではないので、現在の権力者に厭われる『鬼』に頭を下げようと、潰れる面子はどこにもない。
それに、アルトリアが彼の息子の寵姫のままであったとして、幸せになる者は誰もいない。
当の馬鹿息子を含めてだ。
――からくり仕掛けの歌い鳥。
馬鹿息子が作った籠の中で、アルトリアはそうでしかいられなかった。
馬鹿息子から笑えと命じられれば、命じられるままに笑って、話せと命じられれば、命じられるままに話すだけ。
そこに、彼女の言葉は、どこにもなく、彼女の意思は、顧みられることもない。
また、どんな高価な品を贈られようとも、その中に彼女の望みは存在しなかったのだ。
それなのに、馬鹿息子は、馬鹿なりに、愛した女の本当を得られない事に苛立っていて。
――だから、こんな馬鹿げた事態になったのだ。
「……ねえ、ヴィル、もう見限っても良いからね」
流石に、こんな馬鹿息子が治める国に、いてくれと、力を貸してくれと、とてもじゃないが頼めない。
他ならぬ、友には。
「――別に、お前を見限る理由はない」
友人は、彼に向かって微かに笑う。
その笑みに、ほんの少しの、苦さを混ぜて。
「――俺が、お前を見限るまでの、約束だろう」
どこまでも真摯な友人の言葉に、彼は何だか泣きたくなった。
自分が『鬼』の主君になれぬと知って、それでも卑怯な彼は、友人として、『鬼』の誠実に付け込んだのだ。
――自分を見限るまでで良いから、自分が愛するもの達を護るための手助けをしてほしい、と。
……もう二度と、幼き日に目に焼き付いた、あの光景を見ない為に。
「……為政者なんかに、なるものではないね……」
くしゃりと、彼は、片手で自分の前髪をかき混ぜた。
「私は、君がくれる誠実を、国の為にどう利用しようか、考えられずにはいられないんだよ……」
泣き笑う様な表情で、自嘲を零す彼に、友人は鼻を鳴らした。
「利用するのは、お互い様だろうが」
呆れた声の優しさを、友人は自覚しているだろうか?
時に無慈悲に見える程に情の深い、彼の『鬼』は。
痛みを伴う切なさが胸の中を引っ掻き回し、彼は、何れ来る決別を、想わずにはいられなかった。
――きっといつか、友人はアルトビャーノを見限るだろう。
ただ一度、その一度を許せぬ『鬼』の性故に、自分達の裏切りによって。
◆◆◆
――あれ、真実の愛って、なんだっけ……?
目の前で勝手に開幕した茶番劇に、彼は困惑して首を傾げる。
彼の馬鹿息子は、愛に狂って盛大にやらかしていたが、けれど、息子が囚われた愛とやらは、目の前のこれとはまったく別種であった筈だ。
そもそも、だ。
「……ねぇ、ジャネタ。
婚約破棄って、こんなにほいほい出来るものだったっけ?」
通常、王侯貴族の婚姻とは、両家の利益を前提として行われるものだ。
故に、愛だの恋だのは、結婚の成立には全くもって関係ない。
……愛が無ければ、結婚相手を破滅に追いやると噂の、アレクサンドリア王家ではあるまいし。
真実の愛を見つけたから婚約破棄、というのは、三文小説のネタでしかなく、実際にやったら単なる馬鹿だ。
「――あんたが知らないのに、あたしが知る訳ないじゃないかっ!!
あたしゃ、単なる占い師なんだよっ!!」
頭を整理する為に尋ねただけなのに、彼の専属占い師からは、なぜか猫が毛を逆立てた様な反応が返ってきた。
その反応に、彼は、あ、これは駄目なやつかも、と嫌な予感を覚える。
何しろ、彼の専属占い師は、不吉な予兆に関しては、見ざる聞かざる言わざるを貫き通し、更には全力でその場から遁走する性質なのだから。
当人の生存戦略としては正しかろうが、不吉を対処せざるを得ない側からすれば、少々困った人材であった。
Copyright © 2014 詞乃端 All Rights Reserved.




