学校では話しかけないで
4月12日の土曜日。
朝起きるのはいつもより遅かった。休日の朝は、ベッドのなかで天井をしばらく眺める習慣がある。今朝もその習慣に従って、目を開けたまま10分ほど動かなかった。頭のなかで、昨夜の仕切り板越しの「同じ学校だったんですね」という声が、何度か再生された。再生するたびに、声の輪郭は少しだけ薄くなった。薄くなった分だけ、声にまつわる事実のほうがはっきりしてきた。
彼女は桜丘高校の2年C組。
彼女は隣の部屋に住んでいる。
彼女は名字が月島で、下の名前はまだ知らない。
これが土曜日の朝の俺の頭のなかに並んだ、少し整った情報の列だった。情報が整ってしまえば、あとはそれを抱えて土曜日を過ごすだけだった。
母は朝の時間帯に夜勤から戻ってきて、食卓の椅子にぐったり座ってコーヒーを飲んでいた。夜勤明けの母の顔は、乾いていて少し薄い。
「おかえり」
「ん」
それ以上の会話はない。休日の朝の母と俺は、お互いに言葉を必要としない。母は少し休憩してから奥の部屋に引き上げて、午後まで寝る。俺は土曜日の午前中を、主に自室で過ごす。
英語の予習を少しだけ進める。それから古いミステリの続きを読んだ。鮎川哲也の短編集は、昨日から5ページしか進んでいない。5ページのあいだに、俺の意識は何度か仕切り板の向こうに逸れた。逸れては戻り、戻ってはまた逸れた。
昼食は母が起きる前に自分でラーメンを茹でた。冷凍のチャーシューを薄く切って、スライスした長ねぎを上にのせる。出汁の湯気に顔を近づけると、眼鏡をかけていたら曇るだろう温度が、俺の頬に触れた。昨日の夜の出来事があってから、湯気の温度の感じ方まで少し変わっている気がした。気がしすぎている自分を、俺は土曜日の昼になってもまだ笑えずにいた。
午後、外に出る理由がなかった。
図書館でも寄ろうかと一度だけ考えて、すぐにやめた。寄りたい場所は別にあった。別にあったけれど、それは物理的な場所ではなかった。マンションのエントランスを出たとしても、辿り着く方角を俺は持っていなかった。
自室の窓から、仕切り板の向こうを一度だけ眺めた。
昼間の仕切り板は、夜とは違って光の反射が強くて、向こう側の様子はほとんど見えない。カーテンが閉まっているかどうかさえ、こちらからは判別できない。ベランダに出れば見えるかもしれないが、昼間にベランダに出るのは俺の習慣ではない。昼間に出ると、隣に気を遣わせる可能性が夜より高い。
俺は窓から離れて、机に戻った。
夕食は母と二人で食べた。
母は夕方まで寝て、晩ご飯だけは一緒に食べるのが、夜勤明けの日の母の定番だった。今日の夕食は、冷蔵庫にあった野菜を使った簡単な鍋物。4月の中旬に鍋は少し遅いが、母は春の終わりまでは鍋をやめない人だった。
「湊、最近ちゃんと眠れてる?」
母が突然、そう聞いてきた。
「ん、寝てる」
「そう」
「なんで」
「いや、なんとなく。顔色、ちょっと変わったから」
母は深く追ってこない人だった。いつもそうだ。聞いてはみるが、答えを押し広げはしない。俺もそれ以上は説明しなかった。説明する言葉を、俺はまだ自分のなかに持っていなかった。
風呂を済ませて自室に戻る。
22時が近づくのを、俺は机に向かったまま待った。待つ、という動詞を使うのが今夜の俺には正確だった。ベランダに出るのは夜の習慣で、習慣は待つものではないはずだった。それが今夜だけ、待つ時間になっている。昨夜「うちの高校だったんですね」という情報が交換された直後の夜に、彼女がどんな顔でベランダに出てくるのかが、俺には少し読めなかった。
22時を過ぎて、俺はベランダに出た。
夜風は、春の中頃の匂いをそのまま運んでくる。気温は昼より少しだけ下がっていたが、肌寒いというほどではない。空は半分だけ晴れていて、月の欠片が雲のあいだから一度見えて、次に雲に隠れた。
仕切り板の向こう側の灯りは、点いていた。
カーテンが動く気配がして、彼女が出てきた。
「こんばんは」
「こんばんは」
短く挨拶を交わした。今夜の彼女の声は、昨夜までのどの夜とも少し違った気がした。違いの正体が、俺にはまだつかめなかった。
いつもは手すりに肘をついて、眼下の住宅街のほうを向く姿勢を取る。今夜の彼女は、少しだけ姿勢が硬かった。手すりに両手を置いて、指先で手すりの金属を軽く押している。押す必要のないものを押している手の動きだった。何かを自分のなかで整えようとしている手、とも見えた。
俺は何も言わずに、手すりに肘をついた。
何かを待つ姿勢を、自分なりに作ったつもりだった。待たれているほうが、話しやすい人間と、話しにくい人間がいる。彼女がどちらの種類かは分からないが、今夜の沈黙のなかで俺ができることは、待つことくらいしかなかった。
