カーテン越しの灯り
4月20日、日曜日の朝も雨は続いていた。
昨日の夜から一定のリズムで続いていた雨は、夜明け前には少し強くなり、朝起きた頃にはもう一段強くなっていた。窓ガラスを走る雨粒のサイズが、土曜の夜より大きい。雨音も、マンションの5階まで上がってくるアスファルトの跳ね返りの音が混ざって、土曜の夜より厚みがあった。
日曜の朝の家には、母がいた。
母のシフト表によると、今週は土曜が早番で、日曜は休みの週だった。金曜を外された週の翌土日は、母の休息にあてられる回が交互にやってくる。今週はその当たりの週だった。母は朝食を作って、俺と一緒に食べた。焼き魚にごはんと味噌汁。味噌汁のなかに、わかめとねぎが入っていた。母が自分で作る味噌汁は、作り置きのときより少しだけ味が薄い。薄いほうを、母は自分で食べる用に好んだ。
「湊、雨すごいね」
「うん」
「今日出かけるの?」
「出かけない」
「そう」
母は自分の箸を置いて、窓のほうを一度だけ見た。母の視線の流し方は、俺の側の誰かを想像している動きではなく、単に雨の強さを確認している動きだった。確認が終わると、母はまた箸を動かした。
午前中、俺は自室で『黒いトランク』の続きを読んだ。
列車の時刻表の章は、読む速度が自然と遅くなる章だった。昨日の俺が予測した通りだった。行の途中で何度か止まって、時刻表の縦の数字の並びを目で確認する。縦の数字を確認するには、俺の頭のなかにあらかじめ土地の縮尺の感覚がないといけない。俺の頭のなかの縮尺は、九州の列車網に対しては解像度が低かった。解像度の低さを補うために、ページの進みは土曜の午前中の倍くらいの時間がかかった。
時刻表のページをめくるたびに、雨の音が耳の奥に少しずつ溜まっていく感覚があった。音が耳の奥に溜まる現象は、ミステリの古典を読むときの集中の仕方と、たぶん相性がよかった。活字のほうに意識を強く寄せていると、外の雨の音は意識の焦点の外側に落ちて、代わりに雨音が本のページの裏側の白い余白の上に沈んでいくような錯覚を覚える。錯覚だったとしても、その錯覚の気配は、雨の日曜の午前中の時間の使い方としてそう悪くなかった。
昼食は母と一緒に食べた。レンジで温めたピザトーストと、インスタントのスープ。日曜の昼の母は、普段より口数が少し多かった。病院の同僚の誰かが転職することになったらしい話を、母は箸を動かしながら短く話した。転職先は県外の大きな病院で、夜勤のシフトがさらに重くなるらしいという話だった。
「湊、夜勤って、身体にどれくらいくるかって、人によるのよ」
「そうか」
「わたしは、まあ、慣れた」
「うん」
「でも、慣れない人は、辞めるほうがいいときもある」
母はそう言って、スープの最後の一口を飲んだ。母が自分の仕事について少しだけ広げて話すのは、月に一度くらいの頻度だった。日曜の昼の雨の日に、その頻度が当たるのは珍しくなかった。雨の日の母は、家のなかで言葉を少し増やす傾向があった。
「湊は、慣れるほうだと思う?」
「何に」
「いろんなことに」
「……分からない」
「そう」
「慣れるほうが楽だけど、慣れないほうがいいときもあるかもしれない」
「うん、そういうことも言える」
母はそれ以上追わなかった。俺の「分からない」を、母は「そう」で受け止めてくれた。受け止められた「分からない」は、リビングの食卓の上で、ピザトーストの残りと一緒に静かに置かれていた。
午後になって、雨は少しだけ弱くなった。
弱くなったが、ベランダに出るにはまだ足りない量だった。俺は自室の窓のカーテンを半分だけ開けて、仕切り板のほうを見た。向こう側の灯りは、日曜の昼間もおそらく点いていた。昼間の灯りは、カーテンが閉まっているぶん夜のときより判別しにくい。隣の部屋が明かりをつけているか消しているかの区別は、昼間のガラスの反射のなかに紛れてしまう。
3時のおやつの時間に、母がインスタントのコーヒーを入れてくれた。
俺は自室からリビングに移動して、母の向かいに座った。テーブルの上には、母の読みかけの本が置いてあった。タイトルは海外の翻訳ミステリで、帯には『新訳』と書かれていた。母が翻訳ミステリを読むのは、俺の知るかぎり珍しい。いつもは日本の現代小説のほうを好む人だった。
「最近、ミステリ読むの?」
「そう。湊が棚から一冊持ってったでしょう。それで、久しぶりに読みたくなって」
