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夜のとなりはベランダ1枚分  作者: Studio SASAME
春の夜風

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4/14

となりからこんばんは

 結局のところ、眠れなかった。

 ベッドに横になって目を閉じて、夜の家の音に耳を澄ませた。母の部屋の静寂。リビングの冷蔵庫のコンプレッサーの低い唸り。どこか遠い道路を、夜の車が一台走り抜けていく音。どれもいつも通りの音だ。いつも通りの音を聞きながら、いつも通りに眠ればいい。それができなかった。

 原因はたぶんわかっていた。

 仕切り板の向こうに、誰かがいる。

 それをふたつ目の夜として過ごしている今、俺の中のなにかが微妙に落ち着かない位置に置かれていた。昨夜は気配に気づいただけで済んだ。今夜はその気配が、同じ空気の中に確かに存在しているという前提のなかで、眠りに入ろうとしている。だから眠れない。

 枕の向きを何度か変えた。仰向けの姿勢と横向きの姿勢を交互に試した。呼吸の速さが、目を閉じる前とそのあとで微妙に違うのが、自分でも分かる。父が亡くなった中2の冬にも、同じような眠れなさを何度も経験した。それ以降、眠れないときは無理に眠ろうとせず、起き上がることを俺は自分に許していた。

 22時半を過ぎて、俺は布団を押し退けた。

 リビングの明かりは消えている。母はもう寝たらしい。廊下に灯りは漏れていない。夜勤明けの母はいつも眠りが深いから、俺が動いてもたぶん起きない。それでも、音は最小限にする。

 俺はパーカーを羽織って、自分の部屋の窓際に立った。カーテンを少しだけ開ける。

 502号室のベランダの灯りは、まだ点いていた。

 そのまましばらく、俺はカーテンの隙間に立っていた。出るか出ないか。迷う時間のほうが、実際にベランダに出ている時間より少し長かった。

 出ることにした。

 理由は自分でもうまく説明できない。夜風に当たらないと、今夜の眠りはたぶんもっと遠くなる気がした。


 俺は窓を開ける。

 夜風が4月のまだ肌寒い空気を、部屋の中に連れてきた。

 ベランダに出るときにサンダルをつっかける音を、できるだけ小さくした。隣の仕切り板の向こうに気配を立てたくなかった。サンダルの底がコンクリートの床に触れるかすかな音。そのひとつひとつが今夜は普段より大きく聞こえる。自分の意識が普段の倍、耳を尖らせているせいだ。

 手すりに肘をつく。

 白く塗られた金属の冷たさが、パーカーの袖越しにじわりと伝わってくる。眼下の住宅街は昨夜と変わらない。点々と灯る窓の明かり。白い駐車場の防犯灯。遠くの踏切の警報灯は、いまはまだ静かに点滅していない。電車が通るタイミングでない時間帯はただの暗い信号だ。

 空を見る。

 雲は昨夜よりも薄い。月は見えない。雲のあいだから星がひとつだけ、北の方角に硬く光っていた。春の星は冬の星ほどは光らない。空気中の水分が多いせいだと、昔父から聞いたことがある。父は星のことを少しだけ詳しく知っていた。父の知識は俺の中に、断片として残っている。


 仕切り板の向こう側を、俺は意識しないようにしていた。

 昨夜見たカーテンのシルエット。今夜もきっと同じ色の、生成りのカーテンが下りている。昨夜よりも光の漏れ方が少しだけ柔らかくなっている気がした。荷物の段ボールを窓際から奥へ動かしたのかもしれない。部屋の中に、人がいる形が少しずつ整いはじめているのかもしれない。そんなただの推測を、俺はぼんやりと考えていた。

 風がやや強くなる。

 仕切り板のアクリルがわずかに震えた。そのアクリルの震えの音は耳に届くほど大きくはないけれど、手すりに肘をついている俺の視界の右端で、仕切り板の上部のガラス面がほんの僅かに揺れるのが見える。

 そのとき、視界の端で何かが動いた。

 隣室のカーテンが内側からゆっくりと開いた。


 俺は息を止める。

 仕切り板のガラス越しに、人影が見えた。白っぽい色のカーディガンを羽織った誰か。背丈は俺よりも少し低い。窓の鍵を外すかすかな音がして、隣のベランダに一歩その人が出てきた。

 こちらには気づいていない。

 最初の一歩は空気を確かめるような、ゆっくりとした歩き方だった。夜風に当たって軽く身震いする肩。首を少し傾けて空を見上げた。それから、こちら側に視線を落とした。

 仕切り板越しに目が合った。

 少女だった。

 正確にはどれくらいの年齢か、暗くて分からない。でも、たぶん俺と同じくらいの年齢だ。髪は肩より少し下まで伸びていて、前髪が眉のすぐ下でまっすぐ切られている。白いカーディガンの下は薄いブラウスらしい。部屋着というより、ベランダに出るために羽織ったという印象だった。つまり、彼女も夜にベランダに出ることがあるらしい。あるいは、今夜が彼女にとってのこの部屋の最初の夜風だったのかもしれない。

