第2話 猿の就職
ヒデヨシが立ち上がると、倉庫側の男が振り返った。
抜き身の刃を下げたまま、弟のそばを離れ、石畳の血だまりをまたいでくる。
「胸を刺されたやつが、何で立っていられる」
ヒデヨシは返事をせず、右へ半歩動いた。荷車へ通じる道を塞ぐように見せると、
通りの中央にいた男もこちらを向いた。姉妹を押さえる男はまだ荷車の脇にいる。
アサヒの手を握ったトモが、踏み台の上から弟の方をうかがっていた。
〖半兵衛… 倉庫側の男が離れました。弟君から荷車の後ろまで、今なら通れます〗
ヒデヨシは、弟にだけ見える高さで手を下げ、指先を荷車の後ろへ向けた。
弟は痛む腕を胸に当て、倉庫の壁を頼りに身体を起こした。
その動きが敵から見えないよう、ヒデヨシは男の前に立ち続けた。
【官兵衛… 目の前の男は刃先を上げる前に、右肩を引きます。
御館様の胸を狙うなら、最初の一振りが来るまでに懐へ入れます】
男が右肩を引いた。ヒデヨシは刃の届くところへ踏み込み、
振り下ろす腕を肘の下で受けた。胸に痛みが走る。
止めた腕を抱えたまま相手の脇へ回り、足を払った。
男の背が石に落ち、刃が手から離れた。拾う代わりに靴先で倉庫の戸口へ滑らせる。
二人目は仲間が倒れる前に走り込んでいた。上着の下で金具が鳴る。
正面から胸を打っても厚い防具に当たる。ヒデヨシは伸びてきた手をかわし、
相手が踏み込んだ側へ身をひねった。前のめりになった男の腕を引き、
肩から荷車の側板へぶつける。車輪が揺れた。
男は側板をつかんだが、ヒデヨシがその手を外すと、膝から崩れた。
「手を出すな!」
三人目がアサヒの肩へ腕を伸ばした。トモが妹を引き寄せ、間に自分の身体を入れた。
その分、男はトモの手首を強くつかみ直し、ヒデヨシへ背を見せた。
〚金兵衛… 御館様、荷台の下に縄があります。
姉君の手が離れたら、商人を縛るのに使えます〛
『覚えておこう。まずあの手を離させる』
ヒデヨシは荷車と壁の間に入り、男が振り向くより早く手首をつかんだ。
トモをつかむ指が開いたところで、男の身体を荷車から引き離す。
肘が飛んできた。首を引いてかわし、相手が壁に足をつく前に腰を落として投げた。
男は起き上がろうとしたが、腕に力が入らず、石畳に手をついたまま動きを止めた。
「トモ、アサヒを連れて石段へ!」
弟が車輪の陰から手を伸ばした。アサヒがその手を取り、トモが妹の背を支える。
三人が石段の方へ退いたのを見届けると、ヒデヨシは荷台の向こうに目をやった。
奴隷商人が駆け出していた。港へ下る大通りを避け、倉庫の間へ身を滑り込ませる。
〖半兵衛… その路地は海へ抜けます。荷車の前を回れば、出口に先回りできます〗
ヒデヨシは通りへ出て、倉庫の角を曲がった。走るたびに胸へ痛みが響いた。
路地から出てきた商人は、目の前に立つヒデヨシを見て慌てて向きを変えた。
上着の裾を引かれると、片足だけが先に進み、尻から地面へ落ちた。
「金なら払う。いくら欲しい」
「その話は衛兵にしてくれ」
逃げようとした腕を背に回させ、荷車まで歩かせた。
荷台の下から引き出した縄で両手を縛る。
指が震えて結び目を締め直す間、石段からアサヒの声がした。
「兄様、もうこっちへ来てもいい?」
「俺が行く。そこで待っててくれ」
石段まで来ると、弟が座ったまま顔を上げた。
自分の腕を押さえていた手をいったん離し、先に二人を見てくれと促す。
「トモ姉さん、アサヒも無事だ!」
「ヒデナガ、あなたも傷は大丈夫?」
ヒデヨシは、弟の名を聞いたところで足を止めた。
トモ。アサヒ。ヒデナガ。姉と妹と弟が一人ずつ。
その三人の名まで、前世の姉弟と重なった。前世の弟の顔を思い出したとたん、
目の前の青年が、どうしてそこで止まるんだと言いたげに首をかしげた。
『何の因果か。余はまた、この三人と兄弟になったのか』