母は俺の机の上の『黒いトランク』のことを言っていた。俺が引き出しから取り出したタイミングで、母も自分の棚から似た系統の本を取り出していたらしい。どちらが先に取り出したかを母は聞かなかった。聞かれても俺は答えなかっただろう。この家のなかには、父の書棚だったものがまだいくつか残っている。母と俺のあいだで、その棚を別々に使う週があるのが、たぶん今週だった。
「その本、お父さんのだったの?」
俺は少し考えてから聞いた。
「そう。買ったの、もう20年近く前」
「古いんだ」
「古いけど、紙は悪くないよ」
母は本のカバーを指先で軽く撫でた。撫でる動きは、本ではなく本のカバーの背後にある時間を撫でるような動きだった。日曜の雨の午後の3時、インスタントのコーヒーの湯気のあいだに、20年前の紙を撫でる手の動きがあった。俺はその動きを見てから、自分のコーヒーに口をつけた。熱さは、いつものインスタントの温度より少しだけ下がっていた。母の湯沸かしの手のなかの微妙な温度差が、今日の雨のせいで下方向に振れていたのかもしれない。
夕方には雨が一度弱くなりかけたが、結局また戻った。
予報は『夜半まで続く』と書き換わっていた。昨夜の予報の『夜まで断続的に』より、今日の予報のほうが正直だった。予報の正直さは、雨の強さの確かさと比例する。
夕食は、母と一緒に食べた。鍋はもう土曜の夜に片付いてしまったので、今夜はスパゲッティだった。レトルトのトマトソースと、自家製のパン粉をまぶしたチキン。母はこういう洋食を、雨の夜にだけ作る癖があった。雨の夜の食卓に洋食が並ぶ理由は俺も知らないが、母のなかにはある種類のルールが静かに息づいていた。
フォークでスパゲッティを巻く動作は、鍋の箸の動作より少しだけ集中が必要だった。麺の長さが不揃いだと巻き方が崩れる。母のソースは濃い赤の色をしていた。赤の濃さは、昨日までの雨の灰色の残像を、食卓の上で打ち消すくらいの強さがあった。赤いソースを口に運ぶたびに、胃のなかに暖かい色の情報が送られる。情報が送られた結果として、雨の日の夕食が少しずつ「重たくない夜」に近づいていった。
「湊、スパゲッティ、まだ食べる?」
「もう一口欲しい」
「はい」
母はフライパンの残りを、俺の皿の上に少しだけ足した。足した量は、ちょうど一口分だった。母は俺の「一口」の大きさを、正確に把握している人だった。
* * *
食後は自室に戻った。
雨の音は、昨夜よりも少しだけ均質になっていた。強さはほぼ変わらないまま、一定のリズムを保ったまま続いていた。22時が近づくにつれて、俺は机の前でスマホを眺める姿勢を取った。今夜もベランダには出ない。出ない選択肢が、昨夜のうちにすでに俺と彼女のあいだで共有されていた。共有されたままの選択肢は、今夜も引き継がれて使われた。
22時5分前、俺はベランダ側のカーテンをわずかに動かして、仕切り板の向こうの灯りが今夜も点いているのを確認した。灯りは点いていた。昨日の22時と同じ位置で、同じ光量で点いていた。同じ位置と同じ光量というのは、昨日と今日で彼女の部屋のなかの配置がほぼ変わっていないということを意味していた。部屋の配置が変わらないというのは、彼女の生活のリズムが崩れていないということでもあった。崩れていないリズムを仕切り板越しに確認できるだけで、俺の側の今夜のリズムも少しだけ整った。
22時を少し過ぎた頃、スマホが軽く震えた。
『今夜も出られないですね』
『ああ』
『昨日より雨、強い気がします』
『強い』
『うちの母も今日は家にいます』
『土曜が早番だったから?』
『はい、そうなんです。よく分かりましたね』
『うちの母も同じパターンだ』
『あ、そうなんですね』
彼女の返事の最後に、笑顔の絵文字が一個だけ付いていた。昨夜の画面には絵文字は一個も付いていなかった。今夜の絵文字は、昨夜の『寂しい』の三文字から少しだけ距離を戻すための、小さな印のようなものだった。戻すというよりは、今夜の雨の二晩目の空気を、昨夜よりもう少し柔らかいものにするための所作だった。
絵文字一個を会話に混ぜる所作は、仕切り板越しの肉声の会話では見られない所作だった。肉声の会話にはそもそも絵文字が存在しない。代わりに、息の抜き方や小さな笑いの混ざり方や、語尾のわずかな上がり方が、肉声の側の温度の調整装置だった。画面上の調整装置は、絵文字のほう。媒体が変わると、調整のための道具も変わる。彼女はその違いを、今夜の絵文字ひとつで静かに俺に教えていた。
