ふたりの二重生活
4月13日の日曜日は、一日のほとんどを家のなかで過ごした。
母は夜勤明けで昼過ぎまで寝ていた。俺は部屋で鮎川哲也の続きを読んだ。金曜の夜から5ページしか進まなかった短編集は、日曜の午前中にようやく25ページまで前進した。活字に意識が戻ったのは、土曜の夜の約束が頭のなかで整理されたあとだった。整理されてしまえば、あとはそれを抱えたまま日曜日を過ごすだけだった。
夜のベランダには22時過ぎに出た。
仕切り板の向こうの灯りは、点いていた。彼女が出てきて「こんばんは」と短く言った。俺も短く返した。昨夜の約束の直後の夜だったから、二人とも言葉を多く重ねる気にはならなかった。
「明日からですね」
「ああ」
「……うまくやれるでしょうか」
「やれる」
短い応答だけで、今夜は済ませた。「やれる」と断定した根拠は俺のなかになかったが、仕切り板越しの空気の重さには、そう答えておくのが合っていた。彼女はそれ以上追わなかった。カーテンが閉まる。灯りは点いたまま。俺はしばらくベランダに残った。
* * *
4月14日、月曜日の朝は、いつもより少し早く目が覚めた。
起きる必要のある時刻より15分早かった。15分早い目覚めを、自分の身体の調子と解釈してもよかったし、今日が二重生活の初日であることに身体が先回りした結果と解釈してもよかった。どちらの解釈が正しいかは、起きた直後の俺には判断がつかなかった。判断がつかないまま、ベッドから起き上がった。
制服に着替える。ネクタイを首元で結ぶ。結び目の位置は、いつもの高さにきちんと収めた。今朝はいつもより1ミリだけ高かった気もしたが、鏡のなかでその違いは俺以外に分かるものではなかった。
母は奥の部屋でまだ寝ていた。今朝は夜勤明けではなく、日勤の前の朝だったが、支度は30分後からだった。朝食はいつものパンとコーヒー。コーヒーの粉は昨日母が補充しておいてくれた。パンの焦げ目はいつもより少し薄めに仕上げた。濃く焼くと、口のなかで舌に苦みが残る。今朝はその苦みを抱えて家を出たくなかった。
エレベーターで1階に降りる。エントランスを抜けて、駐輪場に向かう。奥の列に、黒い車体に銀色のリング。今朝はもう出ていなかった。彼女のほうが俺より早く学校に向かったらしい。先に出ているのであれば、坂で追い抜くか、追い抜かずに後ろから追いかける形になるかのどちらかだ。追い抜くのは気まずい。追いかけるのも気まずい。気まずい、という感情を二重生活の初日にさっそく担ぐのか、と俺は自分の自転車のロックを外しながら思った。
坂を下り始める。
4月中旬の朝の風は、先週より軽くなっていた。葉桜の緑は先週より濃い。坂の半ばで、俺の視界の前方に紺色のブレザーの背中が見えた。距離にして50メートルほど。俺は速度を落とした。落としたつもりはなかったが、ペダルを踏む力がわずかに抜けた。50メートルが40メートルに詰まる前に、適正な距離に調整する必要があった。追い抜かないため、そして気づかれないために、後ろで適正な間隔を保って進んだ。
彼女の背中は一度も振り返らなかった。振り返らないのは、気がついていないからか、気がついたうえで振り返らないことを選んだからか、どちらかだった。どちらかは俺には分からなかった。分からないなりに、振り返らない背中を追い越さずに50メートルのまま保った。
校門の手前で、彼女は自転車を降りて押しながら中に入った。
俺は20秒ほどの間を置いて、同じように校門に入った。校門のあたりで顔を合わせるのは気まずい、と昨日までの俺は知らなかった感情を、今朝は知ってしまった。約束をひとつ交わすと、まだ起きていない場面の気まずさまで、先取りで感じるようになるらしい。
昇降口のロッカーは、いつもと同じ位置にある。
