無知は崖の向こうへ背中を押す
膠着しつつある戦況に、眉を顰めるリアの耳に、朗々とした詠唱が届いた。
――『教会』の法術。
その使い手たる『神の目』は、顔を覆っていた眼帯を取り払い、素顔を晒している。
そして、『神の目』の傍らには、透き通るヒトガタが佇んでいた。
背にある、背丈を凌ぐ大きな翼に、髪の長い女に似た。
――天使招喚。
『教会』によって、神の御遣いと定義付けられている異界の存在は、確かに美しくはあったが、見る者の心に己との隔絶を抱かせる。
それ故に、天使への――ひいては、それを喚び出し得る『教会』への、畏怖が形成されやすいのだろうが。
悪魔と呼ばれる存在同様、強大な力を振るう天使は、ほいほい招喚できるものではなく、その代償は、『神の目』の身に刻み付けられている。
女司祭の、塩の結晶と化した両眼が、美しいと分かるのに、酷く朧な天使の顔に向けられた。
世界に溶け合うことの無い異質が、そっと、片腕を上げる。
――空間が変質していく。
澱から、不必要な淀みを剥ぎ取る浄化とは、根本的に異なる事象。
魔素を染め上げる、誰かの思惟の残滓が、なかったことにされていく。
それでも、大概の人間には区別がつかないから、これもまた、浄化に括られるのだろう。
薄れる澱に、腐竜が苦悶の声らしきものを上げた。
クロード達に加え、ヴォルケも自棄気味に混じり、容赦なく袋叩きにされる腐竜に追い打ちをかけるように、輝きを失った鱗の隙間に光の矢が突き刺さる。
『神の目』に押し付けた袋の中に入っていた、浄化の弓が作り出した代物だ。
リアは隻腕だし、そもそも王鞘は近付いて攻撃すれば手っ取り早いの精神で、飛道具は使わないが、ヴォルケの副官は中々の腕らしい。
クロード達が作り出した傷を、浄化の矢が広げていく。
状況を自分達側に傾けるべく、リアは《風蓮》を構えた。
――だが、リアが魔法の発動する気配を感じ取ったことにより、緑の刃は振るわれずに終わってしまったのだ。
『――魔法は止めるっ!!!』
黒賢の、鋭い制止の声は、届かない。
勘のいいヴォルケは、その前に腐竜から転がりながら離れ、ご隠居の護衛は得物の間合い故に、効果範囲から逃れ得た。
「――え――」
腐竜の上に乗っていたクロードは、くっつけていた着ぐるみ達諸共、飛来した爆炎の中に呑まれたのだった。
***
――何が悪いと言えば、ただ、無知だったというだけだ。
彼等は、腐竜がどんなものか知らず、どこからともなく響く警告の、声の主を知らなかった。
警告の真偽を問う術を知らず、そもそも、誰が何をしていたかも知らない。
また、澱がどんなものか、知らなかったが為に、目の前で起こっている光景が、何処に終着しかねないかにも思い至らなかった。
リアにも、手落ちはあったのだろう。
彼等の無知を知りながら、互いの間に横たわる断絶を乗り越える手間を惜しみ、分かり合う可能性を、初めから切り捨てていたのだから。
――まあ、大事なもの以外は無価値と見做す王鞘が、敵と認識した人間と仲良くなった例など無かったし、恐らく、これからも無いのだろうけれど。
ただただ、己の無知を知らなかったせいで、彼等は、自分達にとって都合の良い『真実』を作り出し。
……そうして、崖の向こうに自らの背を押し出してしまったのだ。
***
くるり、くるりと、黒い紋様が宙を滑る。
無傷の腐竜から、剥がれ落ちる様に浮き上がる紋様は、どこか、舞を舞っている風にも見えた。
「――くそったれ」
苦労して付けた腐竜の傷が消え去ったことに、リアは歯噛みする。
黒賢の声を聴いていなかった馬鹿共のせいで、リア達の苦労が水泡に帰してしまったではないか。
何故かリア達を、腐竜を招いた犯人扱いしているのは、聖女(笑)の取り巻き達だ。
――騒ぎ立てる前に、観客席の非戦闘員の避難誘導やら、やる事があったろうがと、リアは苛立つが、『神の目』を突き飛ばした馬鹿共の顔は得意げだ。
極度の集中を必要とする、天使招喚を力尽くで妨害されたせいで『神の目』は、床の上に蹲ってしまっていた。
天使招喚と言うものは、効果に比例して術者への反動も大きいのである。
……それを、分かっていたのか、いなかったのか……。
ヴォルケの副官が抗議しているようだが、それに対して刃を向ける様な人種では、言葉など端から通じまい。
ぞくり、と。
リアの背筋に悪寒が走る。
弾かれるように、腐竜へと目を向ければ、黒い紋様が虚空に陣を形成しているのが見て取れた。
不味い。
予感と共に、リアが《風蓮》を振るったのと、紋様の色が変化したのは同時。
《風蓮》が作り出した風の壁に、腐竜に向けられた爆炎を、裏返して肥大させたような猛火が、幾つも幾つも花咲いた。