「兄上。胸、見せてくれ」
「その前に腕だ。指を動かせるか?」
弟が指を曲げ伸ばしする。トモが袖をめくって傷を見た。刃は腕をかすめただけで、
血はほとんど止まっていた。アサヒが差し出した布をトモが巻いてやると、
ヒデナガは痛いと顔をしかめながらも、ありがとうと妹に笑った。
「ヒデヨシ、あなたも座って。立っているだけでつらそうよ」
ヒデヨシは石段に腰を下ろした。アサヒがそばへ来て、兄の服をつまむ。
荷車の前で伸ばしかけて届かなかった手だった。
袖をつまんだまま離れないので、ヒデヨシは空いている手を差し出した。
「兄様、来てくれてありがとう」
「怖かったな」
アサヒは一度うなずき、つまんでいた袖を放して、その手を握った。
通りの先には港湾区の衛兵詰所があった。ヒデヨシは家族と一緒にそこまで行き、
縛った商人を入口へ連れていった。戸口の衛兵は縄を見ると顔をしかめたが、
商人の顔を見たとたん、すぐに中へ通そうとした。
「この男が姉と妹を船に乗せようとした。荷車のところに護衛が三人いる。
弟も俺も斬られた。調べてくれ」
衛兵は血のついた衣を一瞥し、縄の結び目へ手を伸ばした。
「荷車の前で揉めたぐらいで、いちいち連れてくるな。縄を解け。あとは俺が話を聞く」
「誰の話を聞くんだ。俺たちの名前も聞いてないだろ」
商人は、それまで見せなかった笑みを浮かべた。衛兵に近づき、声を落とす。
「いつものように頼みますよ」
衛兵は商人の顔を見ずに、小刀を抜いた。
縄に刃が触れる前に、ヒデヨシはその手首をつかんだ。
衛兵は手を引こうとしたが、ヒデヨシは放さなかった。
「お前、こいつから金でももらってるのか?」
「なんの言いがかりだ。貴様、衛兵に手を上げたらどうなるか分かってるのか」
「こっちは家族がさらわれかけたんだ。お前がその縄を切ったら、
こいつは別の誰かを連れていく」
衛兵は返事をせず、もう片方の手でヒデヨシを押しのけようとした。
ヒデヨシは胸の痛みで半歩よろめいた。商人がその間に戸口を抜けようとする。
ヒデナガが戸の前へ回って行く手を塞いだ。
衛兵は弟の腕の布を見て、そこをどけ、さもなければお前も捕らえる、と言い放った。
ヒデヨシは衛兵の腕を払い、拳を握った。
「待て!」
通りに響いた声で、拳が止まった。黒い装いに金の飾りを付けた若者が、
通りの真ん中を歩いてきた。腰には刀がある。
抜く気配もないのに、衛兵は若者の顔を見るなり肩を震わせ、小刀を下げた。
「何事か」
「お前には関係ない! 俺はこの腐った衛兵と話をしている」
若者の口元に笑みが浮かんだ。ヒデヨシの拳と、その後ろにいる三人を順に見た。
「そうか。では、何があった?」
同じことを聞かれたのに、さっきより答えやすかった。ヒデヨシは拳を下ろした。
「この男が護衛三人を連れて、姉と妹を船に乗せようとした。
俺と弟は止めに入って、殺されかけた。捕まえてここへ連れてきたら、
その衛兵が話も聞かずに縄を切ろうとした」
「誠か?」
若者が衛兵へ向き直った。衛兵は二度口を開いたが、最初の言葉が出ない。
ついにその場で膝をつき、額を石畳にこすりつけた。
「申し訳ございません。金を受け取っておりました。船が出る時刻に見回りを外せと。
今日は縄を切って帰すつもりでした。どうか、命だけは……」
若者は衛兵を蹴り飛ばした。石畳に転がった衛兵へ歩み寄ると、足を止めた。
「貴様が見回らなかった間に、何人が連れ去られた。知っていることを全部話せ」
通りの向こうから数人の衛兵が駆けてきた。先頭を走る男は銀の髪を後ろへ流し、
額の黒い結び紐に金の飾りを留めていた。
詰所の前に倒れた衛兵と、縛られた商人の位置を確かめてから、若者のもとへ来た。
「殿、ご無事ですか。このような場所におられましたか」
「ミデオン。来るのが遅いぞ。ここには俺より足の速い男がいる」