いつもと同じ位置に、彼女もロッカーを持っていた。俺のロッカーから三つ離れた列に、彼女が立っていた。ちらりと視界の端に入る。入った瞬間、視線を正面に戻した。戻す動作は、自分で思っていたより早かった。早さのぶんだけ、何かを拒絶したような動きに見えたかもしれない。見えたとしても、彼女の側からは確認できない速度の動きだったとも思う。どちらにせよ、視線は正面に戻った。
ローファーに履き替えて、廊下を歩く。階段を上がって、2年A組に向かう。A組は階段の近く。C組は廊下の中央。廊下のなかで、自分の教室の扉を開けるまでのあいだに、俺はC組の方角を一度も見なかった。見ないようにしたというより、見ないほうに自然と身体が向いた。見ないことに馴染んだのか、見ないことを強く意識しすぎたのか、どちらかだった。
教室に入って、自分の席に着く。
窓際から三列目の奥から二番目。俺の定位置は、入学以来変わっていない。机に教科書を出して、ノートを開く。いつも通りの動作のなかに、いつも通りではない密度が混ざっていた。密度の正体を自分で言語化してみようかと一瞬思い、やめた。言語化すると、そのぶん約束の線が内側からほどける気がした。
「湊」
宗太が俺の机の前に立った。
「おはよう」
「今朝、自転車遅かったな」
「そうか」
「坂で見かけたんだよ。お前、前の誰かに合わせてんのかと思った」
宗太は軽い調子で言った。
俺はノートに目を落としたまま、返事の言葉を探した。前の誰かに合わせていたというのは事実だった。事実だったが、事実を説明する言葉を今朝の俺は持っていなかった。
「合わせてない」
「そう?」
「ぼーっとしてた」
「ぼーっとしすぎじゃね。また」
宗太は笑って自分の席に戻った。宗太の観察は、俺が思っているよりいつも少し鋭い。鋭いが深追いしない。深追いしないのが宗太の優しさだと俺はいつも思う。今朝もまた、宗太の鋭さと優しさに半分助けられた。
1限が始まる。現代文。
牧田先生の声はいつも通りの柔らかさだった。教科書の行を追いながら、俺の意識は教室の外に飛ばなかった。飛ばさないように努力したというのが正しい。教室の外に意識を飛ばしても、飛んだ先で彼女がどうしているかを確認する手段はない。確認する手段がないのであれば、意識を飛ばしても得るものはない。得るものがないなら飛ばさないのが合理的だった。合理的な判断を繰り返して、1限の50分が過ぎた。
2限は数学だった。
数学は俺の得意科目ではないが、不得意科目でもない。黒板の数式を追っているあいだは意識が逸れにくい。数式には彼女を連想させる余地がなかった。連想の余地のない時間は、今朝の俺にはありがたかった。
* * *
昼休み。
弁当を鞄から取り出して、財布をポケットに入れる。財布は今日もポケットに最初から入っていた。昨日までの「財布を取りにいくふり」で遠回りする口実は、今日の俺には用意できなかった。用意してしまえば、二重生活の初日に自分から約束の外周をなぞりに行く行為になる。なぞりに行くのは、約束の線に対して誠実ではなかった。
中庭に向かう廊下は、2年の教室の並びを通る。2年の教室は階段側のA組から西端のF組まで続いていて、その途中にC組があった。C組の扉の前を通るのは経路上の必然だった。遠回りではなく、ただの経路。遠回りは口実として働くが、経路そのものは責められない。
C組の扉の前を通過する瞬間、歩く速度を落とさなかった。
扉は開いていた。視界の隅に、教室のなかの緩い動きが流れた。弁当を広げる生徒、立ち話をする生徒、スマホに目を落としている生徒。普通のC組の昼休み。そのなかに彼女がいた。窓際の三列目、昨日の昼休みと同じ位置。今日は友人らしき女子が横に座って、弁当の蓋を開けていた。女子が何か話しかけると、彼女が小さく頷いた。
一度だけ視線を入れた。
入れたのは、たぶん0.5秒より短かった。それ以上は入れられなかった。入れてしまえば、約束の内側で昼の彼女を観察する時間を自分に許すことになる。許してしまえば、約束の意味が内側から薄れる。薄らせないために、俺は0.5秒で視線を正面に戻した。戻した視線の先には、廊下の向こうの窓と、窓の外の葉桜の緑しかなかった。葉桜の緑の濃さが、約束の線を外側から押さえてくれている気がした。
