月島
朝の目覚めは、いつもより少しだけ早かった。
6時少し前、目覚ましが鳴る前に俺は目を開けていた。天井の木目が、朝のまだ弱い光のなかでぼんやり見える。身体を起こす前に、昨夜のベランダの空気を思い出した。仕切り板のガラス面に映った横顔。白いカーディガンの袖の引き下げ方。そして月島という名字。
月島、という二文字だけが頭のなかに残っている。
下の名前は昨夜の俺には聞けなかった。聞かない選択をしたのは俺自身で、彼女も名乗らなかった。それでいい、と昨夜のベランダで思ったはずだった。朝の布団のなかで思い直しても、その判断は間違っていなかった。間違っていなかったのに、下の名前を知らないというその事実だけが、不思議と、いまの頭のなかで輪郭を持ちはじめている。
天井に向かって小さく息を吐く。
身体を起こして制服を取りに立つ。
朝食は卵焼きとご飯と味噌汁。母は夜勤から帰って、もう奥の部屋で寝ている。朝の母は玄関の鍵の回る音も廊下のスリッパの音も、全部遠くに感じるくらい深く眠る。俺はその深さの手前で、なるべく静かに食器を動かす。食事が終わったら食器だけ水に浸けておく。洗うのは母が起きてから本人がやるか、俺が学校から帰ってからやる。
冷蔵庫のシフト表に目をやる。今日の欄にはまだ赤いシールが貼ってあって、それは夜勤の印だった。母が今日も夜勤なら、今夜は俺ひとりの夜だ。ベランダに出るかどうかを、俺が遠慮する相手は家のなかにはいない。ただ、仕切り板の向こう側の遠慮は、昨日から新しく始まっていた。それを考えるのは、学校から帰ってきてからでも遅くない。
歯を磨いて制服を直して、玄関で靴を履く。
ドアノブに手をかける前に、廊下の向こうを一度だけ見た。
502号室のドア。
昨夜の彼女が、あのドアの向こうでもしかしたらまだ眠っているかもしれない。それとも、こっちと同じ時間帯に起きて朝食を食べて制服に着替えているかもしれない。俺より少し早く出るのか、少し遅く出るのか。彼女の朝のペースを、俺はまだ何も知らない。
ドアを開けて廊下に出る。
502号室のドアの前は、昨日と同じように音もなく人の気配もなかった。表札もまだ出ていない。俺は足音を抑えて通り過ぎて、エレベーターのボタンを押した。
4月の朝の自転車は、まだ冬の名残を腕に感じる。長袖のブレザーの下でも、肘の内側がすっと冷える瞬間がある。昨日の夕方、道の両側に敷かれていた桜の花びらの層は、今朝の風でまた薄く広げ直されていた。
校門の自転車置き場に着くと、宗太はもう来ていた。
「今日は部活、朝はなしらしい」
「そうか」
「なんか顧問が出張だとかで」
宗太は自分のローファーを昇降口で履き替えながら言った。普段なら朝練がない日の宗太はもう少し機嫌が悪い。身体を動かす時間が減るのが嫌いな男だからだ。今日はそこまで不機嫌でもない。俺も昨日ほど眠そうではない、と自分でも思う。昨夜の夜風はそれなりに俺の身体に効いた。
「湊、今日の顔、やけに落ち着いてるな」
「そうか」
「昨日はちょっとなんかぼんやりしてた」
宗太の観察を、俺は受け流す。昨夜の話を宗太にするつもりはない。する必要もない。ただ、宗太が俺の顔を見ていつも通りの軽口を叩いてくれることは、今日の朝の支えになった。夜の仕切り板の向こうの誰かのことを、昼のあいだ誰とも共有せずに抱えていくための支えに。
1限目の現代文の授業で、俺はノートの隅にペンを走らせていた。
右上の余白に、意味のない線を二本引いた。昨日も同じことをしていた。昨日は仕切り板の断面を描いていた。今日は、気をつけないと「月島」と漢字を書きそうになっている自分に気づいた。
ペンを止める。
止めた手のひらが少しだけ湿っている。
教科書に視線を戻して、先生の声を耳で追う。『伊豆の踊子』の冒頭。峠道の雨。雨音に似た何かを耳の奥で探そうとして、見つけられなかった。牧田先生の板書は、いつも通り少しだけ右肩上がりに傾いていた。黒板に白いチョークで書かれた「天城峠」の三文字を、俺は目の裏にだけ焼き付けておくことにして、ノートにはうつさなかった。うつすと、その三文字の下に勝手に別の三文字を書いてしまう気がした。
