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夜のとなりはベランダ1枚分  作者: Studio Yodaca
仕切り板の向こう

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39/42

顔が柔らかい

 5月31日の土曜。北寄りの風が、もう一段だけ西へ動いていた。

 午前は晴れるらしい。夕方から雲が厚くなって、月曜にはまた雨が戻ると、朝の予報が言っていた。今日の午前は、文芸部の発表会の最終リハーサルが入っている。土曜の校舎には、軽音部も吹奏楽部もバスケ部も、それぞれの練習に集まっていた。


 * * *


 文芸部のリハーサルは、3階の視聴覚教室で予定通り進んだ。

 部長の古田さんが段取りを確かめたあと、ひとりずつ朗読の試しを回す。俺の番は中盤だった。10分ほどの朗読を、ノートに書いた呼吸の設計どおりに通す。昨夜のことがまだ尾を引いているのか、声はいつもよりいくらか低く落ち着いていた。教室を出たのは、11時を半分ほど過ぎた頃だ。


 * * *


 階段を二階まで下りたところで、廊下の奥へ目がいった。

 奥には軽音部の練習室がある。土曜の午前の予約は、たしか10時から12時だ。扉の前に、ベースケースを足元に置いた琴音(ことね)さんと、楽譜のファイルを胸に抱えた彼女が立っていた。立ち話の途中らしい。


 近づきはせず、そのまま階段へ歩く。

 歩きながらも、静かな校舎では、ふたりの声の断片が廊下越しに薄く届いてくる。


「あかり」

「うん」

「あんた最近、顔が柔らかい」

「そんなこと、ない」


 * * *


 彼女の「そんなこと、ない」は、本気の否定にしては力が足りなかった。

 階段の途中で、その否定がもう一度耳の奥で鳴る。そこから先――琴音(ことね)さんが何を言ったのかは、金属の扉が一度開閉する音にまぎれて、もう聞こえない。聞こえなかったことに、少しほっとして、少しだけ残念がっている自分がいる。


 * * *


 校舎を出て自転車の鍵を外すまで、琴音(ことね)さんの「顔が柔らかい」が頭の隅に残っていた。

 それが何を指しているのかは、こちらにも見当がつく。見当がつくぶん、駐輪場では深追いしなかった。立ち聞きしておいて中身まで詮索するのは、さすがに虫がよすぎる。


 * * *


 帰りはいつもの土曜のリズムで済んだ。

 昼食は、母が朝のうちに用意しておいてくれた煮物の残りと、ごはんと味噌汁。母は今日も日勤で、夕方まで帰らない。食べ終えてから、机の前で月曜の予習を眺めた。文字はほとんど頭に入らなかった。


 * * *


 21時すぎ、ベランダに出た。

 薄い雲の隙間に、細い月が昨夜よりもう一段細い。風はやわらかく、新緑とハーブの匂いがいつもの細さで流れる。仕切り板の向こうの灯りは点いていた。


 手すりに肘をついて待つこと数分、カーテンが揺れて彼女が出てきた。

 左手にマグカップを持って、右手を手すりに置いている。


「こんばんは」

「こんばんは」


相川(あいかわ)くん」

「うん」

「今日、午前」

「文芸部のリハーサル」

「来週末の発表会の」

「軽音部も、いた?」

「練習室、2階の奥で」

「上から下りるときに、通った」

「あ」


 その「あ」のあと、彼女はマグカップに口をつけて、しばらく月のほうを見ていた。

 午前の廊下のことを、お互いどこで持ち出すか、まだ決めかねている。


 * * *


相川(あいかわ)くん」

「うん」

「今日、琴音(ことね)さんから」

「うん」

「変なこと、言われて」

「変なこと」

「最近、顔が柔らかいって」

「そうか」

「自分では、よく分からなくて」

「自分のことは、分からないもんだろ」

「そうかも、しれません」


 彼女の「そうかも、しれません」のあとに、夜風が一筋、仕切り板の縁を抜けた。

 「自分ではよく分からなくて」を、否定で打ち消さずに言いっぱなしにしている。いつもの土曜より素直な声だった。


 * * *


 その声に、こちらも一つ返したくなった。

 昨日「ない」と答えたときの近くから立ち上がってきたものだ。昨夜の机の前では、まだ仕切り板の向こうへは渡せなかった。今夜は、彼女の「分からなくて」のとなりになら、半分だけ言える気がした。


「俺も」

「はい」

「たぶん」

「たぶん?」

「気づかれてる」

相川(あいかわ)くんも、ですか」

「うん」

「誰に」

宗太(そうた)に」

「昨日?」

「一昨日も、たぶん」


 彼女の短い「あ」が、いつもより前に出る。

 声の出方が、さっきまでより一段近い。


 * * *


「気づかれてますね」

「ああ」

「ふたりとも」

「ふたりとも」

「同じくらいに」

「同じくらいに、たぶん」


 ふたりのあいだに、ふた呼吸ぶんの沈黙が降りた。

 夜風がもう一筋、仕切り板の縁を抜ける。「気づかれてる」が何を指すのかは、どちらも口にしなかった。そこへ踏み込まずに済ませるのが、この一ヶ月の夜の運び方だった。


 * * *


相川(あいかわ)くん、そろそろ」

「ああ」

「今夜は、これくらいで」

「うん」

「おやすみなさい」

「おやすみ」


 彼女のカーテンが閉まる音がして、仕切り板の向こうの灯りが消える。

 手すりの金属の冷たさだけが、しばらく手のひらに残った。


 * * *


 自室に戻って、机の前に座った。

 月曜の予習のプリントが、昼に開いたままになっている。一行も進まないまま、「気づかれてますね」の彼女の声だけが、しばらく耳に残っていた。名前なら、昨夜よりもう一段はっきり浮かんでいる。彼女の側がどうなのかは、横からは見えない。


 * * *


 ベッドに入って電気を消した。


 気づかれてる、とふたりで言い合った。

 その気づかれている「それ」を、ふたりはどちらも、まだ名付けていない。


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