若者はヒデヨシに目を向けた。
「貴様が一人で護衛三人を倒したのか?」
「ああ。だがお前には関係ない」
「お前、誰に口をきいている!」
ミデオンが一歩進み出た。若者が片手を上げると、その足が止まった。
「その三人なら俺も見聞きしたことがある。商人の傭兵をしておる者共だ。
この港では武名と悪名で名が通っている。この三人を一人で相手にするとは、
貴様、なかなか腕の立つ、面白い猿だな」
「誰が猿だ」
「貴様だ、猿。猿、俺に仕える気はないか?」
「ない、断る」
ミデオンの眉が動いた。今度は叱るより先に、若者が声を上げて笑った。
つられかけたアサヒが、トモの背へ隠れて口元を押さえる。
「貴様はここの生まれか?」
「俺も知らん」
若者は今度こそ腹を抱えて笑った。ヒデヨシは問い返そうとして、口を閉じた。
荷車の陰にいた弟を見て家族だと分かった。トモが食卓に椀を並べる姿も思い出せる。
だが、それより前のことを探ろうとすると、港の景色が浮かぶばかりで、
生まれた場所には行き着かなかった。
「では、仕事は?」
ヒデヨシは黙り込んだ。思い出せる食卓には、仕事を終えて帰るトモがいた。
弟が自分の取り分を妹へ分けていた。
自分がどこかへ働きに出る場面は、どう探しても浮かばない。
「どうせ職もなかろう! 俺のもとへ来い!」
勢いに押されて答えそうになり、ヒデヨシは弟の腕を見た。
巻いた布の端を、ヒデナガが指で押さえている。肩を並べて帰るには近い距離だった。
だが家へ帰ったあとも、また誰かが戸を叩くたびに、
三人は今日のことを思い出すだろう。
「俺一人なら、どうとでもなる。でも、家族がいる」
若者の笑いが止まった。
トモとアサヒを見て、それから戸の前を離れないヒデナガを見た。
「なら、家族が暮らしていけるように働け。今日の事件もそのままにはしておかん」
若者はミデオンを振り返った。
「商人と衛兵、両方を拘束しろ。見回りを外した日と、
商人が使った船を一つずつ照らし合わせろ。家族には誰にも手を出させるな」
「承知いたしました。二人は別々に取り調べます。
家族が帰る道には、こちらから人を出します」
「船のことなら、私もお話しできます」
トモがアサヒの肩に手を置いたまま前へ出た。
荷車に引かれながら、商人が船を待たせていると言うのを聞いたと話した。
アサヒも、港へ下りる道を商人が指さしたときのことを覚えていた。
「大きな通りの方。あの人、急げって」
ミデオンは二人の言葉を聞き終えると、部下の一人に、
船着き場へ行って出港前の船を確かめるよう命じた。
ヒデヨシが詰所で話そうとしたことが、今度は実際に人を動かした。
アサヒは衛兵が走っていくのを見て、トモの背から半歩、横へ出た。
ミデオンは残った衛兵を二手に分けた。衛兵が商人の縄を受け取るのを見届け、
戸口に立つヒデナガにも、一歩下がって大丈夫だと声を掛けた。
ヒデヨシは初めて若者の顔をまっすぐ見た。腕を見込んだときも、
家族を守ると命じたときも、同じ声だった。袖の下でアサヒの指が動いた。
トモが妹の肩に手を置く。ヒデナガは戸口を空け、兄の隣へ来た。
「……では、明日から働かせていただく」
若者は満足そうにうなずいた。
「明日から働け、猿」
「猿ではない!俺はヒデヨシと言う。そろそろお前も名前くらい教えたらどうだ」
ミデオンが振り返った。商人を引き渡し終えたところだった。
「貴様、控えろ!この方はノヴァ王子様だ!陛下の御前だぞ、頭が高い」
ヒデヨシは頭を下げかけた格好で固まった。陛下。
今しがたお前と呼んだ若者が、目の前でにやりと笑っている。
「どうかしたのか猿?俺が王子だと不都合なのか?」
「……今、頭の中で、自分の発言を全て整理して考えているところです」
ノヴァが吹き出した。とうとうアサヒもこらえ切れず、トモの肩に顔を埋めて笑った




