雨の夜はベランダに出られない
4月19日、土曜日の朝は、薄い雲がかかっていたが雨の予感はまだ空に出ていなかった。
週末の朝、俺は10時近くまでベッドのなかで天井を眺めていた。土曜日の朝に二度寝の延長が入るのは、いつものことだった。母は早番の日勤で朝7時には家を出ていた。冷蔵庫にメモ。『お昼、蕎麦あるから』とだけ書いてあった。冷蔵庫のなかに、蕎麦の乾麺とつゆのペットボトルが並んでいた。
午前中、自室で『黒いトランク』を少し読み進めた。列車の時刻表のくだりに差しかかった。昨日までのページでは、列車の時刻表の章はまだ遠い位置に置かれていたが、土曜の午前中に手元のページは一気にその章の入り口に到達した。列車の時刻表の章は、読む人によって止まる章らしいと俺は誰かから聞いた記憶がある。誰から聞いたかは、いま思い出せない。思い出せないまま、俺は章の入り口のページを読み進めた。
水曜の夜のベランダで「途中まで」と彼女は言っていた。彼女の「途中まで」が、この列車の時刻表の章の入り口と、たぶん同じあたりで止まっていたのだろうと俺は想像した。想像の輪郭だけを持ったまま、ページをめくる速度は普段よりわずかに遅くなっていた。読む速度が遅くなるぶんだけ、文章のなかの小さな違和感に気づきやすくなった。気づきやすくなった違和感は、古いミステリの読み方として、そう悪くない方向だった。
昼前に宗太からメッセージが届いた。
『試合勝った』とだけ書いてあった。
『お疲れ』と俺は返した。
『今から打ち上げ』
『おう』
『湊、マジで暇なのか』
『暇』
『じゃあ来るか』
『来ない』
『だと思った』
宗太は笑顔の絵文字を最後につけた。宗太のメッセージは、普段の口調そのままの簡潔さで進んだ。宗太の打ち上げに混ざる選択肢は俺のなかになかったが、土曜の昼に宗太のメッセージが届く事実だけで、今日の俺の気分は少し整った。
昼食は冷蔵庫の蕎麦を茹でて食べた。鍋で麺を茹でる動作は、一人暮らしに近い形で身につく動作のひとつだった。俺の家は一人暮らしではないが、母の夜勤の多さのぶんだけ、一人で食事を準備する機会は同級生より多いほうだった。
蕎麦のつゆは、いつも通りの味だった。つゆの冷たさを口のなかに入れたあたりで、窓の外が少しだけ暗くなっていることに気づいた。薄曇りから雲の厚みが一段階進んだ感じ。午後に雨になる確率は、朝の時点では五分五分くらいに俺は感じていた。五分五分が六分四分に傾いたのは、蕎麦を食べ終わった頃だった。
午後になると、雲の厚みは予想より早く進んだ。
14時頃に窓の外を見ると、空は鉛色に近い灰色になっていた。雲の底がはっきり見えて、底の向こうには光の射し込む隙間がほとんどなかった。湿度が少しだけ増した気がするのは、俺の感覚の問題か、気圧の変化のせいか、判断はつかなかった。判断がつかなくても、身体のほうは空気の重さにすでに反応していた。呼吸の速度が普段よりわずかに浅くなっているのを、俺は机の前で感じ取った。雨が降る前の部屋の空気は、降ったあとの部屋の空気より、たぶんいつも少しだけ重い。重さのぶんだけ、身体はゆっくり動く。ゆっくり動くことを自分に許すのが、雨の前の午後の正しい過ごし方だった。
15時ちょうどに、最初の雨粒がベランダの手すりに当たった。
音は小さい。雨粒ひとつ分の音は聞き分けられない音量だったが、金属の手すりの上で跳ねる音と、コンクリートの床の上で散る音は、微妙に違う。俺は自室のカーテンを少しだけ開けて、ベランダの床の色を見た。床の色は、いつもの乾いたコンクリートの色から、一段階濃い灰色に変わりはじめていた。
16時を過ぎる頃には、雨ははっきりとした雨になっていた。
傘を差さずに出るには、もう無理な量だった。夕方の予報は『夜まで断続的に』と書かれていた。「断続的」という副詞は、予報用語のなかで俺がいちばん信用していない言葉のひとつだった。断続的は、実際には「断」より「続」が多く出ることが経験上多い。
17時を過ぎたあたりから、雨の音は窓ガラスの向こうで一定のリズムを刻みはじめた。一定のリズムに入った雨は、少なくともこのあと数時間は止まないという意味だった。ベランダの手すりに当たる水滴の音は、さっきまでよりも深くて低い。雨粒のサイズが大きくなったからか、溜まった水のなかに次の水が落ちる音に変わってきたからか、どちらかだった。
