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夜のとなりはベランダ1枚分  作者: Studio SASAME
春の夜風

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16/19

雨上がりの手すり

 4月21日、月曜日の朝は、夜明け前の時点で雨が上がっていた。

 目が覚めて最初にカーテンを開けたとき、窓ガラスを走る雨粒はもうなかった。残っていたのは、夜のあいだに流れた雨粒の乾きかけの筋だけだった。空はまだ薄曇りで、雲の底からは東の方角に向かって、光の入る方向の気配だけが透けて見えていた。

 朝食を食べる前に、ベランダ側の窓ガラスをもう一度見た。手すりの金属の上には、まだ細かい水滴がいくつか残っていた。コンクリートの床の色は、土曜の夕方に見たときよりさらに濃い灰色になっていた。昨夜までの雨の名残を、朝の光はまだ完全には乾かしきっていなかった。


 月曜の朝の空気は、雨上がりらしく澄んでいた。

 二日連続で室内にこもっていた身体は、外に出た瞬間に、普段より深く一度呼吸した。坂を下る最中の向かい風は、昨日までの雨のにおいをわずかに含んだ冷たさを持っていた。アスファルトの上には、濡れた落ち葉のまだら模様が敷かれていた。タイヤが踏むたびに、葉っぱの下の水が少しだけ跳ねた。跳ねた水は、俺のズボンの裾を湿らせるほどの量ではない。ただ、ズボンの裾の温度の感覚だけは、乾いた月曜とは微妙に違った。


 校門の手前の信号で俺は自転車を止めた。信号の向こう、校門のなかに吸い込まれていく生徒たちの群れのなかに、紺色のブレザーの背中がいくつか見えた。彼女の背中は、今朝も俺より先に校門の向こう側にあった。

 昇降口のロッカー前で、俺のロッカーから三つ離れた列に、今朝もローファーの抜かれたあとの空白だけが残っていた。階段を上がって、2階の廊下に出る。今朝は廊下で彼女と出会わなかった。出会わない朝のほうが、今週もまだ標準だった。


 学校の一日は、月曜らしい緊張のなかで流れた。

 週の初めの月曜は、教室の空気が前の週の金曜より硬い。4限までの授業のノートは、雨明けの月曜らしく文字が少しだけ濃く書かれていた。濃く書くのは、意識が戻ってくるスピードを確認するための俺の癖だった。癖は癖として、今朝の俺のなかで自然に出てきた。

 昼休み、宗太(そうた)と中庭のベンチで弁当を広げた。

(みなと)、今週末なに?」

「なにもない」

「なにもないか」

「なにもない」

「だよな」

 宗太(そうた)は卵焼きをつまんだ。今週末、は二週連続で宗太(そうた)の口から出た単語だった。宗太(そうた)にとっての今週末は、次の試合と打ち上げを指す場合が多い。俺にとっての今週末は、ベランダの夜のことと、その合間の家のなかでの時間のこと、でだいたい用意されていた。用意されている週末の中身を、俺は宗太(そうた)には言葉にせず、「なにもない」という五文字で要約した。

 昼休み、C組の扉の前を通過する。彼女は窓際三列目で、今日は琴音(ことね)さんと並んで弁当を広げていた。二人の姿勢の崩し方は、先週より少しだけ近い位置に見えた。先週の月曜の俺から見えた彼女の姿勢より、今週の彼女の姿勢のほうが、わずかに角度が下がっていた。琴音(ことね)さんと過ごす時間の蓄積が、彼女の昼の姿勢にほんの少しだけ緩みを足していた。見た事実を、俺はC組の扉の前を通過する0.5秒のあいだに確認した。


 放課後、駐輪場の奥の列、彼女の自転車は今日はもう帰ったあとだった。月曜の放課後に彼女が先に帰るのは、今週は珍しかった。今週の月・水・金の放課後のパターンは、今週から少し調整が入るのかもしれなかった。

 坂を登る。雨上がりの夕方の坂は、普段より少しだけ湿ったにおいを含んでいた。アスファルトの表面の乾きと乾ききっていない部分のムラが、夕日の残り光のなかで模様のように浮かんでいた。模様は上りの途中で俺の視線の端を何度か通過して、俺のペダルの速度のなかに静かに溶けていった。


 * * *


 家に帰って、夕食を済ませる。母は今夜は夜勤で、22時前に家を出る予定だった。俺と母は、夜勤前の少しだけ早い時間の夕食を一緒に食べた。食後、母がキッチンの片付けをしているあいだに、俺は洗面所の戸棚からタオルを一枚取った。

 使い古した水色のタオルだった。母に断りを入れることも、理由を説明することもしなかった。俺が何かのためにタオルを一枚持ち出すことは、家のなかでは普段からある動作だった。母はそれをいちいち確認しない。洗面所の戸棚のタオルは、俺が取っても困らない位置に、いくつか予備が積まれていた。


