いつも通りの朝
朝の自転車は、春になると冬のあいだよりも静かになる気がする。
ブレーキの音もペダルの音も、冷たい空気に切断されないぶん、やわらかく尾を引く。冬の朝は自転車のチェーンの音までがどこか乾いていて、鋭かった。春の朝は同じ音がやわらかい輪郭で耳に届く。俺は耳のなかに残るその余韻をしばらく聞きながら、坂を下りていった。
4月8日の火曜日。
昨日と何も変わらない朝だった。
いや、正確にはひとつだけ変わっていた。玄関を出るとき、502号室のドアの前を通った。表札はやっぱりまだ出ていない。昨夜のうちに荷解きを終えた気配もない。俺はドアの前で少しだけ歩みを緩めて、耳を澄ませたくなる衝動をぐっと押さえた。さすがに、他人の玄関の前で立ち止まって耳を立てるのは行儀が悪い。けれど、ドアの向こうに今は誰かがいる。その一点だけが俺の中で新しかった。
マンションの廊下の、西向きの窓。朝の光はまだそこまで高くないので、廊下の床に細長い四角形の影を落としている。俺はその影を踏んでエレベーターに向かった。
校門の自転車置き場には、宗太が先に来ていた。
ブレザーの胸ポケットから、イヤホンの白いコードが伸びている。いつも通りの顔で俺に片手を上げてくる。
「英語の小テスト、今日あるの忘れてないだろうな」
「忘れてない」
「やったのか」
「……微妙」
宗太は笑った。これもいつも通りだった。
昇降口で、宗太は自分のロッカーの方へ、俺は自分のロッカーの方へ。入れ替えるのは靴とローファー。朝の昇降口は、生徒の靴の匂いと整髪料の微かな匂いと、誰かの持ち込んだ朝食の匂いが混ざって漂っている。4月は特にそれが強い気がする。新入生の、新しいローファーの革の匂いが混じるせいだろう。
教室に着いて、カバンを下ろして、ブレザーを椅子の背にかける。窓の外は薄曇り。風が少し強い。春の典型的な気まぐれだった。風の強い日は、教室の窓ガラスが放課後まで何度も細かい音を立てる。そのうちの一度くらいは、誰かのノートの上のペンを風で転がすくらいには。
1限目は現代文だった。
担任の牧田先生の授業は、声がやわらかくて聞いていると眠くなる。眼鏡のフレームは細くて黒。板書の字はひとつひとつが少し斜めに傾いていて、それが独特のリズムを作っている。今日の範囲は、よく覚えている名前の作家の読んだことのある短編だった。だから余計に聞き流してしまう。作家の意図と先生の解釈と自分の以前の読み方が頭のなかで三つの層になって重なっているときの、あの集中しきれない感じだった。
ふとノートの隅に無意識に小さく線を引いていた。
まっすぐな線を一本。
その下にもう一本。
仕切り板を描いていた。
描きかけた瞬間、自分で何をしているのかようやく気づいた。昨夜のベランダで見た隣の灯りを描こうとしていた。鉛筆を止める。線の上に誰かの影を描きかけてやめた。もう一度先生の声に意識を戻す。現代文の教科書の傍線を引くべき部分が、いつもより少し遅れて目に入ってきた。
誰かの気配が気になるというだけでこれほど集中が削がれるのかと、少しだけ自分に呆れる。いつもの俺なら、こういう夜の出来事は朝食のときに一度思い出すくらいで済む。なのに今朝は、授業中にまで入り込んできている。
新しい季節のあとはいつも集中力が落ちる。たぶんそういう類のものだ、と思うことにする。そう思わなければ、これがただの隣人の出現とは違う別の何かから来ている気がしてしまう。その気がしてしまうこと自体が、すでに普段と違っていた。
休み時間、宗太が俺の机の前に腰掛けてきた。
椅子を逆向きに引いて、背もたれに肘をついて、俺の顔を下から覗き込むような姿勢で。
「湊、今日なんか変じゃね?」
「変?」
「いや、ちょっと眠そう」
「いつも通りだ」
「いつも通りの『眠そう』と今日の『眠そう』は、微妙に違うんだよな」
宗太は鋭いわけじゃない。ただ、相手の顔をよく見ている男だった。中学3年のときからの付き合いで、父が亡くなったあとの俺を何ヶ月も、何も言わずに毎朝迎えに来てくれた。登校班なんて中3にはないのに、宗太は自分のルーティンをわざわざ曲げてまで、俺の家の前に寄ってから学校に行った。俺が一度も、そうしてくれと頼んだことはなかった。でも、宗太はそうした。そういう男がいま、俺の顔をよく見ている。
