自転車の少し前
4月10日、木曜日の朝は、風が少しだけ強かった。
目覚ましより先に、窓ガラスが鳴る音で目が覚めた。昨夜の天気予報で「明日は少し風が出るらしい」と彼女が言っていたのを、俺はぼんやり思い出した。予報通りの朝で、予報通りの風だった。
起き上がってカーテンを開けると、4月の空は曇っている。雨にはまだ遠い、薄い曇り。昨日の午後に落ち着いていた風が、夜のあいだにもう一度息を吹き返した感じだ。
朝食の卵焼きは、昨日と同じ味がした。母の作り置きなので当然の味なのに、今日の俺にはそれが少し新しく感じられた。昨日までの俺と今日の俺のあいだに、仕切り板越しに二度会った人間の存在が挟まっているせいだろう。朝食の味が、そのままの味でいてくれるのは、むしろありがたかった。
支度を済ませてマンションを出る。
エレベーターで1階に降りる。エントランスを抜ける。駐輪場に向かう。そこまでの動線は昨日とまったく同じで、変える理由もなかった。
駐輪場に着いて、自分の自転車のロックを外す。
視界の端で、奥の方にある自転車の列を、俺は無意識に確認していた。昨日の夕方に彼女の自転車が停まっていた位置。黒い車体に、銀色のリング型の鍵。あの鍵の色を覚えている自分に、昨日の夕方、俺は少し戸惑った。戸惑った理由は自分でも分かっている。他人の自転車の鍵の色を覚えるのは、それなりに他人を見ている証拠で、それなりに他人を気にしている証拠だ。
奥の方に、彼女の自転車はなかった。
すでに出た、ということだ。
時計を見る。今朝の俺は、いつもより5分早く家を出ていた。その俺より早く彼女は出たらしい。時間割のことは何も知らないから、彼女の登校時間がこちらより早いのが普段通りなのか、今朝たまたまなのかは分からない。分からないけれど、俺より早く家を出た事実だけが、駐輪場の空いた一枠によって、静かに教えられた。
坂を下り始める。
朝の坂は昨日と同じように緩い下り。タイヤに乗った身体が、ほとんど力を使わずに進む。風向きは向かい風で、前髪を少しだけ額に押し付けてくる。坂の両側の街路樹の桜は、もう完全に葉桜の顔をしていた。昨日までは葉のあいだにわずかに残っていた花びらの欠片も、今朝の風でどこかへ運ばれてしまったらしい。春のピンクは、完全に退いた。
坂の中ほど、信号機のある交差点の手前で、俺は前方に見覚えのある背中を見つけた。
紺色のブレザー。肩のあたりまで伸びたストレートの髪。昨日の夕方、帰り道の坂でも同じ背中を見た。今朝は昨日より少し離れた位置にいて、少し左の車線寄りを走っている。
見間違いではない、と思う。
昨日の帰り道に見たシルエットと、いま前方を走る自転車のシルエットが、俺の頭のなかで一致する。
ただ、今朝の彼女は通勤通学の時間帯にこの坂を下っている。昨日の彼女は、同じ坂を同じ時間帯に下っていなかった。昨日の夕方にこの坂を下っていたのは、俺の想像では、どこかに立ち寄った帰りか、引っ越しの用事の途中だったのだろう。
今朝、彼女はこの坂を朝の時間帯に下りている。
向かう方向は、少なくとも坂の下の方角だ。
坂の下には何がある。駅がある。商店街がある。俺の通う高校がある。
俺はペダルを踏む力を一度だけ緩めた。
追いつく気はなかった。声もかけない。ただ、彼女の自転車が坂の下でどの方角に曲がるかだけは、見届けてしまいそうな気がしていた。見届けるという行為は、盗み見とは少し違うような気もするし、同じようなものでもある気もする。気もしすぎて、俺は自分がどちらの行為をしているのか判断できなくなっていた。
信号が赤になる。
俺の自転車は交差点の手前で止まった。彼女の自転車も、少し先の信号で止まった。信号は同じタイミングで赤になっていた。
赤のあいだ、彼女は自転車にまたがったまま、足をぐっと地面に置いていた。俺の位置からは後ろ姿しか見えない。背筋は伸びていて、肩は少しだけ風に押されていた。その姿勢は、ベランダで手すりにもたれている時の彼女とは、少し違う姿勢だった。ベランダでの彼女の背中は、もう少し気を抜いていた気がする。今朝の背筋の伸ばし方は、学校に向かう誰かの伸ばし方だった。
信号が青に変わる。
俺のペダルが動き、彼女のペダルも動く。距離は保ったまま、俺たちは同じ坂を下る。
坂の下の分岐で、彼女の自転車は右に曲がった。
