筋肉妖精と桃色ドレス
忍ばせているはずの足音が、妙に耳についた。
目的の扉が目に入り、知らず、唾液を飲み下す。
この身に帯びた使命の重さは、今更疑うべくもない。
――仕損じることなど、決して、許されないのだ。
けれども、足が重くなるのは、それを果たすことが簡単だとは言い切れないからだ。
脳裏に、世にも悍ましき怪物と、それにも劣らぬ、忌わしい悪鬼の姿がちらつく。
正しき世界を冒涜する、あってはいけないもの達が。
汚濁を振り撒く腐竜を討つ為に、神の御業を穢した魔物は、酷く弱っている。
今こそ、人の皮を被った悪鬼に天罰を下す、絶好の機会であった。
木製の簡素な扉を前に、己に付き従ってきた仲間達と、目配せを交わす。
悪鬼の傍にいるのは、愚かにも欠陥品の娘の皮に誑かされた平民が、一匹だけ。
悪運が強いだけの下民ごときがいなくなったとしても、大局に差しさわりがある訳でもない。
いい加減、片付ける頃合いであったから、丁度良かったとも言えた。
乱暴な手つきで扉を開け――
――目の前にあったのは、深く深く深い、虚ろなばかりの、無明の闇だった。
***
部屋の中に響くのは、二人分の寝息。
人形めいた寝顔の娘に寄り添うように、いかつい顔の男は寝台に顔をつけている。
不意に、男の肩が跳ねた。
そして、獣じみた動きで扉に目をやり、寝台に立てかけた刀に手をかける。
そのまま、何も起こらない空白を、男は、息を潜めてやり過ごす。
「――気のせい、か……」
数十秒程の緊張の後、疲労と共に肩を落とした男は、娘の眠りを妨げぬように、寝台にうちふした。
再び響く寝息に混ざり、ぱたりと、音がする。
細く長い尾が、床を叩いた音だ。
部屋の片隅に凝る闇の中から、二人を眺める黒猫は、硬質な輝きを有する黒曜石の双眸を細める。
***
――腐竜の出現からの数日間、未曽有の事件が発生したにもかかわらず、職務中に堂々と歓楽街に繰り出す人員が続出し、軍では大問題に発展した。
***
ぞわりと背筋を走る感覚は、けれど、不吉を伴うことは無い。
無味乾燥にも程がある、白い部屋には、昼前の温かみの無い光が差し込む。
壁際の簡素な寝台に横たわる、リアの傍らで、ヴォルケは胡乱気に首筋を撫でた。
頻繁に訪れる嫌な予感と、結局何も起こっていない現実が噛み合わず、ひたすらに気持ちが悪いのだ。
今まで信頼してきて、なおかつ、実際に自分を救ってきたものが当てにならない。
その事実は、ヴォルケに、心許なさを伴う底冷えを誘う。
……腐竜の呪詛に中てられて、自分もどこか、狂ってしまったのか――。
そんな、益体もない妄想は、リアの震える睫毛に霧散した。
「――リア?」
ヴォルケの呼びかけに、まだ焦点の定まらない黒瞳が動く。
「……ヴォル、ケ、か……」
ぼうとしたリアの瞳に、人相が悪くなったヴォルケの顔が映った。
腐竜の騒動からの数日間、ほとんど意識のないリアに付きっきりで、自分のことはほったらかしだったことを、ヴォルケは思い出す。
副官の苦言を聞き流していたが、リアに見せる顔ぐらい、もう少しましな状態にしておくべきだったと、ヴォルケは少し後悔した。
「――あれ、は……」
久しぶりに聞けた気がするリアの声は、かすれていた。
「――いくことが、できたのか?」
ヴォルケに問う眼差しは、どこか、遠い。
――あるべき場所へ、逝くことが、出来たのか?
見るに堪えない怪物になり下がった、あの、哀れな真竜は。
「――ああ。
ちゃんと、眠れたよ」
ヴォルケに言えたのは、自分が見た事実だけだった。
腐り果てた竜の亡骸は、どう頑張っても、もう動けやしない。
だから、まあ、永遠に眠るのと、大差ないだろう。
……聖職者ではないヴォルケには、魂の在処など分からない。
けれど、彼の竜が、逝くことが出来たと、信じたい。
ただただ同朋を悼む、真竜達の葬送の歌が、無意味だったと思いたくはなかった。
「そうか」
その一言にこもったのは、安堵だったのか。
静かに閉ざされた、リアの瞼の裏にあるものを、ヴォルケは窺い知ることはできない。
それでも、温もりを確かめる為に、ヴォルケはリアの頬を撫でた。
と、バタバタと近づく足音がした。
「――リアちゃん大丈夫ぅっ?!」
部屋に響いただみ声に、ヴォルケは、このまま眠ってなかったことにしたいと、切に願う。
――色々台無しだよ、こいつ……。
部屋に現れた人物の、相変わらずな視覚的生体兵器ぶりに、ヴォルケはげっそりした。
……別に筋肉もつるっぱげも良いのだ。
背中についている、単品でなら乙女な妖精を彷彿させる薄羽も、そう言う種族なのだから、仕方がない。
しかし、しかしだ。
「スウリ」
リアの声は、恐らく、体調とは別の要因で低くなっていた。
「……お前、その格好でここまで来たのか?」
「もちろんよっ!」
ばつんっと閉じられた片目に、ヴォルケは衝撃を受け、口元を押さえる。
不味い、吐き気が。
――お化けと化した化粧+お姉言葉+女性的な仕草が、見た目の破壊力を相乗効果で引き上げているのだ。
リアの同郷のひとに対して申し訳ないのだが、初めて見た時、ヴォルケは大事なものを蹂躙された気分になった。
「まあ、そんな事どうでもいいじゃない。
これでも着て、元気出しなさいな。
着心地は身を以て確認済みよんっ。
それに、体力回復効果も付与してみたのよ、うふっ」
輝く笑顔で、ひらひらぴらぴらの桃色ドレスを見せびらかすスウリさんから、ヴォルケはそっと目をそらす。
ごめん、その組み合わせは、ちょっと――どころではなくないから。
スウリさんが身に纏う、桃色衣装と同じく布地で縫製されたらしいドレスは、乙女の夢に出てきそうな代物だ。
ただの桃色一辺倒ではなく、綺麗な緑の差し色や、朝露の様な宝玉を散りばめた装飾のおかげで、可憐な花の精の様な印象を受ける。
黒衣ばかりを身に着けるリアは、肌の色が白いので、案外、この桃色ドレスが似合うかもしれない。
甘いばかりではないドレスに、リアの凛とした表情が映えるだろう。
……だが、悲しいかな、如何に素敵なドレスと言えど、筋肉妖精が掲げると、手に持つ人物の見た目の威力を増強するだけだった。
「……そんな戦い辛そうな服、誰が着るものか……」
リアは、ぐったりしながら言い返す。
腐竜との戦闘で削られた体力は、まだ戻ってきていないらしく、常には覇気を伴うその声に、力は無かった。
Copyright © 2014 詞乃端 All Rights Reserved.




