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夜のとなりはベランダ1枚分  作者: Studio Yodaca
仕切り板の向こう

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40/42

気づかれてますね

 6月1日の日曜。昨日の夕方からの薄い雲が、さらに一段厚くなっていた。

 日中は曇りで、明日の午後からは雨が戻ると、朝の予報が言っていた。梅雨の中休みも、これで終わりらしい。母は連勤の中盤で、朝のうちにリビングへ起き出してはきたものの、お茶の湯気をいつもより長く眺めていた。


 * * *


 午前は、机の前で月曜の現代文と英語の予習を順に進める。

 昨夜の「気づかれてますね」が、ページの隅に薄く残っている。残ったまま、予習の文字を一つずつ追う。落ち着いているのか落ち着かないのか、自分でもよく分からない朝だ。


 昼は、母とふたりで台所で簡単に済ませる。

 母は連勤の疲れた顔のまま、お茶の湯気を長く眺めて、今日はこちらに余計なことを訊いてこない。漬物の小皿を箸の先でひとつ、向きを直しただけだった。


 * * *


 午後、借りていた『邪悪の家』を、返す前にもう一度開く。

 終盤で、作者がヒロインの動機を、はっきり一語で名指す場面に来る。名指された瞬間、それまでぼんやりしていた彼女が、急に重たい人間になった。


 本を伏せて、文具ケースの脇の紙片の山を、ぼんやり眺める。

 昨夜の「気づかれてますね」と、いま読んだ「名指し」が、頭のどこかで近くにある。近くにある、とまでは分かる。そこから先をどうしたいのかは、夕方になっても出てこない。


 * * *


 夕食も、母とふたりで済ませた。

 鶏ももを醤油と生姜で焼いたもの、ひじき、味噌汁とごはん。母は明日の日勤に備えて、今夜は21時前に寝室へ入る。食器を洗いながら、ラジオの天気予報を耳の隅で拾った。中身は、夕方に確かめたのと同じ、明日の午後からの雨だった。


 * * *


 21時すぎ、ベランダに出た。

 薄い雲のあいだに、細い月が昨夜よりもう一段細い。新緑とハーブの匂いに、湿った気配がいつもより混じっている。仕切り板の向こうの灯りは点いていた。


 手すりに肘をついて待つこと数分、カーテンが揺れて彼女が出てきた。

 左手にマグカップを持って、右手を手すりに置いている。


「こんばんは」

「こんばんは」


相川(あいかわ)くん」

「うん」

「明日の午後から、雨」

「戻るって、予報で」

「梅雨の中休み、終わりですね」

「短かったな」

「短かった」


 最初の数分は、いつもの日曜の夜のテンポで進む。

 昨夜のことは、天気の話の下に薄く沈んだままだ。どちらも、それをいつ持ち出すか、たがいの様子をうかがっている。


 * * *


相川(あいかわ)くん」

「うん」

「昨夜の、気づかれてる、のあと」

「うん」

「ひと晩、考えました」

「俺も」

「考えた?」

「考えた」


 彼女が「考えた?」と訊き返したとき、その声が少し弾んだ。

 たぶん彼女は、自分だけがひと晩そこに引っかかっていたと思っていたのだろう。こちらも同じだったと知って、ほっとした顔をしたように見える。見えただけで、確かめたわけではない。


 * * *


「気づかれてる、ことの中身」

「はい」

「名前を、付けるかどうか」

「あ」

「そこで止まってた」

「わたしもです」


 彼女の「わたしもです」のあとに、夜風が一筋、仕切り板の縁を抜ける。

 湿った匂いが、最初の挨拶のときより濃い。同じ夜に、別々の部屋で、ふたりが同じところで足踏みしていたらしい。


 * * *


「名前って」

「うん」

「付けると、変わりますよね」

「変わるな」

「いまより、一段だけ」

「一段だけ」

「それが、こわくて」

「俺もこわい」


 俺の「俺もこわい」に、彼女は少し黙る。

 黙ってから、小さく息を吐く音が、仕切り板越しに聞こえた。なぜ黙ったのかは、こちらからは分からない。


 * * *


相川(あいかわ)くん」

「うん」

「ひとつ、お願いが」

「うん」

「いまは、名付けないでほしいんです」

「……いまは」

「はい」


 俺は、その「いまは」を一度、口のなかで繰り返す。

 彼女の言う「いまは」と、俺の考えていた「いまは」が、同じ重さなのかは、正直、分からない。それでも、いま名付けないでおく、ということだけは、たしかに揃っている。


「わかった」

「はい」

「名付けない。いまは」

「合意で」

「合意」


 ふたりの「合意」のあとに、夜風がもう一筋、仕切り板の縁を抜ける。

 湿りの濃さは、さっきと変わらない。


 * * *


相川(あいかわ)くん」

「うん」

「今夜は、これで」

「ああ」

「決まったし」

「決まったしな」

「おやすみなさい」

「おやすみ」


 彼女のカーテンが閉まって、仕切り板の向こうの灯りが消える。

 今夜のベランダは、いつもの日曜よりほんの少し短い。


 * * *


 自室に戻って、机の前に座る。

 「それ」に名前があることは、ふたりとも、もう分かっている。分かったうえで、いまは呼ばないでおこう、と決めた。呼べば、いまの位置から一段ずれる。彼女の「こわい」と、俺の「こわい」が同じものを指しているのかは分からない。ただ、怖がっている形だけは、たしかに並んでいた。


 * * *


 ベッドに入って電気を消す。

 暗がりに、昼間の『邪悪の家』の、名指されて重くなったヒロインが、ふっと浮かんで、すぐ消える。


 名付けないことを、ふたりで合意した。

 それ自体が、名付けるのを恐れている証拠だった。


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