仕切り板の夜
俺には毎晩仕切り板越しに会う人がいる。
マンションの5階。東向きのベランダは隣の部屋まで続いていて、その境目には、頭の高さあたりまでアクリル製の仕切り板が立っている。非常時には蹴破れる、避難用の板だ。下半分は磨りガラス風に曇り、上半分は透明になっている。ちょうど胸から上が、そのガラス越しに見える。
その向こう側に毎晩彼女はいる。
学校では、ひと言も交わさない。廊下ですれ違っても目を合わせない。そう決めた夜があった。だから俺たちの関係はいつも夜のベランダの仕切り板越しにしか成立しない。
* * *
今夜も夜風は熱い。8月の、蝉の声を含んだ湿った夜気だ。
22時を少し過ぎて俺がベランダに出ると、隣の502号室のカーテンが内側から動いた。
「――湊くん」
名前で呼ばれる。俺にだけ、そう呼ぶ声だ。
彼女が仕切り板の向こうに姿を見せる。夏なのに白いカーディガンを羽織って、手すりに片手を軽く置いた。夜のマンションの外壁は間接照明でぼんやり浮かび上がっていて、その光が、仕切り板のガラス面に彼女の輪郭をうっすらと落とす。髪が風に撫でられて、一瞬だけ影の線が揺れた。
「こんばんは」
「こんばんは」
短く挨拶を交わす。ただそれだけで、夜の温度が少し変わった気がする。
俺たちは毎晩同じ位置に並んで手すりに肘をつく。向き合っているようで、実際には同じ方向を見ている。眼下の、灯りを落としつつある住宅街。遠くの、点滅する踏切の警報灯。
「今日の蝉の声、ずいぶんうるさかったね」
「朝からずっと」
「夏ももう半ばだ」
「半ばですね」
沈黙が降りる。蝉の声。遠い踏切。マンションの外階段を、夜勤帰りの誰かが登っていく湿った足音。風向きが変わると、彼女のベランダのハーブの匂いが、ふと俺の側まで届く。ラベンダーとミントとローズマリー。初夏から少しずつ背を伸ばした、夏の盛りの葉の匂いだ。
俺は仕切り板の端に、そっと手を伸ばす。両端には5センチほどの隙間がある。避難経路として、わずかに空いている、ただそれだけの空間。
そこに指先だけが通る。
彼女も反対側から手を伸ばした。
指先が触れる。
それは、もう慣れた動作だった。慣れたはずだった。それでも、触れるたびに温度は毎晩少しずつ新しい。アクリルの縁が冷たいぶん、指先の熱だけが、はっきりと残る。
この関係には、奇妙なルールがいくつかある。
ひとつ。仕切り板は壊さない。越えていい夜は、数えるほどしかない。
ひとつ。相手の部屋には入らない。ベランダの、どちら側までが境界だ。
ひとつ。学校では他人のふりをする。目を合わせず、口を利かず、同じ廊下を歩き抜ける。
三つのルールを守っているから、俺たちはいま恋人でいられる。
――彼女が、そう望んだから。
線を引いたままの恋人。奇妙な響きだ、と何度思い直しても思う。
けれどこの仕切り板があるから、俺たちは壊れずに済んでいる、とも思う。触れないぶん、声が近い。越えないぶん、時間が濃い。そういう関係が、この世にひとつくらい、あってもいい。
* * *
指先をゆっくり離す。彼女が、仕切り板のガラス越しに小さく笑った。
「おやすみなさい、湊くん」
「おやすみ」
カーテンが閉じる。そのあと部屋の内側で、彼女の影が一度揺れて、灯りが少し落ちた。
俺はしばらくベランダに残る。夜風がラベンダーの葉を、かすかに揺らす。彼女が春に分けてくれた苗は、夏の盛りでずいぶん大きくなった。来年も、またここで花をつけるのだろう。来年も、俺は隣の部屋の灯りを、ここから見ていられるのだろうか。
この関係がどうして始まったのか、今夜は少しだけ思い返してみる。
――始まりは、4月だった。
まだ夜風が、肌寒かった頃。桜が散り終えて、ベランダの手すりに花びらの残りがいくつか貼りついていた頃のこと。
隣室に誰かが越してきたのだと、俺はその夜も、ベランダで知った。
彼女のほうから声をかけてくれるまでに、あと一日だけ、かかった夜だ。
そう。始まりは、春の夜風だった。