俺はカーテンを一度完全に閉めて、椅子の位置を窓から少しだけ離した。窓ガラスの向こうの雨の景色を長く見ていると、気持ちが方向を失う。失ったあとに戻す手間を、今夜の俺はかけたくなかった。
* * *
夕食は、母が日勤から戻ってから一緒に食べた。
今夜の鍋は、土曜の夜のいつものメニュー。湯気のなかに、ほうれん草とえのきとうどんの香りが混ざった。母は鍋の蓋を開けるたびに、少しだけ肩の力を抜くような動きをした。金曜の夜勤を外された週末の母は、土曜の夜の鍋の湯気のなかでいつもの速度に戻っていった。
「雨、強くなってきたね」
「うん」
「今夜、出ないの? ベランダ」
母が唐突にそう言った。
母の口から「ベランダ」という単語が出るのは、普段あまりない。母は俺の夜のベランダ習慣を、黙認しているだけで言葉にはしない人だった。今夜は雨のせいで、母の側でも少しだけ言葉が出やすくなっているらしかった。
「出ない」
「そうだよね」
「出られないから」
「そう」
それだけの会話だった。母はそれ以上追わなかった。追わないまま、鍋のうどんを箸でつまんだ。
夕食のあとは自室に戻った。
机の上に、昨日のフィルムの三角形。今夜は右上に新しいものは増えない。星座早見盤は彼女のほうに渡したままだから、俺の側の机には何も足されない。増えないというよりは、今夜は「引かれる」側の夜だった。彼女と仕切り板越しに会えない時間は、俺の机の上から引き算されるように感じられた。引き算の感覚は、昨日までの俺の机の上には置かれていなかった感覚だった。
22時を過ぎた。
普段ならベランダに出る時刻だった。今夜はカーテンを閉めたまま、俺は机の前に座っていた。窓ガラスには、雨粒が斜めに走っていた。走るたびに、ガラスの向こうの景色の輪郭が少しずつ歪んだ。ベランダには出ない。出ても、仕切り板の向こうには誰もいないはずだった。出て確認する意味は、今夜は用意されていなかった。
カーテンの隙間から、仕切り板の向こうの灯りが薄く届いていた。
昨日までは、ベランダに出てから確認していた向こうの灯りが、今夜は自室の窓ガラスを通して、ひとつ隔てを多く抱えた状態で俺の部屋に届いていた。隔てがひとつ増えた灯りのほうが、俺のなかでは少しだけ重く感じられた。
机の上のスマホが、軽く震えた。
画面に表示されたのは、昨夜交換したばかりのアカウント名だった。『月島』とだけ書かれていたその名前を、俺は昨夜のうちに彼女の名字で登録していた。
メッセージは短かった。
『出られないですね』
俺は少し考えてから返した。
『ああ』
『雨、強くなりましたね』
『強いな』
『相川くんは夕食、もう済ませましたか』
『済ませた。母と鍋』
『土曜の鍋、いいですね』
『うん』
『うちも今夜は母と一緒でした。翻訳の締切が一段落したみたいで』
『よかったじゃないか』
『はい。母の緊張が抜けると、家のなかの空気が一段軽くなります』
『分かる気がする』
『相川くんのお母さんは、看護師さんでしたよね』
『ああ』
『夜勤もあるんですよね』
『週の半分くらいは』
『大変ですね』
『母は慣れてる』
『慣れる、ってすごいことだと、わたしは思います』
『そうかもしれない』
そのあと、数分の沈黙がスマホの画面の上に流れた。沈黙のあいだに、俺はカーテンの隙間を少しだけ広げて、仕切り板の向こうの灯りをもう一度確認した。向こう側の窓ガラスにも、雨粒が走っているはずだった。同じ雨粒が、俺のガラスと彼女のガラスを別々に濡らしているという事実を、俺は今夜の引き算の続きとして受け取った。
スマホがもう一度震えた。
今度のメッセージは、さっきより短かった。
『……寂しい』
三文字だった。
三文字のなかに『寂』と『し』と『い』が並んでいた。それだけの三文字が、今夜の雨の夜のなかで、ちょうどいい長さの言葉として俺のスマホに届いた。長い言葉は今夜の雨にはたぶん合わない。短い言葉は、届くまでに雨粒の形を通過できる。三文字の重さは、仕切り板越しに彼女の肉声で出ていたら、もっと柔らかかったはずだった。文字になったことで、重さは保ったまま角度が変わっていた。
俺はすぐには返事を打たなかった。
