本とハーブの夜
火曜日の夜に降り始めた雨は、水曜の明け方には止んでいた。
起きたときには、カーテンの向こうの空は薄曇りで、地面だけが湿っていた。ベランダの手すりの金属には、小さな水滴がいくつか並んで光っていた。雨の夜のためのベランダ不在は、今回は発生しなかった。発生しなかったが、発生する可能性だけは昨夜の「はい」のなかに置かれていた。置かれていた可能性は、今朝の空気のなかに名残として薄く残っていた。
ベランダの床のコンクリートは、まだ色が濃かった。夜のあいだに降った雨が、床の目地の細い線のなかに残っていた。仕切り板の向こうの床も、たぶん同じ色の濃さのままだろうと思った。向こう側は直接見えなかったが、朝の光の角度から、こちら側と同じくらい湿っているはずだった。隣の鉢植えの葉がどうなっているかは、朝の俺の側から確認する手段がなかった。確認しようとすること自体が、朝の習慣の範囲を越えるので、俺は自室のカーテンをいつも通りの速度で引いた。
二重生活の三日目の朝は、月曜よりも火曜よりも早く家を出た。理由は特にない。早く出て、早く学校に着いて、早めに席に座っていた。駐輪場の奥の列に、黒い自転車はもう停まっていた。彼女のほうがやはり俺より早い。水曜日に水曜日らしい例外を見せないことで、彼女のパターンの安定度が、俺のなかで一段階確かになった。
学校への坂道は、雨上がりの朝らしい空気をしていた。アスファルトの黒さが、普段より深く沈んで見えた。駅に向かう人の傘が、肩にかけられたまま乾きはじめていた。ペダルを踏むたびに、タイヤが薄い水溜まりの輪郭を崩した。崩れた輪郭は、俺の背後の風のなかに散って消えた。
学校の一日は、火曜の輪郭をほぼそのまま延長したものになった。
朝の昇降口で、彼女はもう階段を上がっていた。1限の前、宗太はいつも通り俺の机の前に立って、昨日より一段薄い観察を置いて席に戻った。昼休みは今日は中庭へ遠回りせず、C組の前を通過する経路に戻した。扉の前を0.5秒で通過する。視線は入れなかった。入れないことが、昨日の遠回りよりも自然な動作に仕上がってきていた。自然に仕上がってくるというのは、慣れるということだった。慣れは約束の外周を薄く削る可能性がある。削られないように、慣れのなかに少しだけ意識を戻しておいた。
放課後は坂を登った。雨のあとの空気は、いつもの夕方より澄んでいた。住宅街の屋根のラインが、普段より鋭く見える時間帯。俺のペダルは水曜の夕方に合った速度で動いた。
* * *
家に帰って、夕食を済ませる。母は今夜も残業で、俺はひとりで冷蔵庫のハンバーグを温めた。作り置きのハンバーグは、二日前より少しだけソースがなじんでいた。
自室に戻って、机に向かう。鮎川哲也の『黒いトランク』を、机の右側に置く。昨夜まで寝る前に25ページまで読んでいたのを、今夜はベランダに持って出るつもりだった。昨日までの俺なら、ベランダに本を持って出ることはなかった。ベランダは夜風と星のためのもので、活字はそこに持ち込まない領域だった。今夜その領域に本を持ち込むと決めたのは、彼女のベランダに並んでいる小さな鉢のことが頭の片隅にあったからだった。彼女の夜のベランダに「もの」が置かれているのだとしたら、俺の夜のベランダにも「もの」を置いて話題の軸を増やすのは、悪い選択肢ではなかった。悪くないと判断したあたりで、判断していること自体が昨日までの俺にはなかった習慣だと気づいた。気づいたが、気づきを打ち消す材料は俺のなかにはなかった。
22時を過ぎて、ベランダに出た。
夜風は、雨上がりの澄んだ冷たさを持っていた。空はまだ薄雲が残っているが、雲の切れ目から月の欠片が一度見えて、次に雲のなかに戻った。手すりの金属には、朝の水滴はもう乾いていた。乾きの早さが、水曜の夕方からの風の通り具合を物語っていた。
仕切り板の向こうの灯りは、点いていた。
カーテンが動く気配がして、彼女が出てきた。
「こんばんは」
「こんばんは」
短く挨拶を交わす。今夜の彼女の声は、昨夜より少しだけ軽かった。雨が降らなかった夜の軽さというより、雨が降り終わって晴れ間が戻った夜の軽さに近かった。
「プランター、結局しまわなかったんですね」
俺は仕切り板の向こうの鉢のことを、今夜はっきり指差せる位置から見た。三つの小さな鉢が、手すりの内側の床に並んで置かれていた。鉢のなかの葉は、朝の雨に少しだけ濡れて、夕方の風に乾かされたらしい。
