顔が柔らかい
5月31日の土曜。北寄りの風が、もう一段だけ西へ動いていた。
午前は晴れるらしい。夕方から雲が厚くなって、月曜にはまた雨が戻ると、朝の予報が言っていた。今日の午前は、文芸部の発表会の最終リハーサルが入っている。土曜の校舎には、軽音部も吹奏楽部もバスケ部も、それぞれの練習に集まっていた。
* * *
文芸部のリハーサルは、3階の視聴覚教室で予定通り進んだ。
部長の古田さんが段取りを確かめたあと、ひとりずつ朗読の試しを回す。俺の番は中盤だった。10分ほどの朗読を、ノートに書いた呼吸の設計どおりに通す。昨夜のことがまだ尾を引いているのか、声はいつもよりいくらか低く落ち着いていた。教室を出たのは、11時を半分ほど過ぎた頃だ。
* * *
階段を二階まで下りたところで、廊下の奥へ目がいった。
奥には軽音部の練習室がある。土曜の午前の予約は、たしか10時から12時だ。扉の前に、ベースケースを足元に置いた琴音さんと、楽譜のファイルを胸に抱えた彼女が立っていた。立ち話の途中らしい。
近づきはせず、そのまま階段へ歩く。
歩きながらも、静かな校舎では、ふたりの声の断片が廊下越しに薄く届いてくる。
「あかり」
「うん」
「あんた最近、顔が柔らかい」
「そんなこと、ない」
* * *
彼女の「そんなこと、ない」は、本気の否定にしては力が足りなかった。
階段の途中で、その否定がもう一度耳の奥で鳴る。そこから先――琴音さんが何を言ったのかは、金属の扉が一度開閉する音にまぎれて、もう聞こえない。聞こえなかったことに、少しほっとして、少しだけ残念がっている自分がいる。
* * *
校舎を出て自転車の鍵を外すまで、琴音さんの「顔が柔らかい」が頭の隅に残っていた。
それが何を指しているのかは、こちらにも見当がつく。見当がつくぶん、駐輪場では深追いしなかった。立ち聞きしておいて中身まで詮索するのは、さすがに虫がよすぎる。
* * *
帰りはいつもの土曜のリズムで済んだ。
昼食は、母が朝のうちに用意しておいてくれた煮物の残りと、ごはんと味噌汁。母は今日も日勤で、夕方まで帰らない。食べ終えてから、机の前で月曜の予習を眺めた。文字はほとんど頭に入らなかった。
* * *
21時すぎ、ベランダに出た。
薄い雲の隙間に、細い月が昨夜よりもう一段細い。風はやわらかく、新緑とハーブの匂いがいつもの細さで流れる。仕切り板の向こうの灯りは点いていた。
手すりに肘をついて待つこと数分、カーテンが揺れて彼女が出てきた。
左手にマグカップを持って、右手を手すりに置いている。
「こんばんは」
「こんばんは」
「相川くん」
「うん」
「今日、午前」
「文芸部のリハーサル」
「来週末の発表会の」
「軽音部も、いた?」
「練習室、2階の奥で」
「上から下りるときに、通った」
「あ」
その「あ」のあと、彼女はマグカップに口をつけて、しばらく月のほうを見ていた。
午前の廊下のことを、お互いどこで持ち出すか、まだ決めかねている。
* * *
「相川くん」
「うん」
「今日、琴音さんから」
「うん」
「変なこと、言われて」
「変なこと」
「最近、顔が柔らかいって」
「そうか」
「自分では、よく分からなくて」
「自分のことは、分からないもんだろ」
「そうかも、しれません」
彼女の「そうかも、しれません」のあとに、夜風が一筋、仕切り板の縁を抜けた。
「自分ではよく分からなくて」を、否定で打ち消さずに言いっぱなしにしている。いつもの土曜より素直な声だった。
* * *
その声に、こちらも一つ返したくなった。
昨日「ない」と答えたときの近くから立ち上がってきたものだ。昨夜の机の前では、まだ仕切り板の向こうへは渡せなかった。今夜は、彼女の「分からなくて」のとなりになら、半分だけ言える気がした。
「俺も」
「はい」
「たぶん」
「たぶん?」
「気づかれてる」
「相川くんも、ですか」
「うん」
「誰に」
「宗太に」
「昨日?」
「一昨日も、たぶん」
彼女の短い「あ」が、いつもより前に出る。
声の出方が、さっきまでより一段近い。
* * *
「気づかれてますね」
「ああ」
「ふたりとも」
「ふたりとも」
「同じくらいに」
「同じくらいに、たぶん」
ふたりのあいだに、ふた呼吸ぶんの沈黙が降りた。
夜風がもう一筋、仕切り板の縁を抜ける。「気づかれてる」が何を指すのかは、どちらも口にしなかった。そこへ踏み込まずに済ませるのが、この一ヶ月の夜の運び方だった。
* * *
「相川くん、そろそろ」
「ああ」
「今夜は、これくらいで」
「うん」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
彼女のカーテンが閉まる音がして、仕切り板の向こうの灯りが消える。
手すりの金属の冷たさだけが、しばらく手のひらに残った。
* * *
自室に戻って、机の前に座った。
月曜の予習のプリントが、昼に開いたままになっている。一行も進まないまま、「気づかれてますね」の彼女の声だけが、しばらく耳に残っていた。名前なら、昨夜よりもう一段はっきり浮かんでいる。彼女の側がどうなのかは、横からは見えない。
* * *
ベッドに入って電気を消した。
気づかれてる、とふたりで言い合った。
その気づかれている「それ」を、ふたりはどちらも、まだ名付けていない。