打たないでいる時間は、今夜の俺と彼女のあいだに必要な時間だった。即答すると、この三文字の重さが画面の上を通過するだけの言葉になりかねなかった。通過させたくない重さを一度机の上に置いておくために、俺は10秒ほど指を止めた。10秒のあいだに、雨粒の音は窓ガラスの向こうで続いていた。続いている音のなかで、三文字は徐々に俺のなかで定着した。
10秒のあとに、俺は返した。
『うん』
『寂しい』
『知ってる』
『知ってる』と書いたあと、俺は少しだけ後悔した。知っているというのは、分かっているという意味で打ったが、『知ってる』という短い形は、『俺もそうだ』を先回りしすぎる形かもしれなかった。後悔はすぐに薄れた。薄れたのは、彼女からの次のメッセージが、その後悔を飲み込む前に届いたからだった。
『知ってる』と画面に残った文字を、俺は一度だけ見返した。三文字の『寂しい』と三文字の『知ってる』が、画面の上で縦に並んでいた。同じ三文字同士のやり取りが、今夜の雨の夜の俺と彼女のあいだに、たぶんいちばん合う形だった。合う形として画面に残ったのなら、後悔はそれ以上深追いする必要がなかった。
『じゃあ、おやすみなさい』
『ああ。おやすみ』
会話はそこで閉じた。画面の上の最後のメッセージは『おやすみなさい』と『おやすみ』だった。いつものベランダで交わしているのと同じ二文字と三文字が画面の上に並んでいた。並び方は仕切り板越しの声のときと同じはずなのに、画面の上の二文字と三文字は、肉声の二文字と三文字と少しだけ違う重さをしていた。
肉声のときは、「おやすみ」と言ったあとに夜風の音が混ざる。夜風の音は、言葉の輪郭を少し丸める。丸められた輪郭の「おやすみ」が、俺と彼女のあいだにここ何日か積み重ねられていた。今夜のは、夜風の音の代わりに、文字の静けさが輪郭を縁取っていた。縁取りの種類が違うと、同じ四文字でも別のものに見えた。別のものに見えるが、別のものではないということを、俺は自分に言い聞かせた。
俺はスマホを机に伏せる。
ベッドには入らないまま、しばらく机の前に座っていた。雨の音は窓の向こうで続いていた。続いている音の奥に、仕切り板の向こうの彼女の部屋の動作の気配がたぶん今夜も小さくあるはずだった。俺からは確認する手段がない。手段がないまま、俺はベランダに出ない夜を、机の前で過ごした。
机の左側には『黒いトランク』、右上には飴のフィルム。右上の空いたスペースには、本当なら今夜も何か置かれるはずだった。晴れていれば、仕切り板越しの会話のなかで、新しい何かが俺のなかに増えていたはずだった。増えるはずだったものの不在は、机の右上の空白として見えた。見えた空白は、今夜の雨の音と対になって、部屋のなかに静かに並んでいた。
彼女は貸した星座早見盤を今夜どこで回しているのだろう、と俺は机の前で思った。雨の夜に早見盤を回しても、空の星と照合する相手はいない。照合しなくても、回すことそのものを楽しめる種類の人なのだろうと、俺は彼女について少し推測を伸ばした。推測は確かめられないまま、机の前の時間の流れのなかに薄く置かれた。
ベッドに入って電気を消す。
雨の音は、ベッドのなかまで変わらない音量で届いた。音量は変わらないが、聞いている身体の位置が机の前からベッドに変わると、同じ雨の音の聞こえ方は少しだけ違った。ベッドの位置で聞く雨の音のほうが、机の前で聞く音より柔らかく感じられた。柔らかいというよりは、自分の身体のほうが力を抜いて受け取っているぶんだけ、音が柔らかく入ってくるのかもしれない。
天井の暗さのなかで、スマホに残った『寂しい』の三文字が、何度か浮かんでは消えた。浮かんでは消えるというより、ずっと浮かんだまま、俺が見るたびに浮いているように感じられるだけだった。寂しいという言葉を、誰かから文字として受け取ったのは、俺の人生のなかで何度目かの経験だった。中学の冬に父を亡くしたあとにも、それに近い文字を何度か受け取ったことがある。ただし今夜の『寂しい』は、そのときの『寂しい』とは、だいぶ違う種類のものだった。
今夜のは、会えない夜に、仕切り板一枚分の距離を越えられないという意味の『寂しい』だった。越えられる距離なら、越える。越えられないからこそ、文字になる。越えられなさのなかにある三文字の形が、今夜の雨粒の音と一緒に、俺のなかに静かに並んだ。
会えない夜は、思ったより寂しい。
それが分かっただけでも、この雨には意味があった。




