夜風が窓を揺らしていた
4月の空は長い。
学校帰りの自転車で緩い坂を下りながら、俺は西の空が紫と橙のあいだで迷っているのを見ていた。冬だったら、この時刻にはもう夜の青が空の端から広がっているはずだ。それが4月になると、日没がなかなか終わらない。空の下半分が朱色のまま、上半分に星がまだ出きらない紺がゆっくりと落ちてくる。
桜はもうほとんど散りきっていた。
道の両側にある街路樹の桜は、葉桜になりきる前のピンクと緑の中間の顔をしていた。散り遅れの花びらが風に運ばれて、自転車のハンドルの上を一枚横切っていく。ペダルを止める。タイヤの回転がゆっくり遅くなる。4月の夕方に妙な寒さがあるのは風のせいだった。昼間の、少し汗ばむくらいの温度が5時を過ぎると急に薄い冬に戻る。
駐輪場の脇の細い桜の根元に、ピンクの層が薄く敷かれていた。掃除の人のほうきの筋がそこにうっすらと残っている。毎朝誰かが花びらを隅に寄せている。寄せても、次の風でまた散る。そういう4月だ。
自転車をラックに差し込んだ。キーをひねって鍵をかける。冷たい金属の感触が指先に残る。もう耳たぶも少し冷たい。
マンションのエントランスをオートロックで抜ける。
ガラスの自動ドアが俺を認識して、静かに開いた。エントランスホールの天井のダウンライトが、夕方の外の光とまだ半分ずつ混ざっている。灯りの強さの、どちらでもない時間帯。
エレベーターを待つ。右側のエレベーターがいま3階。左側が1階で停まったまま動かない。こういうとき、どちらに先に乗れるかで帰宅時間がほんの少しだけ変わる。学校帰りのよれたブレザーの肩を軽く整えた。籠が降りてくる。ひとりで乗って5階のボタンを押す。籠の中の鏡に、少しだけ猫背の俺が映る。直そうとは思わない。誰も見ていない時間帯の姿勢は、たぶん俺の本当の姿勢だった。
5階に着く。廊下は西向きの窓から、夕方の光が斜めに差している。廊下の天井にはまだ蛍光灯が点いていない。管理人の点灯するタイミングの癖だ。夕方の廊下の光は、昼と夜の中間の奇妙な色をしていた。
501号室のドアを開ける。
玄関に、母のスニーカーが片方だけ揃えられていた。もう片方はもう足に収まっているところだった。玄関先に立つ母が俺を見て、軽く目を細めた。
「おかえり。湊、今日は早く帰ってきたね」
「普通だよ」
「私は今日夜勤だから」
冷蔵庫、と母が一言付け足した。分かっている。毎月のシフト表は冷蔵庫の扉に貼ってある。マグネットで留めた、総合病院のロゴ入りの用紙。俺はその用紙を、帰宅してから毎日一度は見ている。母の今日の勤務時間を把握することは、中2の冬から俺の生活の見えない基本動作になっていた。
母はナースシューズの入ったトートバッグを提げて、俺の横をすり抜けた。
「行ってくる」
「うん」
扉が閉まる。そのとき、室内の空気が少し動く。母の背中が病院まで漂っていく予感が、鍵を閉める音で小さく切断された。
玄関に残った片方のスニーカーの位置を、俺は直した。揃える癖はたぶん母から移ったものだ。母は急いで家を出るときほど、何か一つを半端なままにしていく。靴の片方。コンロの火を確認しない。鍵をしまい忘れる。その半端を俺は毎回黙って直してきた。そうすることで、母が戻るまでの時間に家が壊れずに済む気がする。
ブレザーを脱いでハンガーにかける。ネクタイをゆるめて机の上に置く。パーカーを被る。古い黒いパーカーで、胸のあたりに小さな穴が一つある。買い替えてもいいのだけれど、着慣れたものを手放すのは少し苦手だ。
冷蔵庫を開ける。
ハンバーグがラップをかけた皿の上で、まだ少し温かい。手を触れると、皿の底がわずかに熱を残している。母はいつも俺が帰る少し前に夕飯を作る。夜勤の日ほど、手を抜かない人だった。
テレビはつけない。
一人の夕食は何年続けても、音だけは慣れない。食器がぶつかる音、椅子が鳴る音、ハンバーグをナイフで切る音。そのひとつひとつが、誰もいない部屋の広さにひとつずつ吸い込まれていく。父が死んだ中学2年の冬から、俺はこの静けさと付き合っている。
ハンバーグは、デミグラスソースの甘さに少しだけ玉ねぎの香りが残っていた。母はどうしてか、忙しい日ほど手の込んだものを作る。「手を抜けば抜くぶんだけ、自分が何かを失いそうで怖い」と、一度酔った日に言ったことがある。分からなくもない、と食べながら思った。母にとって料理は、父を失った時間を埋める装置のひとつなのだろう。俺にとっての夜風みたいに。
ご飯を半分ほど食べたところで、ふと食卓の向かいの椅子を見た。誰も座っていない椅子。木の背もたれに光がわずかに当たっている。父がいた頃は、そこに父がいた。当たり前に毎晩いた。いないのが当たり前になるまで、何ヶ月か何年かかかっただろう。