 彼女も息を止めたのが、仕切り板のガラス越しに分かった。


 しばらく、お互いに動けなかった。

 時間が止まるような静けさだった。風の音と遠い車のエンジン音が、急に耳のなかで大きくなった気がした。俺の心臓が思ったよりも早く打っているのが、パーカーの内側で自分にもわかる。こういうとき、自分の心音が聞こえる距離の人間は、近くにいる他人だ。仕切り板越しに40センチくらい。そのくらいの距離に、俺はいままで家族以外の誰かを置いたことがほとんどなかった。

 宗太(そうた)と昼休みに弁当を食べているときでも、物理的な距離はもっと近い。隣の椅子に座っているのだから、肩同士が時々ぶつかるくらいの近さだ。でも、40センチの仕切り板越しに知らない誰かと向かい合っている今の距離のほうが、俺の中の距離感覚の目盛りではずっと遠く感じられた。遠いのに声は届く。届くのに触れない。そういう距離の人間と夜に向かい合うのは、人生で初めての経験だった。

 俺が先に何か言うべきだった。迷惑をかけているわけではないけれど、同じベランダの同じ時間帯に、同じように夜風に当たっている人に無言のまま立ち続けるのは、居心地が悪い。

 声を出そうとしてうまく出なかった。喉の奥で一度だけ空気が空回りした。

 先に、彼女のほうが口を動かした。

「――あ」

 小さな、ただの息に近い音。

 それから仕切り板越しに、軽く会釈をしてくれた。会釈の角度は深すぎず浅すぎず、夜の気まずさにちょうど合っていた。

 俺も頭を下げた。慣れない動きで、首の後ろが少しだけ痛んだ。普段、俺が人に会釈をする場面は一日にそう多くない。先生と宗太(そうた)の親、コンビニの店員。そのくらいだ。

「……こんばんは」

 彼女が先に言った。

 夜の空気のなかで、声は思ったよりもはっきり届いた。仕切り板があっても、直接の会話の距離はそれほど遠くない。40センチくらいのはずだ。声の柔らかさは、昼間のどこかの教室の誰かの声とどこか似ているような気もしたが、まだ誰の声とも重ならなかった。

「……こんばんは」

 俺も返した。

 自分の声が昼の教室の声より少しだけ低いことに、自分で気づいた。夜のベランダの空気は、声をすこし低くする何かを持っているのかもしれない。


 しばらく、ふたりで手すりのほうを向いて同じ街を見た。

 言うべきことがお互い分からない。俺はこういうときに気の利いたことを言える人間ではないし、彼女のほうも無理をして会話を広げようとする様子はなかった。

 ただ、沈黙が嫌ではなかった。

 嫌ではない沈黙というものの存在を、俺は今夜初めて知った気がした。宗太(そうた)と昼休みに無言で弁当を食べる時間の沈黙とも違う。母と朝食を食べるときの沈黙とも違う。初対面の人間と同じ夜風に当たっている、特別な種類の沈黙だった。

 普通、他人との沈黙は、どちらかが気まずさを感じて何かを言い始める。沈黙そのものがしばらくふたりの間に留まって、居心地の悪さを生まないのは、それなりに珍しいことだ。彼女は沈黙が得意な人なのかもしれない。あるいは、俺が沈黙を壊したくない人間だと、無意識に察してくれているのかもしれない。どちらであってもありがたい、と俺は思った。

 仕切り板の下半分は磨りガラス風に曇って足元は見えない。透明な上部に、風で揺れる彼女の髪の影が淡く一瞬映る。手すりに肘をついたこの姿勢だと、ちょうどお互いの顔が見える高さで向き合う形になる。

 設計した人は、こんな使い方を想定しただろうか。

 俺はなんとなくそう思ってから、彼女のほうをもう一度だけそっと見た。彼女の横顔はマンションの外壁の、間接照明のぼんやりした光に、輪郭だけがうっすらと浮かんでいた。


 彼女が軽く口を開いた。

「昨日越してきました」

 声は昼間の教室の声より、少しだけ柔らかい気がした。どの教室の声、という比較対象を俺はまだ持っていないけれど。

「それ見てた」

 と言ってから失言だったかと思う。見ていた、ではなく気づいていた、と言えばよかった。盗み見ていたのと気づいていたのとでは、言い方のニュアンスが全然違う。

 彼女は少しだけ笑ったようだった。仕切り板のガラス越しに、口元の動きがうっすらと見えた。

「ベランダから?」

「ああ。……悪い、盗み見みたいになって」

「いえ。こんな時間にわたしもベランダに出てるんだから、こっちこそ盗み見みたいなものです」

 盗み見みたい、という言葉を彼女が使ったのが、俺には少しだけ意外だった。穏やかで、それでいて距離の取り方を知っているような喋り方だった。自分のいる位置をきっちり自分で把握している。そういう喋り方を、俺は好ましいと正直なところ思った。