中庭に出る。
宗太はいつものベンチで、先に弁当を広げて俺を待っていた。
「遅ぇよ」
「遅くない」
「遅いだろ。今日も」
「今日もではない」
「昨日もだろ」
宗太は卵焼きを箸でつまんだ。今日の弁当は、昨日と同じ卵焼きが入っていた。宗太の母親の作り置きは、三日くらいは同じメニューが続くのが常だった。
弁当を広げる。俺の弁当は母の作った簡単な弁当。ご飯と鮭の切り身。ほうれん草の胡麻和えとミニトマト。いつもの組み合わせだった。箸を動かしながら、C組の扉の前を0.5秒で通過した自分の視線のことを、頭のどこかで反芻していた。
「湊、最近なんか変じゃね」
宗太が唐突に言った。
「変じゃない」
「そう?」
「そう」
「まあ、いいけどさ」
宗太はそれ以上追わなかった。追わないが、気づかれているのは間違いなかった。気づかれたうえで追わないというのが宗太の一貫した態度だった。今朝の坂の件も、昼の遅れの件も、宗太の頭のなかで積み上がっている材料の一部になっているはずだった。材料が積み上がっても宗太は組み立てない。組み立てるかどうかの判断を、宗太は俺の側に預けている。預けてもらっている事実を俺は今日も受け取った。
午後の授業は、午前中より少しだけ集中できた。
集中できた理由は自分でもよく分からない。午前中の緊張が少しほぐれたのか、昼休みのC組の扉の前を無事に通過できたことで、俺のなかの何かが一段階落ち着いたのか、どちらかだった。落ち着きの正体がどちらであっても、午後のノートの取り方は、いつも通りの湊のノートの取り方になっていた。
放課後、駐輪場に向かう途中で、奥の列を一度だけ見た。彼女の自転車はまだ停まっていた。帰ったあとではない。放課後にどこかに残る予定があるのかもしれない。俺は自分の自転車のロックを外して、先に帰路についた。
坂を登る。登りは下りよりペダルに力がいる。力を入れながら、朝の50メートルの距離のことを思い出していた。朝は50メートル。昼は0.5秒。夕方は駐輪場を一度見るだけ。一日の彼女との接点を、俺は全部メートルと秒で数えられるように整理していた。整理できること自体が、今日の二重生活の初日の結論のようなものだった。
* * *
22時過ぎ、ベランダに出た。
4月中旬の夜風は、日曜の夜よりさらに柔らかくなっていた。月は半分欠けた姿で、雲のあいだから一度だけ姿を見せて、次に薄雲のなかに溶けた。空の深さは、このマンションの5階からだと、住宅街の屋根のラインの上で小さく区切られて見える。
仕切り板の向こうの灯りは、点いていた。
カーテンが動く気配がして、彼女が出てきた。
「こんばんは」
「こんばんは」
短く挨拶を交わす。今夜の彼女の声は、今日の昼にC組の教室で友人と話していたときの声とは温度が違った。昼の「小さく頷いた」彼女と、夜の「こんばんは」の彼女は、当然同じ人のはずだった。当然のはずなのに、俺の側の耳のほうが、昼と夜で受け取り方を変えてしまっていた。
「今日どうでしたか」
彼女のほうから聞いた。
「いつも通りだった」
「……本当にそうでしたか」
「いつも通りだと自分では思ってる」
「わたしもたぶんいつも通りでした」
彼女の「たぶん」の音が、仕切り板越しに柔らかく置かれた。「たぶん」という副詞の使い方に、自分の一日を外から眺める余裕のようなものが少しだけ滲んでいた。昨夜ここに「お願い」を置きに来た人と、今夜ここで「たぶん」を使える人が、同じ人であること自体が、約束がうまく回った証拠なのかもしれないと俺は思った。
「昼間、廊下を通りましたよね」
「通った」
「……0.5秒くらい、目が合った気がしました」
「そのくらいだ」
「約束を守ってくれてありがとうございます」
