ミントの飴
4月17日、木曜日の朝は、水曜より3分遅く家を出た。
3分の遅れは誰に指摘されるほどの遅れではない。遅れた3分のぶんだけ、駐輪場から坂の下りに合流する時刻がずれて、結果として坂の途中で紺色のブレザーの背中が、俺の前方40メートルの位置に見えた。月曜の朝より10メートル近い距離だった。距離を近づける選択肢は俺の側にはなかったし、遠ざける選択肢を取るのも不自然だった。40メートルを保ったまま、坂の終わりの分岐まで進んだ。
4月の中旬から後半に変わろうとしている朝の風は、昨日より少しだけ軽くなっていた。葉桜の緑の色は、月曜の朝より深い。街路樹の下のアスファルトには、風で落ちた若葉の影が薄く散っていた。踏まないでよけられる枚数ではなかったから、タイヤがいくつかの若葉を踏んだ。踏んだ若葉は、タイヤの音としてではなく、ハンドルを握る手のなかの微細な振動として俺に伝わってきた。振動の数だけ春が一段階進んでいた。
彼女の背中は今朝も一度も振り返らなかった。分岐で右に曲がる動作も、昨日までと同じタイミングだった。
校門の手前の信号で、俺は自転車を止めた。
信号の向こうで、彼女はすでに校門をくぐっていた。俺が青で渡って校門に入る頃には、彼女の姿は昇降口の方角の人混みのなかに溶けていた。昇降口のロッカーの列でも、俺が着くより先に彼女の痕跡は消えていた。ローファーの位置だけが、通過時刻の名残を置いていた。
階段を上がる。
2階の廊下で今朝はすれ違わなかった。水曜の朝も、火曜の朝も、廊下で二度目のすれ違いは起きていなかった。火曜の朝のあのすれ違いは、今のところ一度きりの出来事として、俺のなかに位置づけられていた。位置づけられた出来事は繰り返されないまま少しずつ輪郭を薄めて、俺の記憶のなかで標本のような場所に収まっていった。
学校の一日は、木曜らしく流れた。
木曜日は週の後半の入り口で、教室の空気は月曜より緩く、金曜より張っている。張りも緩みも中途半端な空気のなかで、ノートの文字はいつも通りに並んだ。3限の英語の時間、早川先生が2年C組の方角の話題に少しだけ触れた。英語の教科書のエッセイの内容に関連して、隣のC組でも同じ単元を進めているという、授業の小さな連絡だった。2年C組という単語が牧田先生ではなく早川先生の声で、俺の教室のなかで鳴ったのは、今日が初めてだった。俺はノートのペン先を一度だけ止めて、すぐに次の行に進めた。止めた動作の長さは、宗太に気づかれない程度の長さだった。気づかれていたとしても、宗太は深追いしなかっただろう。
昼休み、C組の扉の前を今日も経路として通過した。視線は0.5秒より短く正面に戻した。窓際三列目の彼女は、弁当の蓋の上で、水曜より少しだけ姿勢を崩して友人と話していた。友人は昨日と同じ顔。たぶん琴音さんだろうと俺は推定した。推定はあくまで推定で、俺の側から確認する手段はなかった。
放課後、駐輪場の奥の列を一度だけ見た。彼女の自転車は停まっていた。放課後に残る曜日が彼女のなかにパターンとして決まっているらしいのが、三日通して俺の側から観察できるようになってきていた。
* * *
家に帰って、夕食を済ませる。
母は今夜は夜勤で早めに家を出ていた。冷蔵庫には母の書いた小さなメモが貼ってあった。『鍋、温めて食べてね』とだけ書いてあった。俺は鍋を弱火で温めた。4月の終わりが近づいてきた今夜も、母の鍋は食卓にまだ並んでいた。
食後は自室で英語の予習を広げた。広げたが、意識は時計の針のほうにしばしば逸れた。22時までの残り時間を指折り確認している自分に気づいて、確認している自分を観察している自分がもうひとりいた。観察の階層が増えるのは、二重生活の三日目あたりから俺のなかで静かに進行していた。
22時を過ぎて、ベランダに出た。
夜風は、昨日よりも少しだけ乾いていた。雨の名残はすでに夜のどこかに吸い込まれていた。空には薄い雲が半分。月は雲の向こうに見え隠れして、光の強さを一定に保たなかった。
仕切り板の向こうの灯りは、点いていた。
カーテンが動く気配がして、彼女が出てきた。
今夜の彼女の手には、小さな紙の袋があった。
