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夜のとなりはベランダ1枚分  作者: Studio SASAME
春の夜風

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7/13

同じ制服を着ている

 4月11日、金曜日の朝は、昨日の風が嘘のように静まっていた。

 空は薄曇り。気温は昨日より少し高い。薄手のブレザーの下で腕が冷える感じが、今朝はほとんどなかった。4月のこの時期は、一日ごとに空気の重さが変わる。

 いつもの時間に家を出た。駐輪場に降りて、奥の列を一度だけ確認する。黒い車体に銀色のリングの鍵。今朝はまだそこにあった。彼女はまだ出ていないらしい。俺は自分の自転車のロックを外しながら、出るタイミングで彼女と遭遇するのを避けるのか、それとも偶然に身を任せるのか、自分の中で決めかねていた。結局、いつも通りのペースでエントランスを出た。決めかねた結果、普段通りにしておく、というのが俺の癖だ。


 坂を下り始める。

 朝の交通量は、昨日より少しだけ多い。金曜の朝は、人の動きが微妙に早い。駅に向かう人間が、週末の予定のことで頭の半分を別の場所に置いているからだろう。向かい風はほぼ止んでいて、ペダルを踏む力もいつも通りだった。

 途中、前方に紺色のブレザーの背中は見つからなかった。

 俺より先に出ているか、俺より後ろにいるか、どちらかだ。昨日の朝は少し早めに出ていた彼女が、今朝はまだ駐輪場にいた。つまり今朝はいつもより遅めに出る日だったのかもしれない。そう考えると、彼女は俺より後ろにいる可能性が高い。

 振り返るのは自然な動作ではない。ハンドルを握ったまま、前を向いて下り続ける。坂の終わりの分岐で右に曲がる。昨日の彼女と同じ経路を、俺はいつも通りの経路として踏む。俺がいつも通っている道を彼女も通っている、という事実が、昨日まで俺の中になかった事実として、今朝の坂の感触に混ざっていた。


 校門の手前で、俺は自転車を止めた。

 止めた理由は自分でもよく分からない。横断歩道の信号が赤だった、というのが表向きの理由だった。赤のあいだ、俺は校門の中を見ていた。校門の両脇の桜の大木は、もう葉桜の青々しい姿になっていた。1週間前の入学式の時期には、ここに花びらの絨毯が敷かれていた。今朝の校門は、春の前半の名残をほとんど地面に残していない。

 登校する生徒たちが、俺の視界の端から端へ、断続的に通り過ぎていく。自転車で来る生徒、徒歩の生徒、駅の方角から来る生徒。それぞれが別々の速度で校門に吸い込まれていく。その流れのなかに、俺は赤信号でひとり取り残されていた。

 校門の正面から、紺色のブレザーが入ってくるのが見えた。

 背中ではない。正面だ。

 俺の位置からは、校門を出入りする人間が側面に近い角度で見える。彼女は自転車から降りて、手で押しながら校門をくぐった。髪は肩より少し下で切り揃えられていて、前髪は眉の上でまっすぐ。昨日の朝に坂の前方で見た背中と、仕切り板のガラス越しに見た横顔と、今朝の校門の正面の顔が、俺の頭のなかで重なる。ガラス越しの夜の輪郭と、朝の日差しのなかの輪郭は、当然ながら違って見えた。夜の彼女は陰影のなかにあって、朝の彼女は薄曇りの光のなかにあった。ただ、髪の分け目の位置も前髪の切り揃え方も肩のラインの傾きも、夜と朝で変わらなかった。だから同じ人だと、俺は朝の光の下でも認識できた。

 制服は、桜丘高校のブレザーだった。

 俺と同じ。

 胸元のリボンの色は、2年生のものだった。

 俺と同じ学年。

 1年生のリボンは水色で、2年生は深緑で、3年生はえんじ色。彼女の胸元で揺れたのは、間違いなく深緑のリボンだった。遠くからでも識別できる色の違いが、桜丘高校の制服にはついていた。

 それが、今朝の校門前で、俺が確認した事実のすべてだった。信号が青に変わる。俺は自転車を押して横断歩道を渡り、校門に入る。彼女の自転車は、駐輪場の奥の列の方に向かっていた。昨日の夕方に止められていた場所と、たぶん同じ列だ。


 昇降口のロッカー前ですれ違った。

 すれ違うと書くのは正確ではないかもしれない。俺の視界の端を彼女の肩が一瞬通り過ぎた、というのが正確な表現だった。彼女はこちらに視線を向けなかった。俺もこちらからは向けなかった。ただ、視界の端で確認した肩の高さと、ブレザーの肩線のシワの入り方は、昨日までの俺が誰にも向けなかった集中度で観察していた。

