第1話 猿の転生
慶長三年、伏見城。豊臣秀吉は右手で寧々の手を、左手で茶々の手を握っていた。
二人の顔を交互に見ようとしたが、もう首を動かす力がなかった。
寧々が枕元へ座り直す。茶々は秀吉の指が滑り落ちるたび、そっと握り直した。
若い頃、まだ藤吉郎と名乗っていた秀吉は、織田信長に仕えた。
初めて仕事を任されたときは、出立の草履をそろえるだけでも、誰より早く門へ出た。
ある朝、荷車が道を塞ぐと、信長は車を押していた百姓に声を掛けた。
「どこを通れば荷が届く」
百姓の答えを聞くと、信長はすぐに馬の向きを変えた。
相手が誰であれ、道を知っている者に聞く。その背中を、藤吉郎は夢中で追った。
そんな藤吉郎も、寧々に会いに行く日ばかりは、戸口で何度も足を止めた。
求婚の言葉は道すがら暗記した。寧々が戸を開け、
帰りが遅いからと温め直した汁を出してくれると、覚えた言葉が全部飛んだ。
「これからも、寧々、お前のところに帰ってきてもいいか」
「帰ってこられるだけですか」
「……夫として帰りたい。俺と一緒になってくれないか」
寧々は椀を一つ余分に出し、自分の隣に置いた。
「冷めないうちに、二人で食べましょう」
墨俣で砦を築いた夜、藤吉郎は、運び込んだ材木の山の前に立った。
岸で組むつもりだった柵を、川を渡す前に組んではどうかと、大工の一人が申し出た。
藤吉郎はその場で作業の順を変え、舟を操る者、材木を担ぐ者、
柵を立てる者に役を分けた。朝の光が差したとき、
泥にまみれた仲間と並んで柵の向こうを見渡した。
一晩働いた者たちに、まず休んでもらった。
金ヶ崎では、味方を逃がすため、追っ手を食い止める殿に残った。
足を痛めた兵が、皆に追いつけないと槍を置こうとした。
藤吉郎はその槍を預かり、先を行く二人に肩を貸せと呼び掛けた。
三人が坂を下りきるまで、そこを離れなかった。最後に自分も坂を下ると、
先に逃がした兵が、道の曲がり角で手を振って待っていた。
中国地方で戦っていたとき、本能寺で信長が討たれたとの報せが届いた。
秀吉は使者にもう一度尋ねようとして、声が出なかった。
部屋の外で、出入りする兵の足音がした。指示を待っている。
秀吉は立ち上がって戸を開けた。
「引き返す。道を知っている者をすぐに呼んでくれ。
途中で食事を用意できる場所も全て確かめたい」
軍を急ぎ引き返させた中国大返しの末、山崎で明智光秀を討った。
戦いが終わり、勝利を伝えに走り出す使者を見た瞬間、
誰より先に知らせたい人がいないことを、秀吉は改めて思い知った。
清須会議では、誰が織田家を継ぐかで重臣の意見が割れた。
秀吉は信長の孫、三法師を推した。まだ幼いと難色を示す者には、
幼いからこそ誰が何を引き受けて支えるのか、今ここで決めようと迫った。
賤ヶ岳で柴田勝家の軍と対したとき、秀吉のそばには、指示を待つ若い兵がいた。
かつての自分と同じ目でこちらを見ている。秀吉は地図を開き、まずその兵に、
峠を越えた先で道を見た者はいるかと聞いた。
兵の答えを聞き、軍を進める先を自分で決めた。
それから幾年も過ぎたある日、茶々は秀吉に、
父や母を懐かしく思い出す日があると打ち明けた。
秀吉が返す言葉を探していると、茶々は彼の顔をまっすぐ見た。
「あなたのそばにいたいと思う気持ちも、私のものです。
どちらの気持ちも、私の口から秀吉様にお伝えしておきたかったのです」
秀吉は、その言葉を受け取るまで膝の上で握っていた手を開いた。
茶々が自分から、そこへ手を重ねた。
秀頼が生まれた日、泣き声を聞いて駆け寄った秀吉は、赤子を前にして、
どう抱けばよいか分からず立ち尽くした。茶々に促され、そっと指を差し出す。
小さな手が指を握った。秀吉が驚いて顔を上げると、茶々は声を立てずに笑っていた。
伏見城の寝床で、秀吉はあの日と同じ指が握られていることに気づいた。
右の手を、寧々が下から支えてくれている。左には茶々がいた。
二人へ礼を伝えたかった。
声を出す力が残っていなかったので、両手にわずかな力を込めた。
二人が握り返した。その温もりが指先から消えていった。
耳をつんざく悲鳴がした。