そのあとの会話も短かった。
『相川くん、お母さんと雨の日は何を話すんですか』
『あまり話さない。母は雨の日のほうが少し口数多いけど』
『うちも同じです。母は雨の日だけ饒舌になります』
『分かる』
『じゃあ、うちと似てますね』
『似てる』
「似てる」という単語は、今週いちばん登場回数が多い単語になりつつあった。月曜の夜に俺の口から「似てる」の形で出て、火曜の夜も今夜も、仕切り板越しに繰り返し登場していた。「似てる」が頻出するのは、似ている点を見つけるたびに二人の距離が詰まる方向に働くからかもしれない。詰まる方向に働くということは、距離そのものを縮めはしない。二人の身体は仕切り板の両側のままだった。段階0は変わらない。変わらないまま、頭のなかの距離のほうだけが、二重生活の一週目の終わりに向けて静かに動いていた。
『明日は晴れるといいですね』
『ああ』
『晴れたら、ベランダで』
『ここで』
『はい』
彼女の『晴れたらベランダで』は、昨日の夜の「晴れの日はここで」の続きのような形をしていた。昨日の二文は単独で成立していたが、今夜の二文は昨日の二文の上に乗っていた。乗っている形の言葉は、単独の言葉より少しだけ温度が高い。温度の違いを、俺は画面越しにも受け取れた。受け取れたという事実が、雨の二晩目の夜のいちばん大きな収穫だった。
『じゃあ、おやすみなさい』
『ああ。おやすみ』
会話はそこで閉じた。画面の最後のメッセージは、昨日の最後と同じ形をしていた。同じ形だが、内側の温度は昨日より少しだけ落ち着いていた。
俺は机のスマホを伏せて、カーテンの隙間をもう一度確認した。
雨粒の走る窓ガラスの向こうで、仕切り板越しの彼女の部屋の灯りは、今夜も点いていた。昨日も点いていた。一昨日までは、俺が外に出て確認していた灯りだった。今夜はカーテンの隙間から、雨粒のフィルター越しに確認する灯りだった。確認の方法が変わっても、灯りそのものはそこに在った。
在るということだけを、俺は今夜確認した。
在るということの情報量は、普段の俺の一日のなかでは軽いほうだった。在ることを確認する行為は、不在のときより手間がかからない。不在は確認のために視線を余分に動かす必要がある。在るは一度の視線で済む。一度の視線で済むはずの行為が、雨の二晩目の今夜は、普段より何倍も価値のある行為になっていた。価値が上がった原因は雨のほう。雨がなければ、灯りは普段の灯りに戻っていただろう。雨のおかげで、俺は在るということの価値を二晩続けて知ることになった。
父が亡くなった冬の夜のことを、俺はふと思い出した。あの冬の夜は、病院の照明の向こうに父の部屋があって、そこに入ることが許される時間と許されない時間が、ほとんど連続したシーケンスとして切り替わっていた。許されない時間帯に、廊下の壁に寄りかかって、部屋の扉のすりガラスの向こうの灯りだけを俺は見ていた。すりガラス越しの灯りの輪郭は、今夜の仕切り板越しのカーテンのなかの灯りの輪郭と、同じ種類の形をしていた。灯りの質はもちろん違う。病院の蛍光灯は白くて冷たい。彼女の部屋のは、電球色のたぶん柔らかい色。色は違う。ただし「向こうに在るが、いま行けない灯り」という点で、今夜の灯りと冬の夜の灯りは、俺のなかで似たラインの上に並んでいた。並んでいるということに気づいたのは、たぶん今夜が初めてだった。気づいた事実を、俺は机の前で一度ゆっくり受け止めた。受け止めた事実は、すぐには言葉にしなかった。言葉にせずに抱えたまま眠りのほうに近づいた。
ベッドに入って電気を消す。
天井の暗さのなかで、仕切り板越しの灯りの位置のことを俺は一度だけ確認した。カーテンを閉めた自室のなかからは灯りは見えないが、見えないと分かっているほうの灯りが、壁の向こうにたぶんまだ点いている。点いたまま、彼女は部屋のなかで早見盤を回しているかもしれないし、読みかけの短編集を読んでいるかもしれない。どちらであっても、俺からは確認する手段がない。手段がないまま、俺は天井を見ていた。
灯りが向こうに在るというだけで、夜の寂しさの輪郭が少し柔らかくなる。