 自室に戻って、机の前で少しだけ待った。

 22時までの残り時間は、普段より少しだけ長く感じられた。二夜続けてベランダに出ていなかったぶんの時間が、俺のなかで再び出口を探していた。出口は当然ベランダだった。ベランダに出るための準備の動作として、手にはタオルが握られていた。


 22時を過ぎて、俺はベランダに出た。

 夜風は、雨明けらしい澄み方をしていた。雲は薄く残っているが、月は一度だけ雲の切れ目から姿を見せて、次の切れ目までのあいだ、見せた姿のまま静かに欠けていた。空の深さは土曜の夜より深かった。深さは、二晩続いた雨のあとの空の、一種のリハビリの結果のようなものだった。


 俺は手すりの上にタオルを広げて、金属の上面を拭いた。

 水滴はほとんど乾いていたが、表面にはまだ湿り気が残っていた。湿り気を拭き取る動作は、ただの作業のはずだったが、今夜の俺にとっては準備の儀式に近い形をしていた。タオルを滑らせる速度は、普段の自室の机を拭く速度より、少しだけゆっくりだった。急ぐと、拭き漏らしがでる。ゆっくり動かすと、金属の微細な凹凸のあいだに溜まった水のほうまで、布地が触れてくれる。

 拭き終わった金属の上は、昨日までとは違う手触りだった。湿気がない金属のほうが、肘を置いたときに布地と直接触れる感覚が生まれる。生まれた感覚は、二晩続いた不在のあとの、小さな身体の再確認だった。

 タオルは、仕切り板のきわの手前で一度止めた。きわの向こう側は、彼女のベランダの手すりの領域になる。俺のタオルがきわを越えて向こう側まで行くのは、段階0の線を越えることになる。越えない位置できっちり止めるのが、今夜の拭き方の正しい止め方だった。


 仕切り板の向こうの灯りは、今夜も点いていた。

 カーテンが動く気配がして、彼女が出てきた。

「こんばんは」

「こんばんは」

 短く挨拶を交わす。今夜の彼女の声は、二晩続いた画面の文字より、もとの柔らかさを取り戻していた。取り戻したというよりは、そもそもの柔らかさがやっと戻れる場所に戻った、という感じだった。

「出られましたね」

「ああ」

「二晩長かった」

「長かった」

「雨の夜は、ベランダは、やっぱり出られないんですね」

「今回初めて体験した」

「わたしも初めてです」

 彼女の「わたしも初めてです」のなかには、この部屋に引っ越してきてから初めての雨の二晩を数えた彼女の側の事実が静かに込められていた。彼女の引っ越しは4月の最初の週のあたり。今週で三週目に入ろうとしている。新しい街での雨の夜の不在を初めて経験した彼女の声の重さを、俺は仕切り板越しに受け取った。


「手すり、拭いたんですか」

 彼女が気づいた。

「ああ」

「タオルで?」

「水色の」

「……わたし、そこまで気が回りませんでした」

「そっちの手すり、濡れてたか」

「はい。いま拭きます」

 彼女はそう言って、部屋のなかから白いタオルを持ってきた。仕切り板の向こうで、彼女のタオルが金属の手すりの上を走る音が、小さく俺の側に届いた。音はそれだけのものなのに、二晩の不在のあとの今夜のベランダには、いつもより少しだけ厚みのある情報として届いた。


「拭き終わりました」

「うん」

「なんだか、儀式みたいですね」

「儀式」

「はい。出られなかった夜を、二晩分、ここで拭き直すみたいな」

「拭き直すということか」

「そういう感じで、ちょうどいいかもしれない」

 彼女のその言い方は、今夜の夜のベランダに合う言い方だった。二晩の不在を、拭くという動作で吸い上げる。吸い上げたタオルは、洗面所でそのうち乾かされる。乾いたあとのタオルのなかに、不在の夜の湿度だけが残って、次の雨の夜までそっと保管される。彼女の言い回しのなかには、そういう余白の使い方が含まれていた。


 しばらくのあいだ、仕切り板越しに沈黙が置かれた。

 沈黙は重くなかった。二晩の不在のあとの沈黙は、再会のなかの静けさとして、軽さと厚みを両方持っていた。俺は手すりに肘をついて、月の欠けた姿のほうに視線を置いた。彼女もたぶん同じ方角の空を見上げていた。

 4月の終わりに近い夜の空は、5月に向かって少しずつ星座の位置を入れ替えていく時期だった。先週の夜空と今夜の夜空は、同じ場所に同じ星が並ぶわけではない。同じように見えても、ずれている。ずれのぶんだけ、夜空の見える風景は毎晩わずかに違う。違う風景のなかで、仕切り板越しに夜風を共有できるのは、たぶん今年の春のあいだだけだった。来年の春にも今夜の風景がそのまま戻ってくるとはかぎらない。戻らないかもしれないからこそ、今夜のこの空気を彼女のほうも大切に吸っているのだろう、と俺は手すりの冷たさの上で思った。


