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夜のとなりはベランダ1枚分  作者: Studio Yodaca
仕切り板の向こう

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41/42

紫陽花の公園

 6月3日の火曜。昨日の午後から戻ってきた雨が、朝のうちにいったん上がった。

 灰色の雲の切れ間に青が覗いては、また塞がる。午前は弱い雨が残るが、夕方には切れ間が広がると、朝の予報が言っていた。坂のカーブには夜の雨の名残があって、いつもより慎重にペダルを踏んで抜けた。


 * * *


 昨日の月曜は、午後の遅くから雨が戻った。

 21時すぎ、ベランダの手すりにはもう細かな水滴が点を打っていた。彼女とはスマホで二往復だけ。雨の確認と、出られない夜の挨拶と、おやすみ。5月の終わりに雨が三夜続いたときと、同じやりとりだった。


 * * *


 昼休み、中庭の藤棚で宗太(そうた)と弁当を食べる。

 紫の房のあとの若い莢が、6月に入ってまた数を増やしている。


「火曜なのに、雨かよ」

「上がっただろ」

「午後また降るかもな」

「夕方には切れ間って」

「ならいいや」


 宗太(そうた)の口調は、いつもの昼のままだ。

 お茶を傾けるテンポに合わせて、短く頷いておく。


 * * *


 帰りの坂は、朝より軽く下れた。

 下りきった角の信号で足を止めると、椿ヶ丘公園のほうへ目が向く。入口の脇に、何年も前から植わっている紫陽花の株がいくつかある。信号待ちの位置からは、葉のかたまりの外側しか見えない。その葉の上に、薄紫の花が、夕方の薄曇りの光でいつもより濃く覗いていた。

 信号が青に変わる。そのままマンションへペダルを踏んだ。


 * * *


 夕食を済ませてから、机の前で予習を進める。

 文具ケースの脇の紙片の山は、昨夜のままの位置にある。ページをめくりながら、頭の片隅には、夕方に葉の上だけ見えたあの株が残っていた。


 * * *


 21時すぎ、ベランダに出た。

 薄曇りの雲のあいだに、細く欠けた月が出ている。新緑とハーブの匂いに、湿った気配が混じる。アクリルの仕切り板には、夕方の小雨の名残が数粒残っていた。向こうの灯りは点いている。


 手すりに肘をついて待つこと数分、カーテンが揺れて彼女が出てきた。

 左手にマグカップ、右手にはスマホを軽く握っている。


「こんばんは」

「こんばんは」


相川(あいかわ)くん」

「うん」

「今日の夕方、雨」

「短いのが、戻ってきたな」

「20分くらい」

「予報通りだ」

「予報通り」


 最初の数分の天気の話は、いつもの火曜の夜と同じテンポで流れる。

 ただ、彼女の右手のスマホが、手すりの上の位置より、わずかに胸の側へ引き寄せられている。何か見せたいものがあるときの握り方だ。


 * * *


相川(あいかわ)くん」

「うん」

「今日、学校の帰りに」

「うん」

「椿ヶ丘公園に、寄りました」

「入口の、紫陽花の」

「ええ」

「咲いてたか」

「咲いてました」


 彼女の「咲いてました」のあとに、夜風が一筋、仕切り板の縁を抜ける。

 その湿った匂いのなかに、ひと言が、いつもの火曜より少しだけ素直に残った。


 * * *


「写真、撮ったんです」

「ああ」

「送っても、いいですか」

「うん」

「いま、送ります」

「待つ」

「3枚だけ」

「何枚でも」


 彼女がスマホを操作する小さな音が、夜の空気にかすかに届く。

 すぐあと、胸ポケットのスマホが短く震えた。ロックを外すと、彼女からのメッセージの下に、画像のサムネイルが並んでいる。


 * * *


 画像は3枚だった。

 一枚目は、入口の脇の薄紫の株を真上から。いちばん大きな花のかたまりに、雨上がりの水滴が多く残っている。粒のひとつひとつに、空の灰色と街灯のオレンジが、別々の点になって入り込んでいる。

 二枚目は、奥の青い株を横から。色は薄紫より濃い。葉の溝を、雨の名残が細い筋になって伝っている。

 三枚目は、ベンチの背の側から株全体を引きで撮ったものだ。地面の土の濃さと、白い玉砂利の湿りが、いつもの夕方よりくっきり並んでいる。


 三枚目で、指が止まる。

 ベンチに座った彼女の目の高さに、しばらくあった景色だ。


月島(つきしま)さん」

「はい」

「きれいだ」

「ほんとですか」

「ほんとに、きれいだ」

「よかった」


 その「よかった」は、いつもの火曜の夜より前に出ていた。

 つられて、こちらの次のひと言も、ふだんより素直になる。


「三枚目の、ベンチからの」

「はい」

「あの構図、しばらく見てたのか」

「座って、見てました」

「そうか」

「30分くらい」


 「30分くらい」で、夜風がいったん凪いだ。

 夕方の信号待ちで葉の上だけ見えた株と、いま画面に並ぶ三枚が、頭のなかで同じ場所に重なる。


 * * *


「俺も、夕方」

「うん」

「信号待ちで、あの脇の株」

「ええ」

「葉の上だけ、外から見えた」

「気づきました?」

「気づいた」


 同じ夕方、同じ株を、別の場所から見ていた。

 仕切り板の向こうの声が、それを確かめられて少し弾んでいる。


 * * *


「ベンチに、ひとりで」

「はい」

「30分」

「ええ」

「そうか」


 「ひとり」のあと、仕切り板の向こうでカーテンがひとつ揺れた。

 並んで座る、とまでは言えない。言わずに、こちらも手すりの上で指を組み直した。信号待ちの数秒と、ベンチの30分は、別々の場所に置かれたままでいい。


 * * *


相川(あいかわ)くん」

「うん」

「三枚目の、座面の右」

「うん」

「濡れてて、座らなかったんです」

「結局、半分だけ」

「半分だけ」


 一瞬、右の端を空けておいてくれたみたいだ、と思いかけた。

 すぐに打ち消す。ただ濡れていたから座らなかった、それだけの話だ。勝手に意味を足したのが、自分でも少しきまりが悪い。


 * * *


「ありがとう、写真」

「いえ」

「あとで、ゆっくり見る」

「ゆっくり、どうぞ」


 その返事で、夜が少しほどける。

 紫陽花の話は、ここでひとまず仕切り板の上に置いておく。


 * * *


相川(あいかわ)くん、そろそろ」

「ああ」

「写真、ありがとうございました」

「こっちが礼を言うとこだ」

「ふふ」

「おやすみ」

「おやすみなさい」


 彼女のカーテンが閉まって、灯りが消える。

 今夜のベランダは、いつもの火曜とほぼ同じ長さだった。


 * * *


 自室で、スマホをライトの下に置いて、三枚をもう一度開いた。

 薄紫の花弁に残った水滴。青い株を細く伝った水の筋。引きで撮ったベンチ。ベランダで見たときより、ゆっくり長く眺める。


 三枚目で、指がまた止まる。

 もしあの帰り、俺があの公園に寄っていたら。そこまで考えて、べつにどうにもならないのは分かっていて、それでもしばらく、画面を消さずにいた。


 * * *


 ベッドに入って電気を消した。

 一緒には行けない。けれど、見たものなら渡せる。届かない景色が、写真3枚に替わって、仕切り板の向こうからこっちへ来た。


 目を閉じても、信号待ちで葉の上にだけ覗いた紫が消えない。画面で見た花のかたまりと、同じ濃さだった。


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