紙の袋は手のひらに収まるくらいの大きさで、口が軽く折り畳まれていた。袋のなかに何が入っているのかは、仕切り板のガラス越しからは判別できなかった。判別できないままでも、夜のベランダに初めて「もの」を手に出てきた彼女の姿は、これまでの四夜のどの姿とも少しだけ違って見えた。出てきた時点で、今夜はなにか小さな変化が起きる夜になる、ということが空気の成分として俺の側にも伝わっていた。
「こんばんは」
「こんばんは」
短く挨拶を交わす。俺の視線は、反射的に彼女の手の袋のほうに向いた。向いた瞬間、向いたことを彼女が気づいた気配があった。仕切り板のガラス越しの動きは、そういう細かい気配を取りこぼさない。
「あの」
彼女が口を開いた。
「あげるもの、というほどでもないんですけど」
「うん」
「昼間に、駅前の雑貨屋で見つけて」
彼女は袋を少し持ち上げた。
「ミントの飴なんです」
「ミントの飴」という単語の組み立て方が、今夜の夜風のなかに柔らかく置かれた。
「買ってきてくれたのか」
「はい。買ってしまって、気づいたらふたつ入ってる袋で」
ふたつ入っている袋、と彼女は言った。「ふたつ」という数が、今夜の空気のなかでは意味を持っていた。ふたつのうちのひとつを渡す、ということを彼女は事前に考えて今夜ここに出てきたのだった。
「もらっていいのか」
「……どうぞ」
「ありがとう」
彼女は袋のなかから飴をひとつ取り出した。小さな丸い飴が、透明なフィルムに包まれていた。フィルムの端が手のなかで小さく音を立てた。
飴の受け渡しは、言葉より先に位置の調整から始まった。
仕切り板の縦のラインと、二つのベランダの前方の手すりが交わるあたり。そこには仕切り板の厚みのぶんだけの隙間があった。隙間は手のひらが通るほどではない。指二本が通るかどうかの幅。ただし、手すりの金属の上面は仕切り板のすぐ裏側までまっすぐ続いていて、小さなものを置いて向こう側から引き寄せる動作は、理論上は可能だった。理論上が実際にできるかどうかは、今夜ここで彼女と俺のほうで試されることになった。
彼女は手すりの金属の上に飴を置いた。
置く位置は、仕切り板からなるべく遠くにならないぎりぎりの手前。彼女のほうの指先が、飴を置いたあとすぐに離れた。置いたあとに指を長く残すと、受け取る側の動作が難しくなる。俺の側の動作のやりやすさを、彼女は置いた直後に配慮した。配慮された動作の引き継ぎを、俺は仕切り板越しに確認した。
俺は、自分の側の手を伸ばす。
指先が手すりの金属の上をゆっくり滑って、仕切り板のきわの位置まで進んだ。仕切り板の端のアクリルの厚みが、俺の手の甲にわずかに触れた。触れたのは仕切り板だった。彼女の指ではなかった。段階0は守られていた。守ってくれたのは、彼女の「置いたあとすぐに離す」という所作だった。
飴は、俺の指先のすぐ向こう側にあった。
指の腹で飴の側面を軽く押して、こちら側に引き寄せる。引き寄せる動作は、思っていたよりゆっくり進んだ。金属の手すりの上の摩擦は、小さな飴ひとつにとってもそれなりの抵抗だった。抵抗を感じながら、飴は少しずつ俺の側に移動した。
仕切り板のきわを飴が越えた瞬間、俺のなかで、小さな「越えた」の感覚が立ち上がった。
越えたのは飴という物だった。彼女自身ではなかった。ふたりの身体は仕切り板の両側のまま、今夜も動かなかった。動かなかったが、物が越えた瞬間、空気の質は確かに変わった。変わったと俺が感じただけで、実際の温度や湿度が変化したわけではなかった。感じたという事実が、夜の記憶のなかに残る。
飴は、俺の指先のなかに収まった。
手のひらのなかの飴は、想像していたより少しだけ冷たかった。彼女の指のなかに彼女の体温が少し乗っていたのではないかと、受け取る前の俺は無意識に期待していたらしい。実際には、彼女は飴を置いたあとすぐに指を離したから、飴にはほとんど彼女の体温は移っていなかった。体温が移っていない飴のほうが、段階0の今の俺たちには、きっと正しい温度だった。正しい温度を選んでくれた彼女の所作を、俺は仕切り板越しに静かに受け取った。
「ありがとう」
俺はそう言った。
「いえ」
「開けて、食べていいか」
「はい、ぜひ」
フィルムの端を爪で開けた。小さな音がした。丸い飴を口のなかに入れる。舌の上で、ミントの香りがまず立ち上がった。香りはローズマリーより鋭い。鋭いというより冷たい。冷たさは舌の表面から奥のほうに向かって、ゆっくり降りていった。口の奥の温度が、外の夜風の温度に少しだけ近づいた。
「……冷たい」