 ロッカーを開けてローファーを取り出す。

 自分の動作はいつも通りのはずなのに、指先が少しだけ硬く感じる。鍵を回す動きがいつもより0.5秒だけ遅い。俺は自分の指先の遅れを、ローファーの踵に押し込みながら、気のせいと言い聞かせた。すぐ横で、彼女のロッカーの鍵の音も、金属のかすかな振動として聞こえた気がした。気がした、というだけで、実際にそれが彼女の鍵の音だったのかは分からない。昇降口には同じタイミングで何人もの生徒がロッカーを開けている。鍵の音はそのあいだに散って、どれが誰のものかは区別がつかない。それでも俺は、自分のすぐ横で鳴った金属音に、一瞬だけ耳を傾けてしまった。

 廊下で彼女が自分のクラスの方角に向かう後ろ姿を、一瞬だけ追った。

 2階の廊下は、A組からF組まで並んでいる。A組は階段を上がってすぐの東端。C組は真ん中。F組は西端。彼女の背中は、階段を上がって左の方角、中央のほうへ向かった。

 A組ではない。

 B組よりさらに奥だ。

 つまりC組かそれ以降のクラスだった。

 昨日の昼休みに宗太(そうた)が言っていた「C組の転入生」という単語が、今朝の廊下の光景と重なる。重ねていいのか重ねてはいけないのか判断がつかないまま、俺は自分の教室に向かった。


 1限の現代文が始まる前、宗太(そうた)が俺の机の前に座った。

(みなと)、お前今朝校門の手前で止まってたろ」

「止まってた」

「信号、赤だった?」

「赤だった」

「俺、反対側から見てたんだよ。お前ぼーっと校門のほう見てて、俺のこと気づかなかったろ」

「気づかなかった」

「だと思った」

 宗太(そうた)は笑って教室に戻った。今朝の俺が校門の何を見ていたか、宗太(そうた)は聞かなかった。宗太(そうた)のこういう切り上げ方に、俺は今日も助けられた。

 1限の授業は、少し集中できた。ノートに「月島(つきしま)」と書きそうになる衝動は、昨日までほど強くなかった。代わりに、教科書の行間に視線を落としながら、頭のどこかで「桜丘高校2年C組」という文字列を組み立てていた。文字列が組み上がってしまったあと、それを打ち消す材料を俺は持っていなかった。打ち消す必要もなかった。ただ、組み上がった文字列を持ったまま昼休みを迎えることに、俺はもう慣れはじめていた。


 昼休み、俺は中庭に出る前に、一度だけ2階の廊下を西側に歩いた。

 宗太(そうた)は弁当を持って中庭に先に行っていた。俺は財布を取りに自分のクラスに戻るふりをして、少しだけ遠回りをした。遠回りの口実は自分に対する口実で、宗太(そうた)に対する口実でもあった。実際、財布は取りにいかずに済む。昼食代は弁当だけで事足りる。それでも俺は、自分の胸ポケットに財布がないふりをして、その方角に足を向けた。

 C組の教室の前を通る。

 扉は開いていて、教室のなかの生徒は昼休みの緩い時間の流れのなかに散っていた。笑い声、弁当の蓋を開ける音、誰かのスマホから漏れる短い音。普通のC組の昼休み。

 窓際の三列目のあたりに、彼女の姿が見えた。

 弁当箱を机に置いて、友人らしき女子と小さく話している。女子は、今朝の廊下では見なかった顔だった。こちらから見て彼女の横顔は、ベランダの仕切り板越しに見る横顔と、同じ輪郭だった。髪のかかり方も、前髪のまっすぐな切り揃え方も、昨夜の記憶とずれない。

 見届けるのはそれで十分だった。

 俺はC組の教室の前を通り過ぎる。見ていたのはほんの2秒。2秒の視線を、中のC組の誰かに気づかれる可能性は低い。気づかれたとしても、廊下を通過した他クラスの男子の視線として流されるだけだ。

 階段を降りて、中庭に向かう。宗太(そうた)は藤棚の下のいつものベンチで、スマホを片手に弁当の蓋を開けて俺を待っていた。

「遅ぇよ」

「財布、取りに戻った」

「忘れたのか」

「忘れたふりをした」

「意味が分かんねえ」

 宗太(そうた)は笑って、弁当の卵焼きを箸でつまんだ。


 午後の授業は、午前中よりさらに集中できた。文字列が頭のなかで組み上がってしまえば、あとはそれを静かに抱えているだけで、授業そのものには影響しない。むしろ、昨日まで抱えていた「分からない何か」が今日で「分かってしまった事実」に変わったことで、頭のなかの雑音は減った。分からないままでいることのほうが、分かってしまうより、人間の集中力を食うらしい、と俺は授業の合間にぼんやり思った。