こういうとき、相手の沈黙を埋めようとして無駄な言葉を重ねる癖が、宗太にはある。宗太の癖は宗太の優しさだ、と俺は普段思っている。でも今夜の俺には、その種類の優しさは合わないと感じた。彼女は、埋められる沈黙を求めていない。沈黙のまま、自分の言葉が整うのを待ちたい側の人間だった。少なくとも今夜のあいだは、そうだった。
30秒ほどの沈黙のあと、彼女が小さく口を開いた。
「相川さん」
「はい」
「ひとつ、お願いがあって」
「うん」
返事は短くした。短いほうが、続きを言いやすいだろうと思った。
「学校では、わたしに話しかけないでほしいんです」
彼女の声は、昨夜までより少しだけ低かった。低いというより、力を使わずに出した声という感じだった。余計な力を抜いて、必要な言葉だけを置きに来た声。
俺はすぐには返事をしなかった。
理由を聞くべきか、聞かずに受け入れるべきか、ほんの数秒だけ迷った。迷った結果、俺は待つほうを選んだ。待てば彼女が、自分のタイミングで続きを置いてくれる気がした。
彼女は、仕切り板のガラス面を一度だけ指先でなぞった。
「前の街で、友達とうまくいかなくて」
声の低さは変わらなかった。言葉は淡々と出ていた。
「深入りすると、たぶんまた失敗するんです。わたしは」
「……」
「新しい土地では、最初から線を引いておきたくて」
「線を引く?」
「近すぎないで済む距離を、最初から決めておく、というか」
俺は彼女の言葉を、頭のなかで一度噛んだ。意味は分かる気がした。分かる気がしたけれど、そこに彼女自身の手触りがあるかどうかは、俺にはまだ読めなかった。ただ、前の街で失敗したという一行の内側には、彼女が今夜ここで開示したくない何かが、いくつも畳まれて入っているのだろうと思った。畳まれたままでいい、と俺は思った。開く必要は今夜の俺の側にはなかった。
「線を引く」という言い方に、俺はなんとなく触れられた気がした。彼女が使ったその言葉は、彼女のこれまでの経験から磨かれたものだった。磨かれた言葉は、言った本人の手のなかで形が決まっている。俺がその形を勝手に崩す権利はない。俺ができるのは、その形を受け取るか、受け取らないか。それだけの選択だった。
「……で、学校では、ということか」
「はい。学校では、誰ともあまり話さないで済ますつもりなんです」
「誰とも」
「はい」
「それが、線の場所、ということ」
「そうです」
彼女はようやく、仕切り板越しに俺の顔を見た。見た、と俺が感じた程度の短い視線だった。ガラスの曇りのために、彼女の瞳の動きまでは分からないが、俺の輪郭を捉えたことだけは分かった。
「でも、ここでは、こうやって話してもいいですか」
遠慮がちな問いだった。
問いのなかに自分の希望と相手への配慮が、ちょうど半々で入っていた。
俺は手すりに両肘をついて、少し考えた。
考える時間はたぶんそんなに長くなかった。長くなくても、俺のなかでいくつかの言葉が順番に浮かんでは消えていった。学校で話しかけない代わりに、夜ベランダで話すというのは、ひとつの対価のようなものだった。対価、という言葉を使っていいのかは分からないが、そういう形の交換が二人のあいだで提案されていた。
「……わかった」
俺は短く答えた。
短く答えた自分に、後悔は残っていなかった。長く答える必要もなかった。彼女が短く差し出した言葉に、こちらも短く返す。それが今夜の空気の温度に一番合う答え方だった。
彼女が小さく息を吐くのが、仕切り板越しに聞こえた。
「いいんですか、そんな、勝手な」
「俺も、学校であまり話す方じゃない」
「そうですか」
「それに」
少しだけ言葉を選んだ。
「夜に話せる相手がいるのは、俺にとっても悪くない」
言ってしまってから、言い過ぎたかと思った。言い過ぎにはならない気もしたが、夜のベランダの空気のなかで、この発言がどのくらいの重さで受け取られるかを、俺は正確には計算できていなかった。
彼女の反応は、少しの沈黙のあと、軽い息で返ってきた。息のなかに、笑いのかすかな輪郭が混じっていた気がした。
「ありがとうございます」
彼女の声に、さっきまでの低さはなかった。硬さも抜けていた。力を使わないで出す声のまま、感謝の言葉だけが乗っていた。
「じゃあ、明日から学校では他人のふり」
「はい」
「夜はここで」
「はい」
「それ、なんというか、変な関係だな」
俺は小さく笑った。
彼女も少し笑った。仕切り板のガラス面に、彼女の口元の動きがうっすら映った。
「変ですね」
「うん、変だ」
「でも、わたしは助かります」
助かる、という単語が俺のなかに、ほんの少しだけ静かに落ちた。彼女が「助かる」と言えるような何かを、俺は今夜渡したのかもしれない。渡したつもりはなかったが、彼女がそう受け取ったなら、それでいいと思った。
風がまた少し強くなった。
