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夜のとなりはベランダ1枚分  作者: Studio SASAME
春の夜風

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10/15

すれ違う朝

 4月15日、火曜日の朝は、月曜の朝より30分ほど遅く目が覚めた。

 昨日の緊張が睡眠に余韻を残したのか、15分早く起きた月曜の反動が火曜に回ってきたのかは、起きた直後の俺には判断がつかなかった。目覚ましが鳴る1分前に、ようやく目が開いた。起き上がる速度もいつもより少し鈍かった。

 制服に着替える。ネクタイを結ぶ手の動きは、月曜の朝より2ミリほど早く仕上がった。二重生活の初日より二日目のほうが、身体が先に手順を覚えているらしい。手順だけは覚えるが、感情のほうはまだ覚えていない。感情が手順より遅れて馴染むのは、昨日までの俺が持っていなかった経験だった。

 朝食はいつものパンとコーヒー。今朝はコーヒーの粉を少しだけ多めに入れた。火曜の朝の身体は、月曜の朝より少し濃い香りを必要としていた。濃く淹れたコーヒーを口に含むと、胸の奥にあった眠気が、正しい方向に一歩退いた。

 エレベーターで1階に降りる。エントランスを抜けて、駐輪場に向かう。奥の列に、彼女の自転車はもうなかった。今朝も俺より早く出ている。月曜と火曜が同じパターンでくるのなら、水曜もたぶんそうだ。水曜以降のパターンを先取りで想像する癖が、二重生活の二日目にして早速俺のなかに芽生えはじめていた。


 坂を下り始める。

 4月中旬の朝の風は、火曜のほうが月曜より少し湿度を含んでいた。空は薄曇り。葉桜の緑の色は、昨日とほぼ同じに見えた。坂の途中で新聞配達の原付が一度だけ俺を追い越していった。原付のエンジン音は坂の下の交差点の向こうに消えて、消えたあとの坂にはまた静けさが戻った。ペダルを踏む。前方50メートルを探す。今朝は、前方に紺色のブレザーの背中は見つからなかった。

 先に出ている彼女のほうが、坂の先をもう渡り終えているらしい。坂の分岐の手前まで俺のペースで下って、分岐で右に曲がる。右に曲がった先の道は、昨日の朝も通った道で、今朝もおそらく彼女が通った道だった。俺の前の誰かの通った空気の名残を、俺は遅れて吸いながら進んだ。遅れて吸う空気には味も温度もない。ないはずなのに、俺の身体はその道を昨日より少しだけ速く踏んだ。速さの理由を、自転車のギアのせいにしておくと、俺のなかで辻褄が合った。


 校門の手前で、信号が赤になった。

 俺は自転車を止めて、横断歩道の向こうに視線を置いた。校門のなかでは、先に着いた生徒たちが昇降口の方角に散っていた。その散り方のなかに、紺色のブレザーの背中は見分けがつかなかった。彼女はたぶんもう昇降口にいるか、教室に入っている。

 信号が青になる。自転車を押して横断歩道を渡り、校門をくぐる。駐輪場の奥の列に、黒い車体に銀色のリング。今朝もちゃんとそこに置かれていた。


 昇降口のロッカーの前に着いた。

 ロッカーの列には、今朝も同じ時間帯の生徒が集まっていた。俺のロッカーから三つ離れた列のあたりが空いている。彼女はもう昇降口を抜けて階段を上がったあとだった。置かれたローファーの位置だけが、彼女が通過した時間の名残を示していた。俺はローファーに履き替えて、階段のほうに向かった。

 階段を上がる。2階の廊下に出たところで、俺と反対方向から歩いてくる紺色のブレザーが、視界の奥から近づいてきた。

 彼女だった。

 C組のほうから、A組のほうに向かって、一人で歩いてきていた。忘れ物か何かでいったん昇降口の方角に戻る途中だったのかもしれない。廊下の幅は、2メートルと少し。二人ですれ違うには、充分な幅があった。ない幅でもない。充分は充分だが、視線の位置をどこに置くかの判断は、2メートル半の距離の内側で強いられることになった。

 俺は視線を、廊下の右壁の掲示物のほうに置いた。

 彼女は視線を、廊下の左壁の窓のほうに置いた。

 すれ違いの0.5秒のあいだ、俺たちはお互いの顔を一度も見なかった。見ないで済ませたというより、見ないで済んだというほうが今朝の空気に合っていた。見ないで済ませるには、少しの努力がいる。見ないで済むには、お互いのなかで「見ないほう」が自然な選択肢として先に用意されていなければならない。今朝はそのための用意が、昨日のうちに整っていた。

 すれ違いの直後、彼女のローファーの音が、背中側の廊下の奥に遠ざかっていった。

 俺はそのまま自分のクラスの方角に進んだ。振り返らなかった。振り返らなかった、ということが、今朝の廊下でのすれ違いの完成形だった。


 教室に入って、自分の席に着く。

 机にノートを広げる。ペンを握る。ペンの芯を出す動きに、いつもと違うところはなかった。違ったのは、視界の端に残っていた紺色のブレザーの布の質感が、手のひらの記憶のほうにも薄く届いていたことだった。手のひらは何も触れていない。触れていないのに触れたような記憶が伝わってくる。こういう感覚を俺は昨日までの自分のなかに持っていなかった。