俺の通う県立桜丘高校は、ちょうどその右の方角にある。
ただ、右の方角にあるのは高校だけではない。駅もある。駅前のいくつかの商業施設もある。それに、私立の進学校が二駅先にあって、その学校の生徒もこの道を使って駅に向かう。だから、右に曲がったからといって、彼女が桜丘高校の生徒だと確定するわけではない。
そう、自分に言い聞かせた。
言い聞かせながら、俺は右に曲がる彼女の背中を視界の端で追っていた。
次の信号で、彼女は直進した。
直進の先には、桜丘高校の校門がある。
でも、もっと先には駅がある。もっと先には私立高校がある。だから直進しただけではまだ決まらない。
俺も直進する。
校門のひとつ手前の角を、彼女の自転車は曲がらなかった。そのまま直進を続けている。
校門のふたつ先が駅で、ひとつ手前の角は駅前通りに抜ける近道だ。駅だけを目指す人間なら、この角で曲がる可能性が高い。曲がらなかったということは、校門より先に用事があるか、校門のどれかに向かっているか、どちらかだった。
俺の自転車は、校門の手前で自分の進行方向を決めた。
校門に入った。
後ろを確認する余裕はなかった。いつもの時間より少し早い登校で、いつもの自転車置き場に自分の自転車を停める。鍵をかけて、ロックをもう一度確認する。ブレザーの肩を整える。息をひとつ吐く。
昇降口に向かう途中、駐輪場のもう一段奥の方で、紺色のブレザーの背中が一瞬、視界の端を横切った。
その背中がどのブロックの自転車置き場に向かったのかまでは、見届けなかった。見届ける必要もなかった。俺の視界の端を横切った、というその事実だけで、今朝の情報はもう十分だった。
彼女の自転車が、桜丘高校の敷地のどこかに入った。
それが今朝の俺の知り得たすべてだ。
桜丘高校の生徒ではない可能性もまだ残っている。誰かに送り迎えを頼まれているとか、業務で学校に来る親戚がいるとか、そういう可能性を頭のなかで並べてみる。並べてみて、どれも苦しい想定だと思う。
一番自然な想定は、彼女が桜丘高校の生徒であるということだった。
ただ、自然な想定と事実はしばしば違う。俺はその違いを、今朝のうちは、急いで埋めたくなかった。
1限が始まるまで、俺は教室でいつも通り宗太とだらだらと話をした。
宗太はバスケ部の朝練がない朝の続きで、今日もあまり不機嫌ではなかった。
「湊、今日は風強ぇな」
「強いな」
「昨日寝る前に、ベランダ出たか?」
宗太がふと聞いてきた。突然の質問だった。
「なんで」
「いや、なんとなく。昨日お前、窓ガラスが鳴るとか気にしてただろ」
「出てない」
俺は嘘をついた。嘘をついたこと自体、自分でも少しだけ意外だった。出たと言えばよかったのに、出てない、と口から出た。宗太はそれ以上追及しなかった。宗太はいつも追及しないほうを選ぶ男だった。
「そうか」
宗太は席に戻って教科書を開いた。
午前中の授業は、いつもとほぼ同じ時間の流れで進んだ。
違うのは、廊下を歩くときに俺の視線が少しだけ変わったことだった。昨日までの俺は、廊下を歩くときに特定のクラスの前を意識することはなかった。今日の俺は、1年生の教室のあたりを通るときに、ほんの少しだけ視線を流してしまう。1年生ではないはずだった。もし桜丘高校の生徒だとしたら、背丈や雰囲気からして、同じ学年の可能性が高い。だから視線を流すべきは、2年の教室の列のほうだった。その列も、昨日までの俺には視線を流す理由のないただの廊下だったのに、今日は視線が勝手に引き寄せられる。
A組。俺のクラス。
B組。C組。
その3つのうちのどこかに、彼女がいるかもしれない。
いないかもしれない。
視線を流した結果、俺は誰の顔も確認しなかった。確認しないまま階段を降りて、昼休みの中庭に出た。
昼休み、藤棚の下で弁当を広げる。
今日の宗太は、C組の転入生の話は持ち出さなかった。代わりに、来週末のバスケ部の練習試合の相手校の話をした。対戦相手の2年のガードが、SNSで試合のハイライトを投稿していて、それが意外と参考になる、という話だった。俺はその話に半分だけ耳を貸しながら、残りの半分で頭のなかの月島のことを考えていた。
彼女がどのクラスに入ったのかは、調べようと思えば少しの手間で分かる。学年フロアの廊下に「転入生、〇組〇番」の貼り紙が出ることもある。クラス名簿は担任が配るから、同じクラスなら一発で分かる。でも、俺の通う2年A組には転入生は来ていない。来たなら宗太が最初に騒いでいる。
