星座早見盤と連絡先
4月18日、金曜日の朝は、火曜と水曜と木曜の朝の平均のような時刻に目が覚めた。
金曜日は週の終わりの入り口で、身体が平日の後半の疲れを自覚しはじめる朝だった。制服を着て台所に降りる。母は今朝は早番の日勤で、俺より先に家を出ていた。冷蔵庫に小さなメモ。『夜は早めに帰る』とだけ書いてあった。金曜の夜に母が家にいるのは珍しい。看護師の夜勤のシフトは、金曜を外される週と入れられる週が交互にやってくる。今週は外される週らしかった。
朝食を済ませて家を出る。駐輪場の奥の列に、黒い車体はもう出ていなかった。
坂を下る。金曜の朝の風は、月曜より湿度が低く、水曜より少し冷たかった。4月の終わりが近づくと、朝と夜の気温差が一度ずつ広がる。広がっていく気温差のなかで、俺の自転車の下りの速度は昨日とほぼ同じだった。同じ速度のまま、前方40メートルに紺色のブレザーの背中を確認した。木曜と同じ40メートルだった。40メートルという距離が俺のなかで少しずつ水準のような位置を持ち始めていた。
校門の手前で信号が赤になる。彼女はもう校門をくぐっていた。いつも通りの段取りだった。
階段を上がる。2階の廊下では今朝もすれ違わなかった。火曜の朝の一度きりのすれ違いは、今週のなかの小さな例外として収まり、今週の残りの朝はすべて非すれ違いで統一されていた。統一された動きのなかに、今週の俺と彼女の歩調が、週の終わりに向けて少しだけ整ってきていた。
学校の一日は、金曜日らしく流れた。
教室の空気は木曜より少しだけ緩んでいた。緩みのぶんだけ、宗太の口数が午後のほうから増えてきた。昼休み、中庭で宗太が話したのは、今週末にバスケ部の練習試合があるという話だった。試合の相手校や集合時刻や、顧問の先生が今朝から少しだけ緊張しているという細かい観察。宗太の口から出る情報は、そのぶんだけ具体的だった。
「湊、土曜どっか行くのか」
「行かない」
「暇か」
「暇だ」
「俺、試合なんだよ。観にこいとは言わねぇけど」
「観にはいかない」
「知ってた」
宗太は笑って卵焼きを箸でつまんだ。宗太の笑い方は、金曜の昼休みらしい緩さをしていた。今日の俺と彼女のあいだに起きていることに、今週の宗太はまだ触れない。触れないことが今週の宗太の選択だった。
放課後は駐輪場の奥の列を一度だけ見た。彼女の自転車は今日もまだ停まっていた。放課後に残る曜日が、彼女のなかで月・水・金に固まっているらしかった。軽音部の見学が金曜に集中するのか、ほかに用件があるのかは俺の側からは分からない。
* * *
家に戻って、夕食を済ませる。今夜は母と二人で食べた。金曜の夜に母が家にいるのは、久しぶりだった。
「湊、最近、顔色いい気がする」
母が食卓でふと言った。
「そうか」
「うん」
「気のせいじゃないか」
「気のせいかもね」
母は深く追わなかった。母は昔からそういう人だった。言葉を置いて、相手が拾うか拾わないかを決めさせる。拾わないと決めた俺の選択を、母は「気のせい」で閉じてくれた。閉じたあとの食卓の空気は、金曜の夜らしい緩さをしていた。
食後は自分の部屋に戻った。机の上には、昨夜のフィルムの三角形が、昨日と同じ位置に置かれたままになっていた。フィルムは24時間のあいだに、色も形も変わらなかった。ただ、俺の側の机のほかの物との位置関係のなかで、フィルムはすでに「捨てないもの」の位置に固まっていた。
机の引き出しの中段を開けた。
一番奥に、紙の筒に巻かれた星座早見盤が入っていた。中学の天文同好会に所属していた頃に、父に買ってもらったものだった。父が亡くなったあとは、使う頻度がぐっと減って、最近は半年に一度くらいしか回していなかった。筒の外側の紙は少し色褪せているが、中身の円盤は状態がよかった。金曜の夜に母が家にいる週末に、俺がこの筒を今夜引き出しから出した理由は、自分でもうまく説明できない。ただ、出した事実だけは残った。
22時を過ぎて、ベランダに出た。
4月下旬の夜風は、木曜の夜より少し冷たかった。空は今夜は雲が薄く、月はない夜。星の光がよく見える夜だった。街灯の少ない方角の空では、等級の高い星のいくつかが、はっきり位置を示していた。
仕切り板の向こうの灯りは、点いていた。
カーテンが動く気配がして、彼女が出てきた。
「こんばんは」
「こんばんは」