仕切り板のアクリルが軽く震えた。
俺は、もうひとつだけ聞いておきたいことを、このタイミングで出すことにした。
「月島さん、下の名前、聞いてもいい?」
聞くのか聞かないのか、最後まで少し迷った。約束を交わしたばかりのタイミングで下の名前を聞くのは、踏み込みすぎにもなり得る。踏み込みすぎを恐れて聞かないでおくのも、違うとも思った。ここで聞いておかないと、夜のベランダのあいだで彼女をどう呼べばいいかが、明日以降の俺の中で曖昧に残る。呼び方の曖昧さは、夜の会話のテンポを少しずつ削る。
彼女は一瞬だけ間を置いた。その間のあいだに、彼女のなかで何かが整理された気配があった。整理されたというより、もう整理されていたものを差し出す準備をしていた、という気配だった。
「……あかりです。月島あかり」
彼女はそう名乗った。
俺は、その二文字を心のなかで一度だけ確かめた。あかり、という音の響きは、仕切り板越しの声のなかで、ほかの音よりわずかに柔らかく聞こえた気がした。気がしただけかもしれない。でも気がしたという事実は、俺のなかで残った。
「俺は湊。相川湊」
「湊さん」
彼女はそれを、口のなかで小さく確かめるように繰り返した。確かめる時間が、ほんの数秒あった。
俺は、心のなかでは彼女を「あかり」と呼びそうになりながら、口には出さないほうがいいと自分に言い聞かせた。下の名前を交換したからといって、呼び方をすぐに下の名前に変える関係ではなかった。いまの俺たちは、月島さんと相川くん、という呼び方の範囲にまだいた。下の名前は、心のなかに置いて、必要なときに取り出す道具として、しばらく温めておくべきものだった。
「月島さん、とだけ俺は呼ぶ。当分は」
俺が言うと、彼女は少しだけ頷いた。頷く動きが、仕切り板のガラス越しに見えた。
「相川くん、とわたしも呼びます」
「うん」
「学校でも」
「学校でも」
「でも、学校では声をかけない、というルールのほうが先なので、呼び方はあまり使わない」
彼女はそう付け足した。論理としては筋が通っていた。筋の通った話し方をする人間なのだ、と俺は改めて思った。彼女の声のなかには、自分と他人の境界線を、冷静に設計する癖のようなものが滲んでいた。
沈黙がまた降りた。
今夜の沈黙は、最初の硬い沈黙でも、最後のほっとした沈黙でもなかった。約束事が置かれた直後の、少しだけ整った空気のなかの沈黙だった。
俺は仕切り板のガラス越しに、彼女の横顔を一度だけ見た。輪郭は、夜のマンションの外壁の間接照明のなかで、柔らかくぼやけていた。ぼやけているのに、姿勢の緩み方が昨日までより分かりやすく見えた。肩の力が抜けて、手すりに置いた指先が手すりを押すのをやめていた。
俺は、彼女が今夜ここに「お願い」を持ってきた理由を少しだけ理解した気がした。彼女はたぶん昨日の夜「うちの高校だったんですね」と確認した瞬間から、このお願いをどう切り出すかを考えていた。同じ学校に通う人間が隣に住んでいるという事実をどう扱うかを、彼女は自分の生活のなかで設計する必要があった。設計の結果が、今夜のお願いだった。
「そろそろ戻ります」
彼女が手すりから指を離した。
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
カーテンが閉まる。灯りはまだ点いている。
俺はしばらくベランダに残った。
自室に戻って、机の前に座る。
月島あかりという四文字が、今夜俺の中に置かれた。
月島は名字。あかりは下の名前。名字は昨日までの夜から知っていた。下の名前は、今夜の最後の数分で知った。
学校では話しかけない。
夜のベランダでは話す。
呼び方は「月島さん」と「相川くん」のままにしておく。
今夜俺たちのあいだに置かれた約束は、いくつかの明確なルールに整理された。整理されたルールがあると、逆に、その外側にあるはずの感情のようなものが、輪郭を持ちやすくなる。まだ感情と呼んでいいのか分からない、何か別のものが、俺のなかで少しだけ姿を見せかけて、すぐ奥に引っ込んだ。
ベッドに入って電気を消す。
天井の暗さのなかで、俺は今夜の空気をもう一度思い出す。仕切り板の向こうで指先が手すりを押すのをやめた瞬間と、彼女の肩から力が抜けた瞬間と、あかりという音が夜風のなかに置かれた瞬間。そのどれもが、今夜の俺の内側で順番に並び直されて、眠りのほうへ向かっていった。
学校では他人のふり。
夜だけ話せる人。
それは、何と呼ぶべき関係なのだろう。
答えは、眠りに落ちるまでに出なかった。出なくていい、と俺は最後に思った。呼び名のないものは、今夜の俺にはもう馴染みのある領域だった。呼び名がないまま、自分のなかで少しずつ輪郭を持たせていく。そういう時間を、俺は父を亡くしたあとから、何年も続けてきた経験がある。