「しまおうと思ったんですけど、結局は予報がずれて」
「薄い雨だったからな」
「はい。葉には、ちょうどよかったくらいで」
「それは、よかった」
「よかったです」
彼女はそう言って、小さく笑った。仕切り板のガラス面に、口元の動きがうっすら映った。雨上がりの夜の最初の笑い方が、昨日までの彼女の笑い方より、ほんの少しだけ距離が近かった。距離の近さを、仕切り板のこちら側から俺は「ちょうどいい」と受け取った。
「鉢、三つあるんだ」
「はい。ひとつはローズマリー、ひとつはタイム、もうひとつは育て始めのミントで」
「ローズマリーとタイム」
「料理に使うんです。母が在宅で仕事をしているので、夕食にハーブを使うと、家のなかの空気が少し変わって」
「空気が変わるのか」
「はい。翻訳の仕事をしているので、夕方まで英文とずっと向き合うみたいで、夕食の空気を少しだけ別の方向に振ると、母の頭のなかの区切りがつきやすくなるみたいです」
彼女の説明は、昨日までより少し長かった。家族のことに触れる長さは、今夜の仕切り板越しの空気には合う長さだった。合うか合わないかを彼女自身が測りながら言葉を出しているのが、声の呼吸で伝わってきた。
俺は手元の本を、軽く手すりの上に置いた。
「それ、何を読んでるんですか」
彼女のほうから聞いてきた。
「……古いミステリ」
「鮎川哲也さん?」
彼女のほうから作家名が出てきた。俺は一瞬だけ言葉を止めた。
「知ってるのか」
「はい。『黒いトランク』、家にあります」
「書棚に?」
「はい。母の書棚に、古いのが」
夜のベランダの空気が、一段階薄く澄んだ気がした。本の話ができる人が仕切り板の向こう側にいるという事実は、雨上がりの空気と同じ透明度を持っていた。
「じゃあ、読んだことあるのか」
「途中まで。あの、列車の時刻表のあたりで、一度止まって」
「分かる。あのあたりで一度止まる人は、多いらしい」
「そうなんですか」
「古いミステリの読み方の癖らしい」
「相川くんは、全部読んだんですか」
「全部はまだ」
「そうなんですね」
「列車の時刻表のあと、犯人の特定の理詰めがしばらく続く。そこを抜けると、ラストのトランクに戻ってくる。読み終わる頃には、冒頭のトランクの重さの感じ方が変わるらしい」
「重さ、変わりますか」
「変わる。変わり方は、読んだ人ごとに違うけど」
彼女が仕切り板のガラス越しに小さく頷いた。頷きの動きが、昨日までよりわずかに深かった。本の話を仕切り板越しでできる人と夜のベランダでできる人が、同じ人であるという事実は、俺の側の夜の意味を少しずつ書き換えていった。
「わたし、海外の短編のほうをよく読むんです。クリスティとか、カーとか」
「カーは難しい」
「はい。難しいけど、読んだあとに、部屋の家具の並びが少しだけ変わって見えることがあって」
「あるな。それ」
「クリスティだと、どれが好きですか」
「『邪悪の家』あたりかな」
「あ、わたしもそれは読みました。海辺の崖の屋敷の」
「あれ、夜の家のなかの光の使い方が、ちょうどいい暗さで」
「分かります。電気をつける動作で、話が動くんですよね」
「動く」
彼女はそう言って、仕切り板越しに少しだけ姿勢を崩した。崩したというより、緊張していた肩の位置が一段階下がった動きだった。本の話が二冊目の共通銘柄を発見した瞬間、夜のベランダの空気の温度は、ほんのわずかに上がった。
「相川くんは、曲がった蝶番は」
「読んだ」
「どうでした」
「トリックより、最後の屋敷の空気のほうが、しばらく残った」
「……わたしもそうでした」
彼女のその返事は、昨夜までの夜の彼女の声よりも一段階深い位置から出ていた。声の位置の深さというのは、発声の身体的な意味ではなく、言葉に込められた経験の層のことだった。彼女のなかに、カーの屋敷の空気をしばらく抱えた夜があった。その夜の記憶を、今夜の仕切り板越しに俺は受け取った。受け取ったことを、俺は「そうか」とだけ返した。
「あっ」
彼女が小さく声をあげた。
「どうした」
「鉢の、ローズマリーの葉が」
彼女は仕切り板の向こうでしゃがみこんで、鉢の葉を指先で起こした。起き上がった葉が、仕切り板の隙間の角度から、俺の側にもうっすら見えた。濃い緑と細い針のような葉の並び。初めて視界に入るハーブの実物だった。俺は少しだけ手すりのほうに身を寄せて、その葉の並びを見た。