「兄様!」
「アサヒ!」
最初に戻ってきたのは息だった。大きく吸い込むと胸が痛み、口に砂が入った。
頬の下には濡れた石がある。風が運んでくるのは、潮と、魚を積んだ木箱の臭いだった。
顔を横に向けると、家々の屋根越しに船の帆柱が見えた。王都ジパングの城下、港湾区。
荷を担いで暮らす人々が、倉庫と岸壁の間に軒の低い家を並べている。
聞いたこともない地名だったが、どの路地が海へ下るかまで分かった。
誰かの記憶が、頭の中にはあった。荷車の前で、男が若い娘の手首をつかんでいた。
荷台には縄が置いてある。
そのそばに立つ身なりのよい男が、上着についた埃を指先で払った。
「二人とも乗せろ。船を待たせている」
「アサヒ、私の後ろにいて。手を離さないで」
年上の娘がつかまれた腕を引きながら、もう手で妹を抱き寄せた。
その声を聞いた瞬間、秀吉の脳裏に狭い食卓が浮かんだ。
仕事から戻った姉のトモが、四つの椀を並べている。
アサヒは待ちきれずに蓋を開けて湯気を浴び、弟は自分の椀を妹の方へ押してやった。
知らないはずの家で、自分の席まで分かった。
続いて、つい先ほどの光景が押し寄せた。
荷車を止めようとした青年を、奴隷商人の護衛三人が取り囲む。
弟が姉妹に駆け寄ろうとしたところへ、護衛の一人が刃を向けた。
青年は二人の間へ飛び込み、弟を押しのけた。刃が青年の胸を貫いた。
石畳に倒れ、呼吸が止まったところで、記憶は途切れた。
秀吉は自分の胸に触れた。裂けた衣の下が血で濡れている。
地面を押す手は若く、指に残った小さな傷にも見覚えがなかった。
だが倒れた青年が最後に探していたものは、痛いほどよく分かった。
守った弟が今どこにいるのか。姉と妹にまだ手が届くのか。
「兄上……」
荷車の車輪から少し離れたところに、腕を押さえた弟が横たわっていた。
こちらへ伸ばそうとした手を、兄の胸に傷があると見るなり止める。
「無理に動くなよ。俺は……まだ動ける」
起き上がろうとして肩が落ちた。歯を食いしばって、
それでも弟は車輪から目を離さなかった。姉妹が荷台へ引き寄せられていた。
秀吉が手をついたとき、目の前に見知らぬ形の文字が浮かんだ。
《システム… 天啓が顕現しました》
《システム… 検索・鑑定・創造の解禁》
読んだ覚えのない文字なのに、意味はすっと入ってきた。
すぐ脇を通った護衛は文字の浮かぶ場所へ靴を踏み込み、足元の血だまりだけを避けた。
見えているのは秀吉だけらしい。
『検索。ここから打てる手を探せ』
倉庫に隠れる道、桟橋を走って追う道、護衛に向かう道が、目の前の景色と重なった。
隠れるなら近くの戸口まで数歩で足りる。桟橋を追うなら荷車と同じ広い道を通る。
そのままでは、どちらも家族を連れ出す策にならなかった。
『トモとアサヒを荷車へ乗せず、弟も置いていかぬ。
三人が生きてここを離れる道を探せ』
候補が絞られた。荷車の脇で姉妹を押さえる一人、通りの中央で前を見張る一人、
弟に近い倉庫側の一人。荷車と壁の間には、二人が肩を並べて通れない隙間があった。
その先に荷を積むための石段があり、上まで行けば車輪は追ってこられない。
弟を起こすには、まず倉庫側の護衛を弟から離す必要がある。
竹中半兵衛を思い出した。敵の数を伝えるだけで済ませず、逃げる者がどちらへ走り、
残る者が誰を待つかまで考えた男だった。地図の端に指を置き、
味方が皆で帰るにはどこを通るかと考えていた姿が浮かんだ。
『おぬしを半兵衛と呼ぶ』
《システム… 検索に個体呼称〈半兵衛〉を登録します》
《システム… 登録完了。人格応答を開始します》
〖半兵衛… 命名、謹んでお受けいたします。
御館様、私が戦況と地形を整理し、皆様を救う道をお示しします〗
事実だけが並んでいた頭の中に、柔らかな声が届いた。
荷車の板がきしんだ。アサヒが足を突っ張って踏み台を押し返している。
『頼むぞ、半兵衛。もう誰も失いたくはない』
〖半兵衛… まず御館様へ護衛の目を向けましょう。
倉庫側の男が弟君から離れれば、弟君は荷車の後ろへ回れます。
トモ様とアサヒ様には、手が離れたところで石段へ向かっていただきましょう〗