彼女の声は、また少し柔らかくなった。その柔らかさに対して、どう返せばいいか少し迷った。迷った結果「うん」とだけ返した。「うん」以上の言葉は、今夜の空気の重さには合わなかった。
俺は手すりに肘をついて、夜空のほうに視線を置いた。
「月島さんのほうは、どうだった」
下の名前を心のなかでは「あかり」と呼びそうになりながら、口には出さなかった。昨夜交換したばかりの下の名前は、呼び方として使うにはまだ早かった。早いうちに取り出すと、その音がこの先の夜のなかで薄まっていく気がした。薄めたくなかった。
「……友達ができそうでした」
彼女は少し間を置いて答えた。
「へえ」
「琴音さん、というんです。C組の、わたしの席の隣の」
「同じクラスの」
「はい」
「それは、よかったんじゃないか」
「……はい」
彼女の「はい」には、嬉しさと迷いが半々で入っている気がした。前の街での失敗の名残が、新しい友達の存在を、手放しで喜べない重さに変えているのかもしれない。そこまで踏み込んで聞くのは、今夜の俺の側の役目ではなかった。
「それから、ベランダのプランターに、少しミントを足そうと思って」
彼女は話題を少しずらした。
「ミント」
「はい。育ち始めると、夜のベランダの匂いが少し変わるので」
「変わるのか」
「はい。夜風とミントの葉の匂いが重なると、夜が夜らしくなるんです」
夜が夜らしくなる、という言い回しは、俺の頭のなかでは新しかった。彼女の口から出る新しい言い回しは、今夜で二つ目だった。ひとつは「たぶん」の柔らかさ。もうひとつは「夜が夜らしくなる」の組み立て方。どちらも、仕切り板越しの彼女の言葉にしか出ない響きだった。
「育ったら、俺にも少し匂いが届くのか」
「……届くと思います。仕切り板の隙間を越えて」
「じゃあ、楽しみにしておく」
彼女が小さく笑った。仕切り板のガラス面に、口元の動きがうっすら映った。
30分ほどの夜会で、今夜の二人の会話は閉じた。
「じゃあ、そろそろ」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
カーテンが閉まる。灯りは点いたまま。俺はしばらくベランダに残って、月の欠けた姿が雲のあいだに完全に隠れるまでを見届けた。
自室に戻って、机に向かう。
今日の一日が、頭のなかで順番に並び直された。朝の50メートル。昇降口の三つ離れたロッカー。廊下を見ないで通り過ぎた経路。昼休みの0.5秒の視線。放課後の奥の列。そして今夜の仕切り板越しの「こんばんは」と「たぶん」と「夜が夜らしくなる」の三つ。
同じ人の、昼の姿と夜の姿。
昼の彼女は、朝の坂の50メートル前を走り、昇降口で三つ離れたロッカーを開け、C組の窓際三列目で友人と小さく頷く人だった。
夜の彼女は、仕切り板越しに柔らかい声で「こんばんは」と言い、ミントを育てようとしている人だった。
同じ人が昼と夜でこれだけ別々の姿で俺の視界に置かれるのは、これが初めての経験だった。これまでの俺の観察対象は、宗太と母の二人がほとんどを占めていて、二人とも昼と夜で姿がほぼ一定の人間だった。昼と夜で姿が一定でない人間を、自分の視界のなかに同時に持つのが今日から始まった。
ベッドに入って電気を消す。
天井の暗さのなかで、今日の一日をもう一度並べ直した。昼と夜の二つの姿のあいだに、どちらが「素」なのかという問いを置いてみた。答えはすぐには出なかった。
昼の彼女は、たぶん彼女自身が周囲に対して構えている姿。夜の彼女は、仕切り板越しに俺にだけ見せている姿。どちらが素なのかは、俺の側からの観察では判定できない。判定できないまま、明日から続く二重生活の輪郭だけが、頭のなかに静かに置かれた。
昼の彼女は、夜の彼女ではなかった。
どちらが素なのかは、まだ分からない。
分からないまま眠りに落ちるのは、この春に入ってから何度目かの夜だった。