「夜は寝てない」
「風が強くて、窓が鳴ってた」
「あー」
宗太は納得したのかしないのか、曖昧に頷いて話題を変えた。週末のバスケ部の練習試合の話。相手チームの2年のガードがやたらうまいらしい、という話。俺は聞きながら半分だけ窓の外の雲を見ていた。
雲の流れは春の風の中で、あまり急いでいない。急いでいないものを見ていると、こちらも急いで何かを言わなくていい気がする。宗太が「窓が鳴ってた」で納得してくれたこと自体、俺は少しほっとしていた。隣の灯り、という単語を宗太に使う必要がなかったことへの安堵だ。
これも普段と違う感覚だった。普段なら、宗太に話さないことなんてほとんどない。
2限は英語の小テスト。
結果はまあ微妙。授業の終わりに答え合わせがあって、半分は合っていて、半分は間違っていた。これで平均点を下回っていなければ、宗太のいう「微妙」の範囲内で済む。
3限、4限は普通に過ぎた。現代社会と数学。窓ガラスが風で鳴った回数を、俺は数学の授業中にぼんやり数えた。7回だった。そういうことを数えている日は、集中できていない日だ。俺は数えている自分を、また少し笑った。
昼休みは中庭の藤棚の下で、宗太と弁当を食べた。
藤はまだつぼみが堅い。硬いつぼみの色は紫というより緑に近い。あと半月くらいで、あのつぼみがひとつひとつ小さな紫色に変わっていく。花が咲くと、この中庭は上を見上げるたびに紫色の房が垂れる独特の空間になる。桜丘高校の春の名物のひとつだった。
「最近C組の席順が変わったんだってな」
弁当のソーセージを箸でつまみながら、宗太が言う。
「そうなのか」
「なんか転入生が入ったらしい」
「……へえ」
俺は聞き流しかけて、少しだけ意識の端に引っかけた。
転入生。
うちの高校で、4月の頭に転入生が入るのは珍しくない。親の転勤シーズンだ。桜丘高校は通学圏の広さから、毎年春には必ず数人の転入生が入ってくる。それでもその言葉が、昨夜の502号室の灯りとなぜかうっすら繋がるような気がした。
根拠はない。ただの直感だ。
たぶんただの偶然だ。
俺は弁当の卵焼きに箸を伸ばしながら、その直感を口には出さなかった。口に出すと、直感が事実に変わってしまうのが怖かった。なぜ怖いのかは、俺自身にもよく分からない。
「女子らしいぞ」
宗太が追加情報を付け足す。
「へえ」
「会ったら教えろよ。レアキャラだ」
「レアキャラって」
俺は軽く笑って、それ以上は深入りしなかった。宗太のゴシップは半分は本当で、半分は尾ひれだ。いつもそうだった。
中庭の向こう側の校舎の、C組の教室の窓は、藤棚の葉のあいだから小さく見えた。俺の座っているベンチからだと、ちょうど藤のつぼみの房のあいだあいだに、窓ガラスの反射がちらちらと光っている。あの教室の誰かが昨夜の502号室の影と同じ人物だったら、とふと考えて、すぐにその考えを卵焼きと一緒に飲み込んだ。
5限、6限も問題なく過ぎる。
5限の物理の、摩擦係数の話。6限のLHRの、修学旅行の積立金の話。どちらも俺の頭にはあまり残らなかった。放課後、宗太は「今日バスケ部」と言って体育館の方に走っていった。自転車の鍵を胸の前で軽く投げて、こちらに背を向けて。俺は部活に入っていない。文芸部の部室にたまに顔を出すくらいだ。今日はそのたまには含まれない日だった。
校門を出て、自転車を漕ぐ。
帰り道は行きより緩い坂で、ペダルを踏まなくてもある程度は進む。自転車のハンドルの上を、朝よりも湿り気を帯びた風が撫でていく。4月の午後は、日中の温度が冬の名残を少しずつ押し返している。
途中、マンションの手前のコンビニでアイスコーヒーを買った。母が夜勤明けで寝ているだろうから、キッチンで物音を立てたくなかった。パック入りのブラックは、棚の最下段の右端にある。俺が選ぶのはいつもそこだ。
エントランスを抜けて、エレベーターで5階まで上がる。502号室のドアの前を、わざと視線を向けずに通り過ぎた。なぜわざと、と自分でも思う。見て何かが変わるわけでもないのに、見ないことで何かを守っている気がした。何を守っているのかは分からなかった。たぶん昨夜から今朝にかけての俺の中の、あの小さな違和感のことだった。