弟に目を向ける。腕は動く。だが、足に力が残っているかはこの距離では分からない。
秀吉自身も胸をかばって息を吸っていた。
『鑑定。護衛の動きと装備、弟の傷、それから余の胸を調べよ』
通りの男が身体の向きを変えると、厚い上着の下で金具が鳴った。
倉庫側の男は刃を抜いたままで、弟の方と荷車の方を交互に見ている。
姉妹を押さえる男は片手をトモに取られていた。
どの男も、いま何をしていて、どこへすぐ手が届くかがはっきりした。
弟の腕には刃がかすめた跡が見えた。手の指は開閉している。
ただし、倒れたときにどこを打ったかまでは、姿勢に隠れて見えなかった。
秀吉の胸には、身体を貫いた刃の跡が残っている。青年の命を奪った深い傷は、
秀吉の魂が宿って心臓と呼吸が動き出したときに閉じていた。
衣に染みた血の大半はその前に流れたものだった。皮膚には裂け目が残り、
息を吸えば痛む。足は動くが、失った血まで戻ったわけではなかった。
『立てる。だが急に起きれば、目が回るか』
できることと、まだ確かめねばならないことが分かれた。
その慎重さに、黒田官兵衛を思い出した。味方が勝てると沸く席で、
彼は退路にかかる橋の幅を問い、負傷者をどう渡すかまで考えた。
耳の痛い話をするのは、帰りを待つ者の顔まで思い浮かべていたからだ。
『官兵衛。余はおぬしをそう呼びたい』
《システム… 鑑定に個体呼称〈官兵衛〉を登録します》
《システム… 登録完了。人格応答を開始します》
【官兵衛… 命名、謹んでお受けいたします。某が対象の本質を見極め、
御館様へ偽りなき結果をお伝えします】
『余に都合のよい答えは要らぬ。危うければ、そう申せ』
【官兵衛… 承知しました。ご家族を逃がすには、御館様にも動けるだけの力が要ります。
片膝をついてから息を吐いてください。
視界が定まってから立てば、足元を確かめられます】
秀吉が肘を引き寄せたとき、車輪のそばに落ちた縄の切れ端が見えた。
木箱から外れた細い板もある。
『創造。この縄と板で、弟の腕を支えるものは作れるか』
板を腕の下に当てて布で固定する形が浮かんだ。
縄は短く、細いまま強く巻くと腕に食い込む。板の角を丸め、
布を挟めば痛みを抑えられる。適した長さの板と布が手元にそろえば、
形にできるという。目の前の板は半ばで割れていた。
秀吉は必要な材料を覚え、試すのはそこで止めた。
墨俣では、砦の図を引いてから、木をどう組むか、どう運ぶかまで現場で考えた。
大工や舟を操る者の知恵があって、初めて砦が建った。戦で使う鉄砲も同じだった。
種子島の仕組みを解き明かして作り上げた鍛冶師、八板金兵衛の話を思い出す。
『人が使える形まで考えるか。ならば、金兵衛じゃ』
《システム… 創造に個体呼称〈金兵衛〉を登録します》
《システム… 登録完了。人格応答を開始します》
〚金兵衛… 命名、確かに頂戴しました! 御館様、材料と構想をお与えください。
儂が使い物になる形へ仕上げます〛
『分かった。頼もしい名匠が来てくれたの』
〚金兵衛… ただし、材料なしでは始められません。
御館様、あの割れた板で腕を支えれば、かえって傷が増えます。
使える板は、ご家族をここから出してから探しましょう〛
車輪が石を踏み越えた。奴隷商人が荷車を寄せさせ、アサヒの足が踏み台から外れた。
トモは引きはがされまいと妹の手を握り直す。倉庫側の男はその物音に首を回した。
「トモ、アサヒ。俺を見ろ」
声にすると、思っていたより若い声が出た。トモが目を見開いた。
「ヒデヨシ……!」
その名に、秀吉は小さくうなずいた。
『半兵衛。官兵衛。金兵衛。――力を貸せ』
〖半兵衛… はい。石段までの道を見ております〗
【官兵衛… 足元は固い石です。手をつくなら、右の乾いたところへ】
〚金兵衛… ご家族が戻られたら、腕を支える板を探します。
まずはそこまで参りましょう、御館様〛
右の掌を乾いた石につき、片膝を起こした。胸が引きつった。
ゆっくりと息を吐くうちに、重なって見えていた荷車の輪郭が一つになった。
秀吉は地面から手を離し、姉妹を見据えて立ち上がった。




