悪鬼は、うたう
本日2回目の更新です。
霊鳥の出現により弛緩した空気を咎めるように、腐竜とは別種の啼き声が、闘技場を揺るがす。
低く重いそれに、恐慌する人々を余所に、ぐるりと、腐竜の首が動く。
向いた先は、自らが這い出た穴の底。
ただの穴であった筈のそこは、いつの間にか、一切の光を飲み込む闇が湛えられていた。
ぽこり、と。
聞こえた音は、リアの幻聴だったのか。
日の光の中、一瞬にして膨れ上がった底無しの闇は、未だ燃え盛る浄炎をものともせず、腐竜を鷲掴みにする。
腐竜は濁った呪詛を吐きながら身を捩るが、巨竜の腕と化した闇の塊は、小動もせずに、穴の方へと腐竜を引き摺っていく。
湿った音と、乾いた破砕音を混在させながら、巨竜の掌が、腐竜の身体を握り潰した。
しかしながら、黒主の垂れ流しの魔力を喰らってか、腐竜の抵抗が止む様子は見当たらない。
腐竜の体液と共に広がる腐臭は、フィオの浄化の炎により、すぐに焼かれて薄くなる。
腕だけを顕現させた巨竜の、べとりと黒い鱗に、幾つもの爆炎が花咲いた。
本当に懲りずに攻撃してきた聖女様(笑)の取り巻きに、リアは苛立った目を向ける。
あの阿呆は、敵味方の区別もできないのか。
黒主は何の痛痒も感じていないようだが、無意味に元気になった腐竜の抵抗が激しくなっている。
と、偉そうに詠唱をしていた魔導士が、急に顔を蒼褪めさせ、ひっくり返った。
邪魔者が消えて何よりだが、死んだら死んだで、後々面倒だ。
「――碧君?」
『殺してはいないさ。
酸素濃度を調節しただけだとも』
低く問うリアに、碧君が肩を竦める気配。
流石は、風を統べる竜と言うところか。
人一人を殺さない程度に、大気の構成を調節してのけるのは、古竜にしては器用だと言う他ない。
黒主が腐竜を移動させた方向には、丁度、ウサギ型の着ぐるみを着た白姫に治療されている、クロードが転がっていた。
何故か、着ぐるみ達の周辺だけ、緊迫感が行方不明である。
不意に、黒主の掌が、鷲掴みにしていた腐竜を放した。
鱗に覆われた闇色の腕が、ずるりと穴の底に引っ込む。
その、次の瞬間。
腐竜に行動させる隙を与えぬままに、黒主の腕は、穴の底から浚った『砦崩し』を、腐竜に叩きつけた。
重金剛の長大な剣の、超重量を受け止められる程、腐竜は力強くも頑丈でもなかった。
腐竜の半身が弾け飛び、一瞬だけ核が剥き出しになる。
露わになった紫闇の光は、瞬く間に黒い紋様に覆い隠された。
黒主の腕が、穴の底に沈む。
「――フィオ、火を消せっ!」
リアの鋭い命に、炎色の霊鳥は一鳴きすることで応える。
闘技場から浄炎が消え去り、観客席からは絶望の声が上がった。
――これで。
リアは武者震いと共に、深呼吸をした。
腐竜に魔力を供給するものは、無くなった――。
地面にのめり込んだ『砦崩し』の鈍色の柄を、クロードの両手が引っ掴む。
瞳の色の隠蔽に気が回らなくなったのか、クロードの双眸は、生来の黒と緑に戻っていた。
そうして、クロードの瞳孔が、縦に引き裂かれる。
黒髪の青年の喉から、人ならざる咆哮が迸った。
腐竜が態勢を立て直すよりも、クロードが『暴食鬼』の遺産を振るう方が早い。
激突の結果は、酷くあっけなく。
闘技場の床に、壁に、腐竜の体液や肉片が撒き散らされる。
再び、腐竜の輪郭がごっそりと欠け落ち。
――それに合わせ、リアはその喉を震わせた。
忘れもしない、記憶に刻まれた歌声に旋律を沿わせて。
謡い。
謳い。
うたう。
清冽な歌声が、闘技場の底から、湧き上がった。
……その歌声を耳にした瞬間――。
ある者は、愕然と立ち尽くし。
また、ある者は、嬉しそうに笑顔を浮かべた。
そして、『神の目』は。
「……ウェイン伯……」
女司祭は力無く呟くと、痛まし気に、塩と化した両眼の瞼を下ろす。
「申し訳、ございません……」
謝罪の言葉は余りにもか細く、堂々と響き渡る歌声にかき消され、何処にも届かない。
――その時、闘技場を駆け巡ったのは、二十年前に絶えた筈の、『教会』の聖人達が歌い継いできた、浄化の聖歌であった。




