紫陽花の公園
6月3日の火曜。昨日の午後から戻ってきた雨が、朝のうちにいったん上がった。
灰色の雲の切れ間に青が覗いては、また塞がる。午前は弱い雨が残るが、夕方には切れ間が広がると、朝の予報が言っていた。坂のカーブには夜の雨の名残があって、いつもより慎重にペダルを踏んで抜けた。
* * *
昨日の月曜は、午後の遅くから雨が戻った。
21時すぎ、ベランダの手すりにはもう細かな水滴が点を打っていた。彼女とはスマホで二往復だけ。雨の確認と、出られない夜の挨拶と、おやすみ。5月の終わりに雨が三夜続いたときと、同じやりとりだった。
* * *
昼休み、中庭の藤棚で宗太と弁当を食べる。
紫の房のあとの若い莢が、6月に入ってまた数を増やしている。
「火曜なのに、雨かよ」
「上がっただろ」
「午後また降るかもな」
「夕方には切れ間って」
「ならいいや」
宗太の口調は、いつもの昼のままだ。
お茶を傾けるテンポに合わせて、短く頷いておく。
* * *
帰りの坂は、朝より軽く下れた。
下りきった角の信号で足を止めると、椿ヶ丘公園のほうへ目が向く。入口の脇に、何年も前から植わっている紫陽花の株がいくつかある。信号待ちの位置からは、葉のかたまりの外側しか見えない。その葉の上に、薄紫の花が、夕方の薄曇りの光でいつもより濃く覗いていた。
信号が青に変わる。そのままマンションへペダルを踏んだ。
* * *
夕食を済ませてから、机の前で予習を進める。
文具ケースの脇の紙片の山は、昨夜のままの位置にある。ページをめくりながら、頭の片隅には、夕方に葉の上だけ見えたあの株が残っていた。
* * *
21時すぎ、ベランダに出た。
薄曇りの雲のあいだに、細く欠けた月が出ている。新緑とハーブの匂いに、湿った気配が混じる。アクリルの仕切り板には、夕方の小雨の名残が数粒残っていた。向こうの灯りは点いている。
手すりに肘をついて待つこと数分、カーテンが揺れて彼女が出てきた。
左手にマグカップ、右手にはスマホを軽く握っている。
「こんばんは」
「こんばんは」
「相川くん」
「うん」
「今日の夕方、雨」
「短いのが、戻ってきたな」
「20分くらい」
「予報通りだ」
「予報通り」
最初の数分の天気の話は、いつもの火曜の夜と同じテンポで流れる。
ただ、彼女の右手のスマホが、手すりの上の位置より、わずかに胸の側へ引き寄せられている。何か見せたいものがあるときの握り方だ。
* * *
「相川くん」
「うん」
「今日、学校の帰りに」
「うん」
「椿ヶ丘公園に、寄りました」
「入口の、紫陽花の」
「ええ」
「咲いてたか」
「咲いてました」
彼女の「咲いてました」のあとに、夜風が一筋、仕切り板の縁を抜ける。
その湿った匂いのなかに、ひと言が、いつもの火曜より少しだけ素直に残った。
* * *
「写真、撮ったんです」
「ああ」
「送っても、いいですか」
「うん」
「いま、送ります」
「待つ」
「3枚だけ」
「何枚でも」
彼女がスマホを操作する小さな音が、夜の空気にかすかに届く。
すぐあと、胸ポケットのスマホが短く震えた。ロックを外すと、彼女からのメッセージの下に、画像のサムネイルが並んでいる。
* * *
画像は3枚だった。
一枚目は、入口の脇の薄紫の株を真上から。いちばん大きな花のかたまりに、雨上がりの水滴が多く残っている。粒のひとつひとつに、空の灰色と街灯のオレンジが、別々の点になって入り込んでいる。
二枚目は、奥の青い株を横から。色は薄紫より濃い。葉の溝を、雨の名残が細い筋になって伝っている。
三枚目は、ベンチの背の側から株全体を引きで撮ったものだ。地面の土の濃さと、白い玉砂利の湿りが、いつもの夕方よりくっきり並んでいる。
三枚目で、指が止まる。
ベンチに座った彼女の目の高さに、しばらくあった景色だ。
「月島さん」
「はい」
「きれいだ」
「ほんとですか」
「ほんとに、きれいだ」
「よかった」
その「よかった」は、いつもの火曜の夜より前に出ていた。
つられて、こちらの次のひと言も、ふだんより素直になる。
「三枚目の、ベンチからの」
「はい」
「あの構図、しばらく見てたのか」
「座って、見てました」
「そうか」
「30分くらい」
「30分くらい」で、夜風がいったん凪いだ。
夕方の信号待ちで葉の上だけ見えた株と、いま画面に並ぶ三枚が、頭のなかで同じ場所に重なる。
* * *
「俺も、夕方」
「うん」
「信号待ちで、あの脇の株」
「ええ」
「葉の上だけ、外から見えた」
「気づきました?」
「気づいた」
同じ夕方、同じ株を、別の場所から見ていた。
仕切り板の向こうの声が、それを確かめられて少し弾んでいる。
* * *
「ベンチに、ひとりで」
「はい」
「30分」
「ええ」
「そうか」
「ひとり」のあと、仕切り板の向こうでカーテンがひとつ揺れた。
並んで座る、とまでは言えない。言わずに、こちらも手すりの上で指を組み直した。信号待ちの数秒と、ベンチの30分は、別々の場所に置かれたままでいい。
* * *
「相川くん」
「うん」
「三枚目の、座面の右」
「うん」
「濡れてて、座らなかったんです」
「結局、半分だけ」
「半分だけ」
一瞬、右の端を空けておいてくれたみたいだ、と思いかけた。
すぐに打ち消す。ただ濡れていたから座らなかった、それだけの話だ。勝手に意味を足したのが、自分でも少しきまりが悪い。
* * *
「ありがとう、写真」
「いえ」
「あとで、ゆっくり見る」
「ゆっくり、どうぞ」
その返事で、夜が少しほどける。
紫陽花の話は、ここでひとまず仕切り板の上に置いておく。
* * *
「相川くん、そろそろ」
「ああ」
「写真、ありがとうございました」
「こっちが礼を言うとこだ」
「ふふ」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
彼女のカーテンが閉まって、灯りが消える。
今夜のベランダは、いつもの火曜とほぼ同じ長さだった。
* * *
自室で、スマホをライトの下に置いて、三枚をもう一度開いた。
薄紫の花弁に残った水滴。青い株を細く伝った水の筋。引きで撮ったベンチ。ベランダで見たときより、ゆっくり長く眺める。
三枚目で、指がまた止まる。
もしあの帰り、俺があの公園に寄っていたら。そこまで考えて、べつにどうにもならないのは分かっていて、それでもしばらく、画面を消さずにいた。
* * *
ベッドに入って電気を消した。
一緒には行けない。けれど、見たものなら渡せる。届かない景色が、写真3枚に替わって、仕切り板の向こうからこっちへ来た。
目を閉じても、信号待ちで葉の上にだけ覗いた紫が消えない。画面で見た花のかたまりと、同じ濃さだった。