短く挨拶を交わす。彼女の視線は、俺の手のほうを一度だけ確認した。昨夜は彼女のほうが「もの」を持って出てきた。今夜は俺のほうが細長い紙の筒を手にしていた。夜のベランダに「もの」を手にして出るのが、彼女のほうだけの動作ではなくなった夜だった。
「今夜は星、見えるんですね」
彼女のほうから先に口を開いた。
「ああ」
「わたし、月のない夜の空は好きで」
「同じだ」
彼女の「好きで」は、夜のベランダで出た彼女の感情を表す言葉の最初の一言だった。花や葉やハーブや飴について彼女はすでに言葉を置いていたが、空のことを「好き」と言ったのは今夜が初めてだった。夜空は物ではない。物ではないものに対する彼女の感情が、「好き」という短い単語の形で、今夜の仕切り板越しに置かれた。
「相川くんは星の名前、分かるんですか」
「いくつかは」
「……たとえば」
彼女が夜空を指差した。指差したのは、仕切り板のこちら側からだと少し見えづらい方角の空だった。角度を調整して、俺は手すりに肘をついて覗き込む。彼女が指差しているのはアルクトゥルス。5月の夜空に移行していく時期の、目立つ橙色の星だった。
「アルクトゥルス」
「……読みづらい名前」
「そうらしい。牛飼い座のいちばん明るい星」
「牛飼い座」
「星の並びは、北斗七星の柄の延長でカーブを描いた先にあって」
「春の大曲線、ってありますよね」
「それだ」
彼女が春の大曲線の名前をすでに知っていたのは、俺にとって小さな驚きだった。家で星の本を読んでいるのか、中学の理科の授業の記憶か、どちらかだった。どちらでも、夜の空について話せる相手が仕切り板の向こうにいるという事実は、今夜の空気の温度をもう一段柔らかくした。
俺は手元の紙の筒を、手すりの上に軽く置いた。
「これ」
「なんですか」
「星座早見盤」
彼女の視線が、仕切り板越しに筒に集まった。
「持っていたんですか」
「中学のときに父に買ってもらった」
「父」という単語を俺は仕切り板越しに出した。出してしまってから、出しすぎかもしれないと一瞬迷った。迷いは長くは続かなかった。今夜の夜風の温度と月のない空の透明度と、さっきまでのアルクトゥルスの話の延長線上に、父という単語はちょうど納まる位置にあった。
「……そうなんですね」
彼女の「そうなんですね」のなかに、踏み込まないことを選んだ彼女の所作があった。昨夜の飴の受け渡しのときの「置いたあとすぐに離す」と、同じ種類の所作だった。踏み込まないが無関心ではない温度だった。
「貸そうか」
「……いいんですか」
「明日でも、明後日でも、回してみて」
「はい、ぜひ」
筒の受け渡しは、昨夜の飴の受け渡しの段取りをそのまま引き継いだ。彼女が自分の側の手を伸ばす前に、俺は筒を手すりの上にまっすぐ置いた。置いたあとすぐに指先を離した。昨夜彼女がしてくれた所作を、今夜は俺が返す側に回った。役割の入れ替わりは、仕切り板越しの静かな交代として成立した。
彼女は指先で、筒の端をゆっくり自分のほうに引き寄せた。引き寄せる速度は、昨夜の飴より少し遅かった。筒は飴より長くて重いので、手すりの上での摩擦も大きい。金属の手すりの上を、筒の端が擦れる音が小さく夜のベランダに鳴った。
筒が仕切り板のきわを越える瞬間、俺のなかで、昨夜と同じ「越えた」の感覚が立ち上がった。今夜は、物のほうは俺から彼女に向かった。方向が逆の「越えた」だった。方向が逆でも感覚の質はだいたい同じだった。仕切り板の両側のふたりは、身体は動かさないまま、物だけを交互に越えさせて、夜の記憶を少しずつ積み上げていく。積み上げ方の作法が、今夜でひとつ確立された。
筒を両手で受け取った彼女は、それを自分の胸のあたりで軽く持ち直した。胸のあたりで持ち直した動作には、筒の重さを自分の身体の中心で確認する所作が含まれていた。借りた物を借りたままにせず、重さを自分の側の身体で一度引き受ける。彼女の持ち方には、そういう丁寧さが混ざっていた。
「ありがとうございます」
「うん」
「大事にします」
「大事にしなくていい。使っていいから」
「使って、大事にします」
彼女はそう返して、小さく笑った。仕切り板のガラス面に、口元の動きがうっすら映った。