(みなと)

 宗太(そうた)が今朝も俺の机の前に立った。

「おはよう」

「今日は遅刻寸前だったな」

「寸前じゃない」

「寸前だった」

「……ぎりぎりだ」

「ぎりぎりも寸前だろ」

 宗太(そうた)は笑って席に戻った。今朝の宗太(そうた)は、昨日ほど俺のことを観察していなかった。観察の出力はしていたが、観察の密度は昨日より薄かった。宗太(そうた)の観察に波があるのは、宗太(そうた)の調子に波があるのと、たぶん同じことだった。


 * * *


 1限から4限までの午前の授業は、昨日より平らに流れた。

 二日目の身体は、一限ごとの50分を昨日より短く感じるらしい。短く感じる理由は、意識の使い方が昨日より効率的になっているからか、単に疲れが積み重なって時間感覚が鈍っているからか、判断はつかなかった。どちらにせよ、ノートのほうはいつも通りに埋まっていった。


 昼休み。

 弁当を鞄から取り出す。今日の弁当は、鮭の代わりに鶏の照り焼きが入っていた。母の作り置きの回転は、俺の予想より少し早い。

 昨日と違って、今日の俺は中庭に向かう経路を変えた。C組の扉の前を通らない経路。階段を一つ下がって、1階の廊下を抜けて、中庭の反対側から入る遠回りのほう。遠回りの口実は今日も自分に対する口実だったが、昨日とは向きが逆になった口実だった。昨日は「経路上の必然だから通過する」。今日は「必然の経路から意図的に外れる」。どちらも約束の内側で選べる選択肢だった。どちらを選ぶかは、その日の自分の疲れ具合によって変わるのかもしれない。

 中庭のいつものベンチで、宗太(そうた)はすでに弁当を広げていた。

「今日は早いな」

「早いのか」

「早い。昨日より3分くらい」

「そうか」

「C組、通ってこなかった?」

「通ってない」

「ふーん」

 宗太(そうた)はそれ以上聞かなかった。聞かなかったが、C組という単語が宗太(そうた)の口から出たのは、今日が初めてだった。宗太(そうた)の頭のなかで積み上がっている材料のなかに、C組という単語が一段、新しく乗った音だった。俺はその音を黙って受け取った。


 午後の授業は、午前より少し沈んだ時間として流れた。

 沈んだ理由は、火曜の午後特有の空気の重さだった。月曜は週の始まりの緊張で持つ。火曜は、その緊張がいったん緩む位置にあって、緩んだぶんだけ身体が重く感じる。5限は日本史。黒板の年号の数字が、普段より少しだけ読みにくかった。読みにくさのぶん、俺の意識は黒板の前で立ち止まる時間が増えた。


 放課後、駐輪場の奥の列を一度だけ見た。

 彼女の自転車は今日もまだ停まっていた。放課後に何か残ることが、彼女には週のうちで定期的にあるのかもしれない。琴音(ことね)さんという名前を昨夜の彼女の口から聞いていたから、もしかしたら琴音(ことね)さんと一緒に過ごす時間が放課後に発生しているのかもしれない。想像の輪郭だけ頭に置いて、想像の内側には踏み込まなかった。踏み込む権限は俺の側にはなかった。


 坂を登る。

 今朝は前方に彼女の背中がなかったが、夕方は後方に彼女の背中があるかもしれない。今日は振り返らないで登ることにした。振り返って目が合ったとしても、学校の近くで目を合わせる行為は、昨日の約束の内側ではない。学校の近くというのがどこまでを指すかは、二人のあいだで明示的には決めていない。決めていないから、俺のほうで勝手に広めに取っておく。広めに取っておくほうが、約束の外側に出る可能性が低くなる。


 * * *


 家に帰って、夕食を済ませる。

 母は今夜も日勤のあとの残業で、帰りは22時過ぎになるらしい。スマホにメッセージが届いていた。俺はひとりで冷蔵庫の作り置きを温めて食べた。作り置きの肉じゃがは、二日前より少しだけ味が染みていた。

 自室に戻って、机に向かう。

 英語の予習を開く。開いたが、意識が文字の上で少しだけ上滑りした。上滑りした先に、今朝の廊下のすれ違いの0.5秒が、何度か浮かんでは消えた。見ないで済んだ0.5秒を、俺は夕方まで抱えたまま動いていた。抱えていた事実そのものが、今日の一日の密度になっていた。


 22時を過ぎて、ベランダに出た。

 夜風は、昨日の夜より少しだけ湿っていた。雲が多い。月は見えなかった。空の暗さが、月のない夜独特の深さを持っていた。マンションの5階から見下ろす住宅街の灯りは、湿気を含んだ空気のなかでわずかに滲んで見えた。