2限も3限も似たようなものだった。英語の単語を書き写しながら、書き写した先で「月島」の二文字が混ざってこないかを、俺は自分で監視していた。監視しないと、本当に書いてしまいそうだった。英語のノートに日本語の名字が出現するのは、いくらなんでもおかしい。おかしくなっている自分に気づいた3限目の中頃、俺はシャーペンを置いて、窓の外の雲をしばらく眺めた。雲は春らしくゆっくり流れていた。急がない雲を見ていると、急がない自分でいてもいいような気がしてきた。
昼休みは、また中庭の藤棚の下で宗太と弁当を広げた。
藤のつぼみは、昨日よりほんの少しだけ紫の色味が濃くなった気がする。あと十日もすれば房が垂れてくる。
「湊、C組の転入生の顔、結局見たか?」
「見てない」
「これはまだ噂だけだぞ」
「噂のままでいいだろ」
俺は卵焼きを箸で半分に割る。卵焼きの断面に、母の甘い味付けが見える。
噂のままでいい、と口では言った。でも頭のなかで、その噂とは関係のない別の名字が勝手に浮かび上がってくる。月島。昨夜仕切り板越しに聞いた二文字。それはC組の転入生とは、何の繋がりもない、ただの偶然で浮かんでくる二文字のはずだった。そのはずだった。
「お前、なんで俺の話、いっつも半分くらいしか聞いてねえんだ?」
宗太が唐突に言った。
「聞いてる」
「半分だって言ってんだよ、俺は」
「そうか」
宗太は箸でミニトマトを転がしながら、片眉を上げる。俺の受け答えがいつもより遅いのを、宗太はちゃんと感じ取っている。中学の頃から今日まで、そういう男だ。鋭くはないが、ぶれない目で相手の半歩後ろを見ている。俺は、その半歩後ろの視線に今日は気づかないふりをした。
藤棚の向こうの校舎に、C組の教室の窓が見えた。藤のつぼみの房のあいだから、窓ガラスの反射がちらちらと光っている。昨日も同じ景色を見た。今日もまだ俺はあの窓の内側の人間を、一人も知らない。
午後の授業は、ほとんど記憶に残らなかった。
窓の外が、午前中より明るかったこと。風が少しだけ収まっていたこと。5限の数学の小テストで、俺が間違えた問題が、昨日宗太と廊下で話した応用問題の類題だったこと。それくらいだ。6限のLHRでは、来月の中間テストの日程を担任が読み上げた。俺はノートに日付を書き写しながら、今日は数字だけを書いている、と、どうでもいいことを自分に言い聞かせた。数字のあいだに、漢字は混ざらない。そう思うだけで、少し安心した。
放課後、宗太は「じゃ、また明日」と自転車置き場で手を上げて先に坂を下りていった。俺は少しだけ遅れて自分の自転車に鍵を差した。駐輪場にはまだ部活が始まる前の生徒が何人か残っていて、誰かの吹奏楽部のチューナーの音が、体育館の横の空気を薄く震わせていた。
坂を下りる途中で、少し前を走る自転車に気づいた。
紺色のブレザー。肩のあたりまで伸びた髪が、風で後ろに流れている。
俺は無意識にペダルを踏む力を緩めた。
彼女だ、と分かったのは、直感ではなくて、昨夜の仕切り板越しに見た横顔の記憶と重なったからだ。背丈も髪の長さもブレザーの着方も、昨夜の彼女のシルエットと矛盾しなかった。
追いつく必要はない、と自分に言い聞かせた。
学校では話しかけない。それは昨日の夜に交わした二人の約束じゃなくて、彼女の希望だった。たぶん昨夜は、まだその希望を俺は聞かされていない。けれど夜のベランダでのあの距離感の取り方から察するに、彼女は昼の校舎で俺に声をかけられることを望まない類の人間だ。
俺は距離を保った。
坂の終わりで信号が変わって、彼女の自転車が先に渡った。俺は赤信号で止まる。信号が青に戻るまでのあいだに、彼女の背中は住宅街のほうに小さくなっていった。
信号が変わって、俺もペダルを踏み直す。
マンションのエントランスに着いたとき、駐輪場の奥の方に彼女の自転車がもう停まっていた。鍵の色まで、俺は覚えてしまっている自分に気づく。昨日までの俺だったら、他人の自転車の鍵の色なんて覚えるはずもなかった。
家に戻って、ブレザーを脱ぐ。
冷蔵庫のシフト表を朝と同じように見た。母は今夜も夜勤で、帰るのは明日の朝。朝に確認した情報が、夜にもう一度目のなかに入ってくる。それで今夜ひとりの夜だと、俺は確定した気持ちになる。
夕食を温める。味噌汁と白米、小鉢の煮物。テレビはつけない。音のない夕食にも俺はもう慣れているはずなのに、今日だけはスプーンの音が少しだけ大きく聞こえた。スプーンが陶器の底に当たる音、箸が茶碗の縁を拾う音、俺自身が小さく喉を動かす音。どれも、昨日までは気にならなかった音だった。