「冷たいんです」
「夜風と揃うな」
「揃うんです」
揃う、と彼女も繰り返した。昨夜のローズマリーの「夜風と似合う」と、今夜のミントの「夜風と揃う」は、意味は近いけれど同じではない。似合うは添えられる位置の表現で、揃うは並んだ位置の表現だった。添える側から並ぶ側への、微妙な位置の移動が、今夜の彼女の言葉の選び方のなかに滲んでいた。位置の移動を彼女自身が意識して選んだのか、自然に口から出てきたのかは、俺の側からは判別できない。判別できなくても、選ばれた言葉のほうは確かに仕切り板越しの空気のなかに置かれた。置かれた言葉は、今夜の夜風のなかで消えずに、俺の耳の奥に薄く残った。
「ありがとう、本当に」
「いえ」
「飴を自分で買うことって、あまりなくて」
「そうなんですか」
「甘いものは、だいたい母の棚にあるのをもらう」
「……じゃあ、お守りみたいにしてください」
「お守り」と彼女は言った。
短い単語だったが、単語の選び方のなかに、食べたあとの袋のほうを残しておいてほしいという気配が入っていた。食べる飴を「お守り」にするのは、論理的には矛盾する。食べたら残らない。残らないが、袋のほうは残る。たぶん彼女は、飴のほうではなく袋のほうを指して「お守り」と言っていた。
「お守りか」
「……はい」
「分かった」
俺はフィルムの端を指先で軽く折り畳んで、ポケットに入れた。落とさないほうのポケットに入れた。ポケットのなかで、フィルムが軽く音を立てたのを、俺は鈍く感じ取った。
ポケットのなかのフィルムは、俺の体温に馴染むのに、思っていたより時間がかかった。馴染むまでのあいだ、フィルムは冷たいままの小さな異物として、ポケットの布を介して俺の太腿の外側に軽く触れていた。冷たい異物が体温に馴染む時間は、たぶん飴が口のなかで溶けるまでの時間とだいたい同じくらいだった。
彼女は、袋のなかに残ったもうひとつの飴を、袋ごと自分の手のなかに戻した。もうひとつは自分用だった。自分用のほうを彼女は今夜はベランダでは食べずに、部屋に持って入るらしかった。持って入った飴を自分の部屋のどの位置に置くのかは、彼女の部屋のなかの話で、俺の側から確認する手段はなかった。
「じゃあ、そろそろ」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
カーテンが閉まる。灯りは点いたまま。俺はしばらく残って、口のなかの飴の冷たさと、ポケットのなかのフィルムの感触を、別々に意識して過ごした。意識した時間は、たぶん3分くらいだった。3分のあいだに、飴はもう半分くらい小さくなっていた。
自室に戻って、机に向かう。
ポケットからフィルムを取り出して、机の上に置く。フィルムは端が折り畳まれて、小さな三角形になっていた。三角形のフィルムは、机の上で転がらない形をしていた。転がらない形のものを机の右上に置くと、机の上のほかの物との位置関係が、いつもと少しだけ変わった。変わった位置関係のなかに、俺は今夜のベランダの記憶を預けた。
机の左側には、昨夜持ち出した『黒いトランク』が置かれたままになっていた。右側には今夜のミントの飴のフィルム。本とフィルム。ハーブと飴。二日連続で、俺の机の上には彼女のベランダから来たものの痕跡が置かれていた。痕跡は物そのものではない。物そのものは、本は元から俺のもので、飴はもう口のなかで小さくなりかけていた。痕跡として残っているのは、本のカバーの夜風の湿気と、飴のフィルムの折り畳まれた角度だけだった。痕跡は軽い。軽いのに、机の上のいつもの配置を変える力だけは、はっきり持っていた。
ベッドに入って電気を消す。
天井の暗さのなかで、飴の冷たさの名残が、口の奥でまだ静かに続いていた。口の奥の冷たさは、仕切り板越しに差し出された彼女の所作の冷静さと、温度として似ているように感じた。急がず体温を乗せずに、置いたあとすぐに離す。その手の動きの冷静さが、ミントの飴の冷たさとして口のなかにまだ残っているのだった。
冷たさが完全に抜けた頃、俺は明日の朝の自分が今夜のフィルムをどこに置くかを決めなければならないことに気づいた。捨てるのか、引き出しに入れるのか、机の上に残すのか。選択肢は三つあったが、俺のなかにはすでに答えが静かに置かれていた。
小さな飴の袋を俺は捨てられないと、もう分かっていた。