 仕切り板の向こうの灯りは、点いていた。

 カーテンが動く気配がして、彼女が出てきた。

「こんばんは」

「こんばんは」

 短く挨拶を交わす。今夜の「こんばんは」は、昨夜の「こんばんは」より、もう一段階だけ密度があった。密度の正体が何かは、仕切り板越しにすぐには分からない。分からないまま、俺は手すりに肘をついて、空の暗さのほうに視線を置いた。


「今朝、廊下ですれ違いましたね」

 彼女のほうから先に言った。

「すれ違った」

「……見ないで済ませました」

「済んだ」

「『済ませた』のか『済んだ』のか、わたしはまだ分からなくて」

「似てる。たぶん」

「似てますか」

「似てる。でも同じじゃない」

 俺がそう言うと、彼女は仕切り板のガラス越しに一度だけ小さく息を吐いた。息のなかに、納得の輪郭が混ざっているように聞こえた。

「『済ませた』は努力がいるんです」

「うん」

「『済んだ』は最初から整っている感じで」

「そう」

「今朝は、わたしはどちらだったかなと、夕方まで考えていました」

 彼女の「夕方まで考えていました」は、俺の「夕方まで抱えていた」と、たぶん同じ形の時間だった。形が同じ時間を、仕切り板越しのふたりが別々の部屋で過ごしていた。過ごした事実そのものが、二人のあいだの密度を増やした。昼の沈黙が、夜のこの会話の密度を逆に濃くしているのを、俺は今夜のこの瞬間に自覚した。


月島(つきしま)さんは、放課後、遅かったね」

「はい。琴音(ことね)さんに少しつきあって」

「そうか」

「軽音部の見学に行ったんです。見学だけですけど」

「入るのか」

「……分かりません。たぶん入らない。音は好きだけど、人前で鳴らすのはまだ難しくて」

「そうか」

 彼女の「まだ」は、前の街での失敗の匂いを、ごく薄く連れてきていた。匂いの濃さは、今夜の仕切り板越しの空気には合う薄さだった。濃ければ踏み込むし、薄すぎれば通り過ぎる。薄いけれど通り過ぎない濃さを、彼女は今夜選んだ。俺の側は、踏み込まないほうを選んだ。選ばれた薄さは、仕切り板のアクリルの厚みと、どこか似ていた。


「明日は、雨らしいです」

「ああ」

「天気予報だと、夜から降りはじめるって」

「じゃあ、出られないかもしれない」

「……はい」

 彼女の「はい」には、寂しさの輪郭が少しだけ乗っていた。昨夜のミントの話のときより、今夜の「はい」のほうが、夜のベランダでの会話を手放したくない気配を濃く持っていた。手放したくない気配を共有したこと自体が、二日目の夜の収穫だった。


 彼女は手すりの向こうで、小さなプランターを指先で軽く揺らしているようだった。

「プランター、雨にあてるのか」

「少しだけなら、葉にはいいんです」

「そうか」

「でも、強い雨はちょっと」

「強いと、どうなる」

「葉が倒れて、土の色が変わって」

「じゃあ、明日はしまうのか」

「……たぶん。夜になる前にはしまいます」

 彼女はそう言って、指先で手すりの金属を軽く押した。押す必要のないものを押している手の動き。土曜の夜に見た手の動きと、同じ種類だった。同じ動きが今夜のほうが少し柔らかく見えたのは、今夜の空気の湿度のせいだけではない気がした。

 出られない夜をどう過ごすか、という相談は、今夜の段階ではまだ早かった。明日の空が実際にどう降り始めるかは、夜が来てみないと分からない。分からないものに対して先回りで相談を始めるのは、夜のベランダのこの空気には少しだけ重い。重くしないために、俺は出られない夜の話を今夜は持ち出さなかった。彼女のほうも持ち出さなかった。持ち出さなかった事実を共有したこと自体が、今夜のもうひとつの小さな収穫だった。


「じゃあ、そろそろ」

「ああ。おやすみ」

「おやすみなさい」

 カーテンが閉まる。灯りは点いたまま。俺はしばらく残って、月の見えない空の深さをひとしきり眺めた。


 自室に戻って、机に向かう。

 今日の一日が並び直された。朝の廊下の2メートル半。昼休みの遠回りの経路。放課後の奥の列。そして夜の「済ませた」と「済んだ」の違いについての短い会話、琴音(ことね)さんと軽音部の話、明日の雨の予報、プランターをしまう手の動き。

 昼のあいだ俺たちは、ひと言も言葉を交わさなかった。2メートル半の廊下ですれ違って、見ないで済ませたか済んだか、二人とも夕方まで確認できずに抱え続けた。抱え続けた時間は無言だった。無言の時間の重さが、夜の仕切り板越しの会話の密度に変わっていった。

 学校での沈黙が、夜の声の密度を、逆に濃くしていく気がした。

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