 たぶん人の距離に敏感な人なのだろうと思った。根拠のない第一印象の推測だ。


「……月島(つきしま)と言います」

 彼女が先に名乗った。

 仕切り板越しに軽く頭を下げる仕草が、また慣れない動きの俺に、釣られて頭を下げさせる。

 月島(つきしま)、と俺は心の中で一度繰り返した。月に島。きれいな名字だとなぜかその瞬間に思った。夜の仕切り板越しに、月という文字の入った名字を聞くのは、それなりに符合がよかった。でもその符合を声に出すほど、俺はまだ彼女に対して何かを言える距離にはいなかった。

相川(あいかわ)。501の相川(あいかわ)です」

相川(あいかわ)さん」

 彼女は俺の名字を、一度口のなかで確かめるように繰り返した。その繰り返し方が、誰かの名前を自分の記憶のなかに丁寧にしまっているという感じで、俺はほんの少しだけ面白いと思った。

「下の名前は」

(みなと)です」

 言ってから、いらなかったかと思う。名字だけで十分な場面だった。でも、言ってしまった。夜のベランダの空気には、少しだけ人の言葉を軽くする何かがあるのかもしれない。

(みなと)さん」

 彼女は繰り返した。

 それ以上は言わなかった。

 下の名前は名乗らなかった。

 俺も聞かなかった。聞くほどの仲でもない。名字と下の名前を両方持ったところで、この夜の関係はそれ以上は進まない。進めるも進めないも、今夜の段階ではまだ早い。


 風がまた強くなって、仕切り板のアクリルが小さく震えた。

 彼女はカーディガンの袖を、指先で少しだけ引き下げた。夜風にやっと慣れたわけではなさそうだった。袖の下には白いブラウスの手首が、ほんの少しだけ見える。手首は細かった。手首が細いというのは、春の夜風に弱いという意味でもある。

 俺のパーカーは古くて少し大きめで、袖が指先の半分を覆うくらいの長さだ。彼女のカーディガンはもう少し体に合っていて、袖の長さも手首のあたりで止まっている。だから袖を引き下げても、手首の冷たさは完全には防げない。そういう服の違いまでが、仕切り板越しにしっかり見える夜だった。

「寒いね」

「……はい」

「引っ越しは大変だったろ」

「母と二人でひと通りだいたい」

 母と二人で、という言葉に、俺は少しだけ立ち止まった。

 母と二人、というのは俺の家と同じ状況だ。もちろん父親が単身赴任かもしれないし、俺の知らない事情があるかもしれない。でも、彼女の声の軽さには、もう慣れた暮らしの自然な響きがあった。

 それ以上は聞かなかった。

 聞かないほうが今夜はちょうどいい気がした。


「そろそろ戻ります」

 彼女が少しだけ手すりを離した。指先が白塗りの金属から離れる瞬間、風が彼女の髪をまた軽く動かした。その動きを俺は仕切り板越しの視界の端で、なんとなく見ていた。

「ああ。おやすみ」

「おやすみなさい」

 彼女が窓を開けて部屋に戻る。窓のサッシが静かに閉まる音。カーテンが閉じる。カーテンが閉じたあとも、灯りはまだ点いたままだった。

 俺は仕切り板のガラス越しに、彼女の部屋の灯りのオレンジ混じりの光が、昨夜と同じようにそこにあるのを確かめた。誰かがいる部屋の灯りというのは、どこにでもある平凡な光なのに、今夜の俺にとっては特別な夜の目印になっていた。目印があると、夜の輪郭が少しだけはっきりする。輪郭がはっきりした夜は、少しだけ眠りやすい気がする。


 * * *


 俺はベランダにしばらく残った。

 さっきまで仕切り板の向こうに誰かがいた。その誰かの名字だけがいま、俺の中に新しく置かれている。

 月島(つきしま)、と彼女は言った。

 下の名前までは聞けなかった。聞く必要が今夜の空気にはなかった。

 夜風がさっきより少しだけ柔らかくなった気がした。

 気のせいかもしれない、と自分に言い聞かせながら、俺はもうしばらくだけ手すりに肘をついていた。

 夜風は俺にとって薬のような役割をしている、と昨夜は思った。今夜の夜風は、その薬の処方箋が少しだけ違っていた。冷たさは同じ。けれど、俺の内側に触れる場所が違う。昨日までの夜風は、眠れなさをただ薄めるための風だった。今夜の風はそこに、何か別の成分が混ざっている気がした。

 それが何なのか、まだうまく言葉にできない。

 ただ、初めて会った人と40センチの距離で夜風に当たった。その感覚には、まだ呼び名がない。呼び名がないものは、呼びようもない。ただそのまま、自分の中にしばらく置いておくしかない。

 部屋に戻ったとき、窓を閉めながら仕切り板の向こうの灯りをもう一度見た。灯りはそのままだった。

 今夜は昨夜より、眠れる気がした。


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