宗太が言っていたのはC組の話だった。
C組に転入生が来た、という話が、昼休みの中庭の俺の頭のなかで、今朝の坂道の自転車の背中とどうしても繋がってしまいそうになる。繋げるには根拠が足りない。足りないのに、勝手に繋がろうとする。
弁当の卵焼きを、俺はゆっくり噛んだ。
卵焼きの味は、昨日と変わらなかった。
午後の授業は、午前中より集中できたかもしれない。ノートに「月島」と書きそうになる衝動は、昨日よりは抑えられた気がする。代わりに、机に置いた教科書の角を、指先で意味なくなぞる癖が増えた。いつもの俺の癖ではない。指先が勝手に動いて、教科書の紙の角を何度もなぞる。なぞり続けると、角が少しだけ柔らかくなる気がした。
放課後、自転車置き場に向かう途中で、俺は駐輪場の奥の方を一瞬だけ見た。
彼女の自転車は、今はもうなかった。
俺より先に帰ったか、あるいは、もともと桜丘高校の生徒ではなくて、どこか別の場所に戻ったか。前者の可能性が自然で、後者の可能性もまだゼロにはなっていない。
坂を登る。向かい風だった朝の風は、午後には少しだけ弱まっていた。でも、完全に止んだわけではない。自転車のハンドルの上に、軽い風の抵抗がまだ残っていた。
家に戻って、夕食を食べる。母はまだ夜勤から戻っていない。食卓の向かいの椅子には、昨日と同じく誰もいない。テレビはつけない。箸の音。茶碗の音。俺自身が喉を動かす音。昨日と同じ構成の音が、今日の夕食のあいだ、同じ強さで耳に届いた。昨日は「スプーンの音が少しだけ大きく聞こえた」のが、今日は普通の大きさに戻っていた。たぶん俺が昨日より少しだけ慣れたということだろう。何に慣れたのかは、自分でも正確には分からない。
洗い物を済ませて、自室に戻る。
英語の予習をしようとして、途中で手を止めて、ノートの余白を眺めた。余白はまだ白かった。余白に「月島」と書かない自分を、今日はもう褒めなかった。褒めるほどのことではないと思えるくらいには、俺の頭のなかの月島は落ち着いてきている。
22時を過ぎて、俺はベランダに出た。
今夜の空気は、昨夜より少しだけ乾いていた。風は昼間より弱まっていたが、空気のなかの湿り気は引いていて、息を吸うと肺の奥が冷たく感じる。雲は朝より薄くなっていて、雲の切れ目から北斗七星の柄杓の端っこが見えた。遠くの踏切の警報音が、一度だけ低く鳴って、すぐに途切れた。電車が通過したのだろう。夜のこの時間帯の電車は、本数が少ないぶん、一本一本の通過音が記憶に残る。
仕切り板の向こう側の灯りは、今夜は点いていなかった。
俺は少しだけ息を止めた。
すぐに再開した。
点いていないだけで、彼女が不在だとは限らない。早く寝ただけかもしれない。部屋の奥の方にだけ小さな灯りを点けているのかもしれない。引っ越し作業の疲れが溜まって、先に布団に入っただけかもしれない。可能性を並べても、仕切り板の向こうから今夜は声がかかる気配はなかった。
俺は手すりに肘をつく。昨日までとは違う夜風だった、と言うには小さすぎる差しかなかった。昨日まではひとりで夜風に当たるのが当たり前だった夜が、昨日と今日の間で、誰かの不在を意識する夜に変わっていた。意識したくて意識しているわけではない。意識しないでおこうとしても、仕切り板の向こう側の灯りがないという事実だけが、俺の視界の端に残り続ける。
スマホを一度だけ見た。
新しいメッセージは来ていない。来ているはずもない。俺はまだ彼女と連絡先を交換していないし、交換する予定も立てていない。見たのは、ただの習慣だった。習慣というのは、今までの俺の生活にはなかった習慣で、昨日の夜あたりから始まった新しい習慣だ。新しい習慣はどこから生まれるのか、俺は自分のことなのに分からない。
20分ほどベランダに残って、俺は部屋に戻った。
ベッドに横になって、天井を見上げる。
同じ学校かもしれない、と朝の坂で思った。
桜丘高校のどこかに彼女の自転車は入った、と昼前に確信しかけた。
それでも、駐輪場の奥に彼女の自転車を見届けたわけではないし、校舎の中で彼女の姿を見たわけでもない。決定的なものは、まだ俺の手の中にはない。
同じ学校かもしれない、と思った。
けれど、まだ確証はなかった。




