気づかれてますね
6月1日の日曜。昨日の夕方からの薄い雲が、さらに一段厚くなっていた。
日中は曇りで、明日の午後からは雨が戻ると、朝の予報が言っていた。梅雨の中休みも、これで終わりらしい。母は連勤の中盤で、朝のうちにリビングへ起き出してはきたものの、お茶の湯気をいつもより長く眺めていた。
* * *
午前は、机の前で月曜の現代文と英語の予習を順に進める。
昨夜の「気づかれてますね」が、ページの隅に薄く残っている。残ったまま、予習の文字を一つずつ追う。落ち着いているのか落ち着かないのか、自分でもよく分からない朝だ。
昼は、母とふたりで台所で簡単に済ませる。
母は連勤の疲れた顔のまま、お茶の湯気を長く眺めて、今日はこちらに余計なことを訊いてこない。漬物の小皿を箸の先でひとつ、向きを直しただけだった。
* * *
午後、借りていた『邪悪の家』を、返す前にもう一度開く。
終盤で、作者がヒロインの動機を、はっきり一語で名指す場面に来る。名指された瞬間、それまでぼんやりしていた彼女が、急に重たい人間になった。
本を伏せて、文具ケースの脇の紙片の山を、ぼんやり眺める。
昨夜の「気づかれてますね」と、いま読んだ「名指し」が、頭のどこかで近くにある。近くにある、とまでは分かる。そこから先をどうしたいのかは、夕方になっても出てこない。
* * *
夕食も、母とふたりで済ませた。
鶏ももを醤油と生姜で焼いたもの、ひじき、味噌汁とごはん。母は明日の日勤に備えて、今夜は21時前に寝室へ入る。食器を洗いながら、ラジオの天気予報を耳の隅で拾った。中身は、夕方に確かめたのと同じ、明日の午後からの雨だった。
* * *
21時すぎ、ベランダに出た。
薄い雲のあいだに、細い月が昨夜よりもう一段細い。新緑とハーブの匂いに、湿った気配がいつもより混じっている。仕切り板の向こうの灯りは点いていた。
手すりに肘をついて待つこと数分、カーテンが揺れて彼女が出てきた。
左手にマグカップを持って、右手を手すりに置いている。
「こんばんは」
「こんばんは」
「相川くん」
「うん」
「明日の午後から、雨」
「戻るって、予報で」
「梅雨の中休み、終わりですね」
「短かったな」
「短かった」
最初の数分は、いつもの日曜の夜のテンポで進む。
昨夜のことは、天気の話の下に薄く沈んだままだ。どちらも、それをいつ持ち出すか、たがいの様子をうかがっている。
* * *
「相川くん」
「うん」
「昨夜の、気づかれてる、のあと」
「うん」
「ひと晩、考えました」
「俺も」
「考えた?」
「考えた」
彼女が「考えた?」と訊き返したとき、その声が少し弾んだ。
たぶん彼女は、自分だけがひと晩そこに引っかかっていたと思っていたのだろう。こちらも同じだったと知って、ほっとした顔をしたように見える。見えただけで、確かめたわけではない。
* * *
「気づかれてる、ことの中身」
「はい」
「名前を、付けるかどうか」
「あ」
「そこで止まってた」
「わたしもです」
彼女の「わたしもです」のあとに、夜風が一筋、仕切り板の縁を抜ける。
湿った匂いが、最初の挨拶のときより濃い。同じ夜に、別々の部屋で、ふたりが同じところで足踏みしていたらしい。
* * *
「名前って」
「うん」
「付けると、変わりますよね」
「変わるな」
「いまより、一段だけ」
「一段だけ」
「それが、こわくて」
「俺もこわい」
俺の「俺もこわい」に、彼女は少し黙る。
黙ってから、小さく息を吐く音が、仕切り板越しに聞こえた。なぜ黙ったのかは、こちらからは分からない。
* * *
「相川くん」
「うん」
「ひとつ、お願いが」
「うん」
「いまは、名付けないでほしいんです」
「……いまは」
「はい」
俺は、その「いまは」を一度、口のなかで繰り返す。
彼女の言う「いまは」と、俺の考えていた「いまは」が、同じ重さなのかは、正直、分からない。それでも、いま名付けないでおく、ということだけは、たしかに揃っている。
「わかった」
「はい」
「名付けない。いまは」
「合意で」
「合意」
ふたりの「合意」のあとに、夜風がもう一筋、仕切り板の縁を抜ける。
湿りの濃さは、さっきと変わらない。
* * *
「相川くん」
「うん」
「今夜は、これで」
「ああ」
「決まったし」
「決まったしな」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
彼女のカーテンが閉まって、仕切り板の向こうの灯りが消える。
今夜のベランダは、いつもの日曜よりほんの少し短い。
* * *
自室に戻って、机の前に座る。
「それ」に名前があることは、ふたりとも、もう分かっている。分かったうえで、いまは呼ばないでおこう、と決めた。呼べば、いまの位置から一段ずれる。彼女の「こわい」と、俺の「こわい」が同じものを指しているのかは分からない。ただ、怖がっている形だけは、たしかに並んでいた。
* * *
ベッドに入って電気を消す。
暗がりに、昼間の『邪悪の家』の、名指されて重くなったヒロインが、ふっと浮かんで、すぐ消える。
名付けないことを、ふたりで合意した。
それ自体が、名付けるのを恐れている証拠だった。