思い出すのはもう重くなかった。食卓の向かいの椅子に夕方の光が当たる、そのことが俺の中のどこかに、いまも小さな印を残している。それだけだ。
食器を洗った。皿とコップ。箸とナイフとフォーク。水の音がキッチンの静けさに、しばらく居場所を持つ。拭いて水切りに戻す。
自室に戻る。ベッドの上には、読みかけのミステリが置いたままになっていた。鮎川哲也の短編集。俺が古いミステリを好きになったのは中2のあの冬の少しあとだ。時間の流れのなかで、父の記憶と物語の謎と冬の温度がなぜか一緒に固まって、俺のなかに入ってきた。あれから古いミステリの整った謎と静かな文体が、俺にとっての夜のような役割を持つようになった。
ページを開く。一行目を読む。二行目で意識が少しそれる。三行目で集中が切れる。
外で風が強くなっていた。
窓ガラスが少しだけ音を立てている。乾いた短いカタカタという音。風が強くなると、この部屋の窓ガラスはいつもこの音を立てる。築15年のサッシの微妙な緩みのせいだ。
本を閉じる。
立ち上がる。
外の空気を吸いに行こうと、体が決めていた。
ベランダに出るのは、夜の習慣みたいなものだ。
最初はただの不眠症だった。あの冬のあと、何をしても眠れない夜が続いた。布団の中にいると呼吸が浅くなるから、起き上がって窓を開けて外の空気に当たっていた。そのうち呼吸の浅さが少しずつ薄まっていった。夜風は俺にとって薬のような役割をしている。医者が処方する薬ではなく、自分で見つけた自分にだけ効く薬だ。
22時を過ぎて、俺はベランダに出た。
4月の夜風はまだ肌寒い。薄手のパーカーでは腕のあたりがすぐに冷える。パーカーの袖を指先で少しだけ伸ばした。それでも、暖かい部屋の中よりは俺はこの冷たさのほうが息をしやすい。息を吸うと、胸のあたりに春と冬のあいだの微妙な温度が届く。
ベランダの手すりに肘をつく。白塗りの金属の手すりは、夜になると冷たさが素肌よりも早く伝わってくる。コンクリートの床に、薄く砂が散っていた。昼間に誰かが履いたスリッパの跡がうっすらと見える。ベランダの掃除を最後にしたのは先週だ。来週あたりまた水を撒こう、とぼんやり思う。
眼下に、住宅街が広がっている。
点々と灯る窓の明かり。それぞれの明かりのなかに、それぞれの夕食があって、それぞれの家族がいる。テレビを見ている家、風呂に入っている家、もう寝ている家。俺のベランダからは、どの家がどの家かなんて分からない。灯りの密度だけが、夜の深さを段々と教えてくれる。
駐車場の白い防犯灯が、定期的に点滅している。誰かが帰ってきた時にだけ反応する、センサー式の古いタイプだ。夕方から夜の境目に何度か、誰かの車のヘッドライトが駐車場に入ってきて、白い防犯灯が短く光を強める。その瞬間だけ地面のアスファルトが、白く浮かび上がる。
少し遠くに私鉄の線路がある。踏切の警報灯が赤く、一定のリズムで点滅している。電車が近づいていないときの踏切は、ただの目印だ。電車が来ると警報が鳴って遮断機が下りる。その音は夜のこの距離だとくぐもって、少し遅れて届く。夜の踏切の警報音は、俺にとってひとつの時計のようなものだった。電車の本数で、今が何時頃かだいたい分かる。
月はない。薄い雲が空の半分を覆っていた。星もほとんど見えない。雲のあいだから北の方角に、ひとつだけ硬い光が見える。春は星が少ない。夏になるともっと見える。
何も考えずに夜風に当たる。それだけの時間が、俺には一日に一度必要だ。母の夜勤日はこの時間がいつもより長くなる。家の中に誰かがいる気配がないぶん、外の気配を自分のなかに少しずつ入れていく。呼吸が段々と深くなる。
ふと視線の右端で何かが動いた。
仕切り板の向こう。
隣室502号室のベランダに、部屋の灯りが漏れている。
えっ、と一瞬だけ思う。
あそこは長いあいだ空き部屋だったはずだ。俺が越してきた中2の冬から、ずっとそうだった。管理人がたまに換気に来る以外、あの部屋に誰かがいた気配は一度もない。
仕切り板のガラス越しに、影が動く。段ボールを運んでいるような丸みのあるシルエット。ひとつ、ふたつと部屋の奥のほうへ運んでいる。カーテンは閉まっている。生成り色の薄手のカーテンだ。今日掛けられたばかりなのか、まだ折り目が横の線となってうっすら見える。カーテンの生地は部屋の灯りを全部は隠しきれず、オレンジ混じりの光を外にわずかに漏らしていた。
引っ越してきた誰かがいるのだと、俺はやっとひとつの事実として受け止めた。
誰だろう、とふと思う。