洗い物を済ませて、自室に戻る。
机の上で英語の予習を広げる。教科書のページを指で押さえて、頭で例文の訳を試みるが、途中で目が教科書の余白に逸れる。余白は白くて清潔で、何も書かれていない。そこに月島と書かずに済む自分を、俺は少し褒めたい気持ちになる。ついでに、そんな自分を褒めないといけない状況そのものを、少しだけ笑いたくもなる。
22時に近づくにつれて、俺は明確に二つのことで迷いはじめた。
ベランダに出るか出ないか。
出たら何を話すか。
昨夜の彼女は、俺にとって仕切り板越しに初めて声を交わした相手だった。今夜もベランダに出れば、彼女がそこにいるかもしれない。いないかもしれない。いたとして、昨日のような短い挨拶のあとに続けるべき言葉を、俺は何一つ用意していない。
用意する必要があるのか、とも思う。
夜のベランダに出るのは、昨日までずっと誰かに用意しなくていい時間だった。俺が俺のためだけに夜風に当たる時間。そこに他人への配慮が持ち込まれるのは、昨日と今日の大きな違いだった。
結局、俺はパーカーを羽織って窓を開けた。
22時を少し過ぎた夜風は、昨夜より冷えていない。空気のなかに4月というより5月に近い、春の中頃の匂いが混じっていた。眼下の住宅街の灯りは、昨日よりも点滅のリズムが穏やかに見えた。風が弱いせいで、空気のゆらぎが少ないせいで、窓越しの灯りが揺れない。俺の気のせいかもしれない。
仕切り板の向こう側の灯りは昨夜と同じように点いていた。ただ今夜はカーテンがもう動かない。段ボールの影が運ばれる音もない。彼女はたぶん部屋のなかで、引っ越し2日目の夜を過ごしているところだった。
俺は手すりに肘をつく。
数分そうしていたら、隣のカーテンが内側から動いた。
「こんばんは」
昨夜と同じ、仕切り板越しの声。ただ昨夜よりも少しだけ躊躇の色が薄かった気がする。
「こんばんは」
俺も返す。自分の声が昨夜よりもう少しだけ自然に出た。
そこから話すことは多くなかった。今日は暖かかったね、というようなことを、どちらからともなく言い合った。明日は少し風が出るらしい、という天気予報の話もした。話題のひとつひとつが短くて、短いまま空気に流れていった。学校の話はどちらも持ち出さなかった。彼女が自分から「昨日越してきました」と言った昨夜の言葉が、まだ二人のあいだで有効な情報として置かれていた。そのあとに付け足すべき名字以外の何かを、どちらも出さなかった。
下の名前を俺は聞かなかった。
昨夜聞かないと決めたのは俺で、その決定を今夜に持ち越すだけの時間は、まだ十分に残っていた。
彼女も下の名前を言わなかった。
仕切り板のガラス面に映る横顔の輪郭を、俺は今夜も一度だけそっと見た。昨夜より少しだけ彼女の姿勢が緩んでいるように見えた。肩の力が昨日よりほんの少し抜けているのかもしれない。夜風に慣れてきたのか俺に慣れてきたのか、そこまでは分からない。
20分ほどだろうか。仕切り板越しに交わした言葉の総量は昨夜より少なかったのに、夜の密度は昨夜と同じくらいあった気がする。言葉を並べることと、夜の重さは必ずしも比例しない。短い「こんばんは」だけで成立する夜もあるのだと、俺は今夜それを知った気がする。気がする、という留保付きでしか、まだ自分には断言できない。
「そろそろ戻ります」
彼女が手すりを離した。
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
カーテンが閉まる。灯りはまだ点いている。俺はしばらくベランダに残った。さっきまで仕切り板の向こうに置かれていた呼吸の気配は、カーテンの内側に引き取られて、こちら側には夜風の音だけが残った。その夜風の音を、俺はしばらく聴いていた。
自室に戻って、机の前に座る。
月島。
昨夜彼女はそう名乗った。
今夜はそれ以上のことを、俺はまだ知らない。名字の二文字が、昨夜から今夜にかけて、俺の中に少しだけ深く置かれただけだ。
下の名前はまだ聞けない。聞こうとすれば聞けるのに、聞かないほうがいいと感じている自分がいる。その自分が正しいのか、ただの臆病なのか、今夜の段階ではまだ判断できない。
月島、とだけ彼女は名乗った。
下の名前を、俺はまだ知らない。




