閑話 黒衣の聖女と炎色の霊鳥
娼館の女主人である彼女が、嫌々契約書を携えて足を踏み入れたのは、ローディオの王都内でも、貴族街に程近い、閑静な住宅街にある店だった。
辺りに漂う宵闇は、着慣れない彼女の衣装を、他者から視認し辛くし、彼女への精神的圧迫をいくらか緩和していた。
落ち着いた色調ながらも、上品な佇まいの建物の入口には、躾の行き届いた門番が配置されており、本日入店できる資格がある者か否かを、選別している。
門番は、仮面をつけた彼女の姿に動じることなく、彼女が示した『赤竜』を確認すると、礼儀正しく扉を開け、店の中へ彼女を導いた。
貴族も利用することがあるという、その店は、入口の見た目の割には面積が広く、中には既に幾人もの人影があった。
立食形式の宴会場にいる者達は、いずれも顔を隠すような衣装を纏っていて、彼等の相貌を確認することはできない。
服装は自由、という規定に甘え、自分と同じ判断をしたのだろう。
彼女もまた、『責務者』であることを、例え同類相手でも、大っぴらにしたくはなかった。
また、参加者だけではなく、給仕の人員も、喜劇役者の様な仮面をつけており、会場は仮面舞踏会を思わせる様相を呈していた。
しかしながら、参加者同士、暢気に談笑を楽しむ雰囲気でもなく、会場の片隅で控えめに奏でられる音楽が、何処か虚しく響く。
自棄気味に口にした料理も酒も、まごうことなき一級品で、今回の催しに惜しみなく金をつぎ込んだらしい『取立人』の酔狂に、彼女はいっそ感心した。
――緑の外套の男は、恐らく、食料品の最大手の卸問屋の主人。
――老舗の薬屋の女主人は、指に光る指輪の印章のせいで、被った面紗が意味を成していない。
暇潰し代わりに、娼館の経営者には必須の観察眼を以て、彼女は他の参加者に当たりをつけていく。
その多くが、この国でも相応の地位を占める、――逆に言えば、追い落とされれば、少なからぬ混乱が起きかねない人物達であった。
その事実に、彼女はぞっとする。
――『赤竜』の契約書は、一体どこまで、ばら撒かれているのか。
裏を返せば、――あの少女は、どれ程の札を、隠し持っているのか。
彼女が『責務者』になったのは、それ程昔の事ではない。
そうなったのは、五年前、高級娼館が軒を連ねる色街を、大規模な火災が襲った直後である。
彼女が先代から譲り受けたばかりだった、娼館を襲った災禍は、秘密裏に他の店を訪れた異国の要人を標的とした襲撃の余波が、予想外に広がった結果だった。
そこまでして、暗殺は成功しなかったというのだから、要人の護衛が優秀だったのか、襲撃者が馬鹿だったのかは、彼女には判断しかねる。
まあ、襲撃者の頭の中身は兎も角、その火災で彼女の娼館は全焼し、再建には、莫大な費用が必要になってしまったのであった。
黒衣の少女が、彼女の前に現れたのは、彼女の城が失われて、一週間と経っていない夜更けであった。
火災の後始末と、再建の展望を描くために、寝る間も惜しんで働き続けていた彼女の部屋に、気が付けば、いた。
ただ、彼女が気付かなかっただけなのか、転移魔法でも用いたのか、その辺りは分からない。
けれども、暗がりに佇む黒衣の人影を目にした時は、死神なのかと、彼女は本気で勘違いした。
無残な程に短い黒髪に、漆黒の男物の衣装。
一瞬、少年のようだと思った面差しや体躯は、しかし、よく見れば、少女特有の柔らかさを兼ね備えていた。
年の頃は、十代半ばあたりか。
地味に整っている少女の容貌は、相応しい衣装に化粧を施せば、さぞかし映えるだろうと思ったのは、高価な華を抱える彼女の職業病の様なものだ。
少女の、朔夜の闇を思わせる漆黒の瞳は、その色の暗さとは対照的に、強い光を内包していた。
でも、それは、彼女が良く知る夜の蝶達の輝きとは、違う。
危うい、酷く危うい、以前、物好きな彼女の客に見せられた、使用者の命を啜るという、魔剣が放つ其れにも似て。
――ああ、これは、自分とは違う生き物だ、と。
そんな事を、彼女に突き付けた。
彼女の戸惑いには、頓着せず、突然目の前に現れた少女は、単刀直入に切り出した。
――こちらが出す条件を呑めば、必要な金を、必要なだけ出してやる、と。
少女の、同年代の娼婦見習いよりも低めの声は、未だ災禍の名残にざわつく色街の片隅で、よく通って聞こえた。
突然現れた不審者の申し出に眉を顰める彼女に、少女は重ねて言い放つ。
単なる嫌がらせだ、と、唇を歪めて。
詳細を少女が語ることはなかったし、彼女も聞きたくもなかったが、少女は火元となった娼館に、何やら思うところがあったようだ。
その為、競合する彼女の娼館に援助をし、速やかに再建させることで、災禍の原因である店への嫌がらせをするつもりだったという。
また、一体どうして、少女が、彼女の娼館を援助する気になったかと言えば、総合的に見て一番まともだったから、らしい。
……何がまともかは、あえて聞かなかった。
経営状況が、だったら、彼女の精神衛生的に、嬉しいのだが。
少女の申し出が嘘だとは、彼女は疑わなかった。
それこそ、貴族間の政争に巻き込まれないよう、裏町の勢力争いに巻き込まれないよう、先代も彼女も、精一杯努力してきたのだ。