年齢も家族構成も分からない。段ボールがひとつずつ居場所を見つけていく様子だけが、静かに伝わってくる。男か女か。大人か子供か。一人か複数か。仕切り板のガラスの曇り具合では、そこまでは読み取れない。影の大きさから察するに、大人ひとりか、小柄な誰かが一人という印象だった。
気を遣って、そっと窓際まで下がる。あまり見ていると、向こうに気配が伝わるかもしれない。俺は手すりのほうに向き直って、もう一度夜風を吸った。夜風の中に、普段の夜とは微かに違う何かが混じっている気がした。ただの心理的な錯覚だったとしても、隣の灯りを意識してしまった時点で、今夜の空気は昨日までの空気とは別物だった。
隣に、誰かが住んでいる。そのこと自体が、長く空白だった場所に急に色がついたみたいで、少し落ち着かなかった。悪い落ち着かなさではない。知っているはずの風景が少しだけ書き換えられたときの、あの軽い違和感に似ていた。
しばらくして、部屋に戻った。
カーテンを閉めながらちらりと外を見ると、502号室の灯りはまだ点いていた。この時間でもまだ荷解きをしているのだろう。引っ越しの夜は大変だ。俺の家も中2の冬、父が亡くなった直後に母と二人でこのマンションに越してきたとき、真夜中まで段ボールを動かした。あの夜のことはよく覚えている。空っぽの部屋に段ボールだけがあって、母が疲れた顔でも笑って「食事でも買いに行こうか」と言ったこと。あれが、父のいない生活の最初の夜だった。
隣の誰かも、もしかしたらそういう夜を過ごしているのかもしれない。根拠はない。ただ、荷解きの時間が長いとそう思うことが、俺にはあった。
ベッドに入る前に歯を磨く。洗面所の鏡に映る自分の顔は、いつもより少しだけ落ち着いていた。外の空気に当たったあとは、少し眠りやすい。鏡の中の自分に軽く息を吐いて、灯りを消す。
ベッドに横になる。天井を見上げる。部屋の暗さに目が慣れるまで、少しだけ時間がかかる。暗さのなかで、ベッド脇のスタンドの黒いシルエットだけが徐々に輪郭を帯びてくる。
隣、誰が越してきたんだろう。
それが今夜の最後の思考になった。
電気を消すと、窓ガラスがさっきよりも強く、外の風に押されて小さく鳴った。カタカタと不規則なリズムで。そのリズムを聞きながら、俺は今夜の眠りに段々と入っていった。
* * *
翌朝。
6時半の目覚ましで俺は起きる。母はまだ帰ってきていない。夜勤は明け方の5時まで。そのあと引き継ぎを済ませて、帰宅するのは7時過ぎが多い。俺が家を出る頃、母が帰ってくるまでのあいだの30分から1時間。そのあいだは、家の中に俺しかいない。
キッチンのテーブルに、走り書きが置かれている。「夜勤明けで寝てるから起こさないで」。母の手書きの、少し崩れた文字。夜勤明けの母はいつも眠りが深い。帰宅してすぐに朝の光を遮断して、夕方まで寝る。俺が学校から戻ると、起きていることが多い。
朝食は冷蔵庫の卵焼き。電子レンジで温めてご飯にかける。温めた卵焼きの、少し甘い味が朝の口に合う。食べて制服に着替えて、歯を磨く。
家を出る。
マンションの廊下を、音を立てないように歩く。502号室のドアは閉まっていた。表札はまだ出ていない。昨夜遅くまで荷解きをしていた誰かは、いまはまだ眠っているのかもしれない。
エレベーターで降りる。駐輪場で自転車を出す。4月の朝は夜より少しだけ温度が高い。朝の光が、駐輪場のコンクリートに四角く落ちている。
桜はもうほとんど散っている。道の端にピンクの層。風で少しずつ隅へと寄せられていく。昨日の夕方に見たのと同じ景色だ。違うのは光の色。夕方の朱色が、朝の淡い黄色に変わっている。同じ場所の違う時間帯。
県立桜丘高校の校門まで、自転車で15分。着くころには肩が少し温まる。校門の横にある桜の大木は、もう完全に葉桜だった。これから夏にかけて、あの大木は濃い緑の傘になる。
「よ、湊」
親友の古橋宗太が、自転車置き場の奥から手を上げた。いつも俺より先に来ている。宗太はバスケ部の朝練の日は特に早く、そうでない日も俺より10分は早く学校に着く。どうやってるのか、俺には真似できない。
「おはよ」
「今日もねむそうだな」
「いつも通りだ」
宗太と並んで昇降口へ向かう。4月の校舎は、まだ少しだけ新入生の匂いがした。クラスに馴染みきらない1年生の、廊下ですれ違うときのぎこちない間合い。そういう日が、4月の校舎には何日かある。
春の一日目が、静かに始まる。
隣、誰が越してきたんだろう。
その疑問は朝になっても、頭の隅にまだ小さく灯ったままだった。
夜風が窓ガラスを小さく揺らしていた――その感触が、今朝の俺の中にもまだ残っている。