「ローズマリーって、こういう葉なのか」
「はい。細くて針みたいで、折ると柔らかくなるんです」
「香りは」
「嗅いでみますか」
彼女はそう言って、葉を少しちぎった。ちぎった葉を、仕切り板の隙間のぎりぎり近くまで持ってきた。持ってきたが、隙間を越えて俺の側に渡すことはしなかった。隙間の向こうに葉を置いて、俺に鼻を近づけさせる距離感だった。段階0を彼女のほうが先に守ってくれているのが、手の位置の止め方で分かった。
俺は仕切り板のアクリルの端から、鼻を少しだけ寄せた。風の通り道に、細くて尖った香りが薄く流れてきた。ハーブの香りを、俺は生まれて初めて夜のベランダで嗅いだ。昼間にスーパーの棚の前を通り過ぎたときに鼻に入る香りと、夜のベランダで仕切り板越しに流れてくる香りは、全く別の香りだった。空気の湿度と夜風の冷たさが、香りの輪郭を違う方向に磨いていた。
「……濃いな」
「濃いでしょう」
「濃い」
「折り立てだから余計に濃いんです」
「夜風と似合う香りだ」
俺はそう言ってから、言ってしまってから少しだけ後悔した。夜風と似合う、という言葉は、仕切り板越しの空気の温度にほんの少し踏み込みすぎる言葉だったかもしれない。後悔は長くは続かなかった。後悔の長さより先に、彼女の息の柔らかい音が仕切り板越しに返ってきた。
「似合いますよね」
「似合う」
「夜が夜らしくなります」
昨夜の「夜が夜らしくなる」が、今夜また別の場面で繰り返された。繰り返されたのは偶然ではなかった。彼女のなかで「夜が夜らしくなる」は、夜のベランダの自分を説明するための言い回しだった。二晩連続で出てくるということは、それだけ彼女のなかで頻度の高い感覚ということだった。
そのあと、俺のほうからも本の話をひとつ出した。カーの『三つの棺』の冒頭の講義のくだりが、最初は難解だが終盤で効いてくるという話。彼女は「その本はまだなんです」と返した。まだ読んでいない作品について話を聞いたときの彼女の声には、未読の本への期待の輪郭だけが柔らかく乗っていた。期待を抱える声は、抱えていない声より少しだけ温度が高い。温度の違いを、俺は仕切り板越しにはっきり受け取れた。
「あと、ミントが育ったら、またお知らせします」
彼女はそう付け足した。
「お知らせって」
「葉が何枚かになったら、です」
「数えてるのか」
「はい、日に二枚ずつゆっくり」
「楽しみにしておく」
「……はい」
彼女の小さな「はい」のなかに、育てているものを相手に伝えられる夜が続いてほしい、という気配が含まれていた気がした。気がしたというだけで、確証ではなかった。確証のないまま気配だけを受け取るのが、夜のベランダの仕切り板越しの会話の、たぶんいちばん合っている作法だった。
「じゃあ、そろそろ」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
カーテンが閉まる。灯りは点いたまま。俺はしばらく残って、手元の本を手すりから取り上げて、表紙の湿気を手のひらで軽く拭った。今夜のベランダに持ち出した本は、いつもと違う湿度を吸って、自室に戻ったときには少しだけ重くなっていた。
自室に戻って、机に向かう。
『黒いトランク』を机の右側に戻す。表紙のカバーの端が、夜風で少し波打っていた。今夜の本は、昨日までの本と同じ本のはずなのに、明日の朝からはたぶん少し違う本として俺の手に触れるのだろうと思った。同じ本が、同じ俺の手のなかで違う本に変わる経験を、俺は久しぶりに持った。
今日の一日が並び直された。朝の水滴。昇降口。昼休みのC組の扉の0.5秒。放課後の澄んだ空気。夜のベランダでのローズマリーの香り。鮎川哲也とカーの話。「夜が夜らしくなる」の二晩連続。
昼の彼女は、学校の廊下ですれ違っても見ないで済む人だった。
夜の彼女は、仕切り板の向こうでハーブの葉を指先で起こす人だった。
同じ人の同じ一日の、昼と夜の姿。昨日の俺には判定できなかった「どちらが素なのか」の問いは、今夜の俺のなかでも判定されなかった。判定しなくてもいいのかもしれない、という新しい仮説が、今夜ひとつ生まれただけだった。
ベッドに入って電気を消す。
彼女は、本の話ができる人だった。
それだけで、夜の意味が少し変わった気がした。