「あの」

 彼女のほうから、小さく口を開いた。

「うん」

「この夜のベランダが続いたらいいな、と思っていて」

「ああ」

「ずっと、というと言いすぎなんですけど」

「うん」

「続いたらいいなって」

 彼女の「続いたらいいな」は、昨夜までの画面の文字には乗せられなかった種類の言葉だった。肉声なら乗せられる。夜風の音が輪郭を柔らかく包んでくれるから、重い言葉も直球でなくなる。直球でない形の「続いたらいいな」を、彼女は仕切り板越しに静かに置いた。

 俺は少しだけ考えてから返した。

「続いたらいいな」

「はい」

「俺もそう思ってる」

「……よかった」

 短い応酬だった。長くすると、夜風の輪郭のなかに言葉が溶けすぎる気がした。短いぶんだけ、言葉は言葉のまま仕切り板越しの空気のなかに残った。


 沈黙がまた降りた。

 今夜の沈黙のなかで、俺は一度だけ夜風を深く吸って、吐いた。吸って吐く動作は、特別な意味のある動作ではないが、今夜の沈黙のなかではちょうど合う動作だった。彼女のほうも、仕切り板越しに同じ方角の空を見上げたまま、たぶん似たような呼吸をしていた。仕切り板の両側で、二人の呼吸のリズムは今夜少しだけ揃っていた。揃っているとはっきり確認する方法はないが、揃っていない方向の気配がないことは、俺の側からも分かった。

 この二週間と少しのあいだに、俺のベランダの夜にはいくつかのものが増えていた。隣の部屋の灯り。仕切り板越しの声。「学校では話しかけないで」の約束。下の名前の交換。ハーブと本の話。手すり越しの飴と早見盤の受け渡し。連絡先。雨の夜の「寂しい」。雨上がりのタオル。並べ直して見ると、それほど多い数ではなかった。多くはないが、ひとつひとつが夜のベランダに置かれるたびに、俺のなかの夜の形は少しずつ違うものに変わっていった。

 変わっていった先に、今夜の「続いたらいいな」が置かれた。続くということは、今夜のこの形をこれ以上急いで動かさないということでもあった。急いで動かせば、形はすぐに別のものに変わる。変えたくない形がある、ということを俺は今夜確かに持った。持ったことそのものが、今夜の俺にとって、少し珍しい種類の重さだった。


「じゃあ、そろそろ」

「ああ。おやすみ」

「おやすみなさい」

 カーテンが閉まる。灯りは点いたまま。俺はしばらく残って、月の欠けた姿が次の雲の切れ目に移動するまでを見届けた。

 月が動く方向の空には、早見盤の上での5月の星座の配置が、目には見えないが頭のなかには思い出せる形で広がっていた。彼女の手元にいまその早見盤がある。回せば、4月下旬の夜の星座の位置を示してくれる。俺の手元にはいま、拭き終わった水色のタオル。互いの手のなかにある物の種類が、今夜の夜風のなかで、音もなくつながっているような気がした。


 自室に戻って、机に向かう。

 机の左側には『黒いトランク』。右上にはミントの飴のフィルムの三角形。そして手すりを拭いたあとの水色のタオルは、洗面所の戸棚に戻した。机の上に増えたものは今夜は何もなかった。増えたものがないというだけで、今夜の机の上は、先週の同じ時刻より少しだけ静かに見えた。静かに見えるのは、机の上のものが俺のなかで落ち着く位置に揃ってきた結果でもあった。戻したタオルは、何度か使ったあとに洗濯機に入る。洗濯機から出てきた頃には、今夜の手すりの湿度の記憶は、繊維のなかからほぼ抜けているはずだった。抜けていても、抜けたあとに記憶が俺の側から消えるわけではない。記憶は、タオルの繊維ではなく、俺の机の前の時間のなかに置かれている。


 ベッドに入って電気を消す。

 天井の暗さのなかで、「続いたらいいな」の音を俺はもう一度思い出した。思い出す回数は、「寂しい」の三文字を思い出した回数より少なかった。少ない回数のほうが、今夜の夜の輪郭には合っていた。一回の想起でちょうど残るだけの重さが、その言葉にはあった。

 眠りに入る前に、俺はカーテンの向こうの灯りのことをもう一度だけ頭のなかで確認した。灯りは、今夜も変わらず向こうに在った。

 続いたらいい、とふたりで言い合った。

 ただそれだけの夜だった。

 ただそれだけが、どうしてかどの夜より長く温かかった。

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