501号室のドアを開けると、玄関に母のスニーカーがきちんと揃えられていた。今度は両足とも。
「おかえり」
キッチンから声だけが聞こえた。母はシンクで何かを洗っている。食器の軽い音。水の音。
「起きてたんだ」
「仮眠とった。今夜は家にいる」
そうか、今日は夜勤じゃないのか。
俺はアイスコーヒーのパックをテーブルに置いて、自室に戻った。学生服を着替えるついでに、ベッドに少し腰掛ける。疲れているわけでもないのに、座ると立ち上がるのに少し時間がかかる。高校生の放課後というのは、そういうものだ。何もしていないようで、何かに疲れている。
夕方の光が、カーテンの隙間から斜めに差し込んでいた。
俺はパーカーに着替えて、カーテンを少し開けた。ベランダに出ないのは、母が家にいる日のなんとなくの習慣だ。外の空気に当たるのは夜のほうが向いている。
仕切り板の向こうの502号室のカーテンが、視界の端に見えた。今日は動いていなかった。昨夜は影があった。今日はない。でも、カーテンが掛かっているということは中に人はいる。出かけているわけではない。たぶん引っ越しの疲れで室内にこもっているのだろう。
俺は少しのあいだ、仕切り板の向こうの動かないカーテンを見ていた。何が見えるわけでもない。生成り色の布が夕方の光を受けて、薄くオレンジ色を反射しているだけだ。
それでも、そのカーテンの向こうに誰かがいるというだけで、俺のベランダのいつもの景色が今日は少し違って見えた。景色そのものは昨日と何一つ変わっていないのに。
夕食は母と二人で食べた。
母が帰ってきてから作った、鶏肉の照り焼きとほうれん草のおひたし、それに味噌汁。味噌汁にはきざみ葱がたっぷり入っていた。母は夜勤明けの日の夕食は、ほぼ毎回味噌汁に葱を多く入れる。理由を一度聞いたことがある。「葱を切る作業が、頭を起こすのにちょうどいいのよ」と母は言った。俺はそれ以来、母の味噌汁の葱の量で、母の疲労度を測っている。今日は普段よりもやや多めだった。
「隣、越してきたみたいね」
ごはんをよそいながら、母が言った。
「……見たの?」
「ドアの前に、段ボールが今朝残ってた」
「そっか」
「誰かしらね」
「さあ」
母は深追いしない人だ。「さあ」で会話が終わっても、気にしない。俺はその性格にずいぶん助けられてきた。
食事のあいだ、テレビの音はつけた。母がいる日はつけることが多い。ひとりの夜と違って沈黙が重すぎないように、というお互いの配慮だった。テレビでは夕方のニュースの、天気予報のコーナーがやっていた。明日は晴れ、風はやや強め。
風呂に入って自室に戻ったのは、22時前だった。
窓の外を見る。
502号室のベランダに、今夜も灯りが漏れていた。昨夜と同じ、生成り色のカーテン越しの光。
でも、影は動いていなかった。
誰かが静かに部屋のなかにいる。それだけが伝わってくる。
俺はベランダに出ようか少し迷って、結局出なかった。母がリビングで起きている。今夜はまだひとりの夜じゃない。それに、と自分に言い訳する。隣に誰かがいると思うと、ベランダに出るのは少しだけ気が引ける。ここはこれまで俺の夜の習慣の聖域で、昨日までは俺ひとりのものだった。今夜からは仕切り板の向こうに誰かの呼吸がある。そのことに、まだ慣れていない。
慣れていないという感覚が、俺の中に新しい場所を作る。悪い変化ではない。ただ、いまはまだどう扱っていいか分からない。
カーテンを閉めた。
ベッドに横になって、天井を見上げる。
いつも通りの昨日。いつも通りの今日。
ただ隣に誰かが住んでいるというだけで、俺の夜の習慣は今夜少しだけ形を変えていた。形を変えた夜はいつもより、眠りに落ちるまでに少しだけ時間がかかった。
目を閉じても、カーテン越しの隣の灯りの、あのオレンジ混じりの光が網膜の奥にしばらく残っていた。明日の夜もう一度ベランダに出るかどうか。その判断を俺はまだしていなかった。いつも通りではない日がこういう形で始まるのかもしれない、とも思った。
風の音は今夜は昨夜ほどではなかった。窓ガラスは小さく、一度だけ鳴った。