苦境にわざわざ手を差し伸べ、後で陥れる様な陰湿な敵を、彼女は作ってきたつもりはない。
それに、戦いに関しては、素人でしかない彼女だったが、少女は彼女の嘗ての客と同じく、地獄を知る目をしていた。
もし少女が彼女の店を疎ましく思うなら、さっさと手を下すのが一番手っ取り早いのだから、意味のない嘘など、きっと言わない。
結果として、彼女は、少女の申し出を受け入れた。
受け入れざるを得なかった。
彼女へ援助の申し出はいくつもあったが、いたって単純な条件と、全てを喪う可能性を引き換えにする少女の話が、最もましだと思ったからだ。
裏町の組織の傘下に下ったり、彼女の後輩を変体貴族に売り払ったりするよりも、ずっと。
そうして、鞘を咥える赤竜の紋章が描かれた契約書に、彼女は署名した。
――アレグザンドラになる、と。
名乗りの代わりに、そう口にした少女と、彼女が会ったのは、それきりだ。
金銭のやり取りは、使者を介して行われ、彼女の元へ少女が再び訪れたことはない。
王都にある高級娼館の中でも、当時は中位程度でしかなかった店の女主人では、少女が口にした言葉の意味を理解するのに、しばしの時間を要した。
朧気ながらに、彼女が少女の正体を察した後、思ったものだ。
……身近な誰かを幸福にするには不向きだろう、あの少女の本当の名前を、当たり前の様に呼ぶ人間はいるのだろうか。
どっしりとした置時計の、時を告げる重厚な鐘の音に、彼女は追憶から現実に引き戻される。
気が付けば鳴りやんでいた演奏に、違和感を覚え、彼女は異変に気が付いた。
会場の奥、誰も、何もなかった場所に現れた、優美な形をした長椅子。
幾つも積まれたクッションに凭れるようにして、黒衣の人影が座っていた。
随分と性質の悪い冗談だ、と、彼女が思ったのは、長椅子に座っている人物の衣装が、それなりに有名な絵画のものと同じであったからだ。
巨匠が死ぬまで手放すことのなかった、『虚無の聖女』の漆黒の聖衣と、同色の面紗。
纏う者の顔を覆い隠す面紗にしろ、『教会』から背信との勘違いを受けかねない、漆黒の聖衣にしろ、明らかにノリや遊びでは使わない様な質の生地を使用している。
手元に髑髏の灯も、白い聖花も無いあたり、そこまで再現性に拘ってはいないようだが、救済と破滅を同時に招く娘の姿を模したものでは、彼女が深読みしたくなっても、仕方があるまい。
凝視する彼女の前で、面紗から覗く花の色の唇が、薄い笑みを描く。
「――今宵は、招きに応じて頂き、感謝しよう」
『虚無の聖女』の仮装をした人物の、女にしては低めの声は、人が増えた会場の中で、よく通った。
明らかに若い娘の声に、幾人かの参加者達は、動揺したようだった。
聖女と言うよりは、大貴族の当主の様に、泰然とした娘の物腰は、彼女に娘の考えを読み取らせない。
「この国の上層部は、戦争をしたいらしいが、私はそんな面倒なことは御免だ」
彼女が約五年ぶりに目にした相手は、現れ方も、話の切り出し方も、相も変わらず唐突だった。
自分から招いた相手に対して、どうにも無頓着な主催者に呆れる前に、彼女は戦争という言葉に眉を顰める。
彼女の商売は、戦争が始まれば、客が減る類のものであったからだ。
戦中と言うのは、無駄な奢侈が忌避されるし、前線に駆り出されたり、城に籠りきりになったりで、客自体の数が減るのだ。
それ故、彼女は、戦争は御免だという、黒衣の娘の意見に賛成であった。
黒衣の娘は、長椅子に座ったまま、肩を竦める。
「まあ、貴殿らが面倒事に喜ぶほど馬鹿ではないと思いたいが、他人に強制する趣味はない。
戦争を始めたいと考えるのならば、好きにしろ。
――私を敵に回すも、回さないも、貴殿らの自由だ」
性格が悪い。
彼女は、顔を引き攣らせた。
この場にいるのは、娘を敵に回した時点で、破滅する人間だけだというのに、何が好きにしろ、だ。
見えない鎖を首に巻き付けておいて、自由も何もあるまいに。
成程、これは警告だ。
『取立人』から、『責務者』からへの、開戦派へ利する行為は、許さないという。
と、娘の隣の空間が、唐突に燃え上がった。
何もないはずの虚空に噴き出した火炎に、ぎょっとした彼女の耳に、妙なる響きの音が届く。
「フィオ」
娘が、咎める様な声で、それを呼ぶ。
娘の膝に着地したのは、白鳥ほどの大きさの、炎色の鳥であった。
優美な長い首に、頭には飾り羽。
真っ黒のつぶらな瞳には愛嬌があり、これまた長い尾羽が、機嫌良さ気に揺れていた。
老画伯の手により、『虚無の聖女』に描かれたままの、炎色の霊鳥。
何もない場所に突然現れる鳥が、ただの無力な鳥であるとは思えない。
恐らくは、魔獣。
それも、転移魔法を行使可能な程、高位の個体だ。
能力と知性の高さにより、容易に人に懐かないはずの高位魔獣は、しかし、甘えるように娘に頭をすり寄せる。
仕方ないという様に、娘に顎の下をくすぐられ、霊鳥は嬉しげな声を上げた。
今は亡き画家が、何を想って『虚無の聖女』を描き上げたのかは、彼女には分からない。
ただ、『虚無の聖女』の様に、黒の聖衣を纏い、炎色の霊鳥を侍らせた娘に、己へ破滅を招いてくれるなと、王都一の娼館の女主人は、願うことしかできなかった。