そのあと、彼女が部屋のなかからスマホを持ってきた。小さな音量で、音楽を流した。ギターのアルペジオと、静かな女性のボーカルだった。曲のタイトルを俺は知らなかったが、曲名を聞くのは今夜の空気には少し不似合いに思えたので、聞かなかった。聞かなくても、曲のトーンが今夜の夜空の透明度とそこそこ合っていることは分かった。音楽は仕切り板越しにも漏れてくる。漏れてくる量は、俺のベランダからちょうど聞こえる程度に調整されていた。調整の繊細さが、彼女の所作の繊細さとだいたい同じ位置にあった。
ギターのアルペジオは同じフレーズを何度か繰り返すタイプの曲で、繰り返しのあいだに、彼女が曲に合わせて少しだけ指先を動かしていた。手すりの上の指の動きは、音楽に合わせているのか、無意識の癖なのか、仕切り板のガラス越しからは判別できなかった。判別できないままでも、指先の動きが小さく繰り返されていることだけは、俺の側から見てとれた。
俺のほうは肘を手すりについたまま、夜空のアルクトゥルスをもう一度確認した。橙色の星の位置は、ギターの繰り返しのあいだに、わずかに西へ動いたかもしれない。動いたとしても、俺の目で識別できるほどの量ではない。識別できない動きと、彼女の指先の動きと、ギターの繰り返しが、今夜のベランダの音と光のなかで別々に並んで進んでいた。
曲がひとつ終わったところで、彼女が切り出した。
「あの」
「うん」
「連絡先、交換しておきませんか」
「ああ」
「雨の日のために」
「そうだな」
「晴れの日は使いません」
「うん」
彼女の言い方のなかに、「晴れの日には使わない」という前提が自然に置かれていた。俺もその前提に合意していた。合意するまでもなく、前提は仕切り板越しの空気のなかにすでに溶けていた。
俺はスマホを手すりの上に置いた。彼女も仕切り板の向こうで同じ動作をした。画面を仕切り板のガラス越しに見せ合って、連絡先を交換する方法を言葉で調整した。ガラス越しでは画面の細かい文字は読めなかったが、アカウントの一文字ずつを声で伝え合えば、交換は成立した。
交換が終わると、彼女は画面をすぐに伏せた。俺も伏せた。連絡先はこれからの雨の夜のためのもの。晴れの夜には使わない。使わないが、保有しているということ自体が、雨の夜の不在の重さを少しだけ軽くしてくれるはずだった。
「ありがとうございます」
「ああ」
「使うのは、雨の日まで取っておきます」
「うん」
「晴れの日はここで」
「うん」
彼女の「晴れの日はここで」は、今夜の夜空を見上げたまま言われた。夜空を見上げたまま出た言葉のほうが、仕切り板の裏側を覗き込んで出る言葉より、温度が少しだけ高い。温度の違いを、俺は今夜の夜風のなかに薄く受け取った。
「じゃあ、そろそろ」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
カーテンが閉まる。灯りは点いたまま。俺はしばらく残って、夜空のアルクトゥルスをもう一度確認した。橙色の光は、さっきと同じ位置で変わらずに光っていた。星の位置は変わらないが、今夜の空の見え方は、俺のなかでもう一段別のものに変わっていた。
自室に戻って、机に向かう。
ポケットから飴のフィルムを取り出して、机の右上の昨日と同じ位置に戻す。昨日から置きっぱなしのフィルムの三角形の隣に、今夜は何も物を足さなかった。星座早見盤は彼女の側に渡してしまったので、俺の机の上には増えるものがなかった。増えるものがなかったが、俺のなかで増えたものは確かにあった。
彼女の部屋の灯りが、仕切り板越しに俺の側のベランダにも薄く届いていたのは、実は今夜に始まった話ではなかった。先週の水曜の夜から毎晩のようにベランダに出るたびに、仕切り板越しに彼女の部屋の灯りは見えていた。見えているだけで、俺の側は特に気にしていなかった。
今夜から、少し違っていた。
ベランダに出ていない時間でも、壁の向こう側の部屋の灯りのことを俺は意識しはじめていた。壁一枚で隔てられた向こう側の部屋で、彼女は今夜たぶん早見盤を回している。ギターのアルペジオをもう一度かけているかもしれない。俺の連絡先の文字列を、雨の日まで封印して机のどこかにしまっているはずだった。そういう動作のひとつひとつが、壁の向こうで今夜起きているはずだった。
含まれていたのは、物理的な光のほうだけではなかった。壁の向こうの動作の気配、ギターのアルペジオの余韻、手すりの上の指先の動きの記憶。そういう複数の層が、今夜の俺の部屋のなかに静かに混ざっていた。
いつの間にか、俺の夜には、彼女の部屋の灯りが含まれていた。