 放課後、自転車置き場に向かう途中で、俺は駐輪場の奥の列に一度だけ目をやった。

 彼女の自転車は、まだ停まっていた。俺より遅く帰るつもりか、放課後にどこかに立ち寄る予定があるのかは分からない。ただ今朝と昼と夕方で、彼女の位置情報が三度俺の中に新しく置かれた。朝は校門の正面、昼はC組の窓際三列目、夕方は駐輪場の奥の列。一日でこれだけの位置情報を、俺は普段なら宗太(そうた)の分しか把握していない。

 坂を登る。向かい風は夕方も弱いままだった。俺のペダルは朝より速く動いた。動いた理由は自分でもよく分からないが、今夜のベランダに早く出たい気持ちが、身体のどこかでペダルを押していたのかもしれない。


 家に戻って、夕食を済ませる。母は今夜も夜勤で不在。

 食器を洗い終わって、自室の机の前に座る。英語の予習を広げるが、途中で意識が逸れる。逸れた意識が、仕切り板の向こう側の部屋の灯りのほうを気にしている。22時になるまで、まだ2時間近くあった。


 22時を少し過ぎて、俺はベランダに出た。

 夜風は昨夜より柔らかい。空気は昼と比べて、温度が少しだけ下がっただけで、冷たくはない。春の中頃の夜の匂いが、息を吸うたびに胸の奥に届いた。

 仕切り板の向こう側の灯りが、点いていた。

 昨夜は点いていなかった。

 今夜は点いている。

 それだけで、俺の今夜の出方が変わった。カーテンの向こうに人の動きがあることを、仕切り板のガラス面越しに俺は確認した。

「こんばんは」

 彼女のほうから声をかけてくれた。

「こんばんは」

 俺も返す。

 それから数秒の沈黙があった。沈黙のあいだに、俺は今朝の校門前の自分を思い出していた。彼女もたぶん今朝のどこかで、俺と同じ学校だと気づいていたのだと思う。思ったのは、今夜の彼女の声が、昨夜よりもう一段階だけ緩んでいる気がしたからだ。緩みの理由は、夜風への慣れではなくて、何か別のものに寄っている気がした。

「あの」

 彼女が小さく口を開いた。

「はい」

相川(あいかわ)さん、うちの高校だったんですね」

 先に言ったのは彼女だった。俺はその返事に必要以上の間を置かなかった。

「ああ」

「……朝、校門の前で、少しだけそちらを見てしまった」

「気がついてたんだ」

「はい」

 彼女の言葉は、昨夜より少しだけ落ち着いていた。「気がついてた」ことを、彼女は隠さなかった。俺も隠さなかったから、隠さないことが昨日から今夜までのあいだに二人のなかで自然に固まったルールだった。

「2年、なんだね」

「はい。C組です」

「俺はA組」

「同じ学年でしたね」

 それだけで、今夜の情報の交換は十分だった。下の名前はまだ交換されない。互いに交換しないほうが、いまの夜のリズムに合うという判断が暗黙に共有されていた。

 仕切り板越しに、彼女が小さく息を吐く音が聞こえた。ほっとした、というより、抱えていた何かを少しだけ下ろした音に近い気がした。今朝の校門の前で俺のことに気がついて、それから一日、彼女もまた俺のことを頭の片隅に置いていたのだろう。俺が彼女のことを頭の片隅に置き続けていたのと、たぶん同じくらいの重さで。


 そのあとの会話は短かった。今夜も風の話を少しだけして、明日は午前中から快晴らしいね、という天気予報を二人で言い合った。彼女の声のなかに、昨夜までの躊躇はもうほとんど残っていなかった。代わりに、同じ学校に通う人間との夜の会話という、新しい種類の距離感が、仕切り板越しの空気に混ざっていた。


「そろそろ戻ります」

「ああ。おやすみ」

「おやすみなさい」

 カーテンが閉まる。灯りは点いたまま。俺はしばらくベランダに残る。


 自室に戻って、ベッドに腰を下ろす。

 今朝の校門の正面で見た、紺色のブレザーと2年生のリボン。昼休みの廊下で見たC組の教室の窓際三列目。駐輪場の奥の黒い自転車と銀色の鍵。夜のベランダでの「2年、C組」という彼女の声。一日の情報が、全部揃ってしまった。

 同じ制服を同じ学校で着ている人だった。

 それを知ってしまった夜は、少しだけ空気の重みが変わる気がした。

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