表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜のとなりはベランダ1枚分  作者: Studio Yodaca
仕切り板の向こう

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
38/42

答えられない夜

 5月30日の金曜。夜のうちに、南風が北寄りの細い風へ入れ替わっていた。

 空は昨日の白っぽい青のままで、湿度がもう一段下がっている。来週の頭からまた前線が上がってくると、朝の予報が言っていた。窓際の席に着くと、宗太(そうた)はもう単語帳を片手で繰っていた。


相川(あいかわ)

「うん」

「数学の3-(2)、答え合わせさせてくれ」

「いいよ」


 宗太(そうた)の口調は、いつもの金曜の朝そのままだ。

 昨日の藤棚の問いは、あいつのなかではもう昨日に置いてきている。単語帳をめくる指の先に、こちらも短く頷いた。


 * * *


 1限の現代文のあいだ、頭の片隅に昨日の宗太(そうた)の問いが残っていた。

 牧田(まきた)先生の朗読に合わせてノートを取るうちに、鉛筆の先がふと止まる。気づくと、余白に「奴」の一文字を書きかけている。


 線の途中で止めて、消しゴムで消す。

 消しても、紙には薄い跡が残る。その跡を見ないようにして、朗読のテンポに戻った。


 * * *


 2限も3限も、同じだった。

 気づくと書きかけ、気づくと消している。鉛筆を溝に戻すころには、ページの隅が薄く荒れていた。


 * * *


 昼休み、弁当を持って中庭の藤棚へ向かう。

 紫の房のあとの若い莢が、5月の最後の金曜に合わせて数を増やしている。ベンチでは宗太(そうた)がもう弁当を開けて、お茶を片手に待っていた。


「藤、もう終わりだな」

「来週には、緑だけだ」

「来年までお預けかよ」

「気の長い話だ」

「受験前に花見できただけ、もうけもんだろ」


 宗太(そうた)は卵焼きをつまみながら、勝手にそう結論づけた。

 昨日の問いは、あいつの口からはもう出てこない。藤の話に短く乗って、こちらも卵焼きへ箸を伸ばした。


 * * *


 午後の授業も、いつもの金曜のまま進んだ。

 現代社会の途中で、今度は余白に「ない」のふた文字が立ち上がる。また鉛筆を止めて、消す。午前のページの「奴」と、午後のページの「ない」が、別々の余白に薄く残った。

 二つを並べて、すぐにノートを閉じる。閉じても、跡は表紙の下に残っている。


 * * *


 夕食のあと、机の前で月曜の現代文の予習を開く。

 文具ケースの脇には、紙片の山がいつもの位置にある。いちばん上のレモンバームのメモを一度だけ目で確かめて、すぐ予習へ戻す。戻っても、意識は半分しか文字に乗らない。


 * * *


 21時すぎ、ベランダに出た。

 薄い雲のあいだに、細い月が昨夜より一段高い。風はやわらかく、新緑とハーブの匂いがいつもの細さで流れる。仕切り板の向こうの灯りは点いていた。


 手すりに肘をついて待つこと数分、カーテンが揺れて彼女が出てきた。

 左手にマグカップを持って、右手を手すりに置いている。今夜は差し入れの小袋もない。


「こんばんは」

「こんばんは」


相川(あいかわ)くん」

「うん」

「今日、乾いた風でしたね」

「乾いてた」

「来週からは、また戻るって」

「予報じゃな」

「そうですね」


 彼女の声は、ふだんの夜と同じ高さで届く。

 ただ、こちらの返すひと言がふだんより短い。短いまま、手すりの肘のところに置いておく。


 * * *


 会話は今夜じゅう、いつもより短いテンポで進んだ。

 来週の天気の話から、軽音部の次の練習へ移り、文芸部の発表会の段取りへ流れる。どれを話しても、こちらのひと言が短い。彼女がそれに気づいているのかどうかは、横からでは分からなかった。


相川(あいかわ)くん」

「うん」

「今夜、いつもより」

「うん」

「短いですね」

「そうかも」

「疲れてます?」

「疲れては、ない」

「ならいいんですけど」


 彼女の「ならいいんですけど」のあとに、夜風が一筋、仕切り板の縁を抜けた。

 それきり、彼女はもう何も訊いてこない。マグカップに口をつけて、月のほうへ顔を向けている。


 * * *


 短い沈黙のあいだに、昨日の宗太(そうた)の「好きな奴、できたのか」が、もう一度立ち上がってきた。

 それを仕切り板の向こうへ渡す言葉が、まだ整っていない。整わないものを無理に出すのは、この一ヶ月の夜の作法に合わない気がした。


相川(あいかわ)くん、今夜はもう、休んだほうが」

「そうする」

「明日、出られそうなら」

「出る」

「わたしも、たぶん」

「うん」


 彼女はそう言うと、マグカップを持った手を小さく上げて、先にカーテンの奥へ消えた。

 手すりに残されたこちらが、ひと呼吸遅れて「また」とつぶやく。今夜のベランダは、いつもの金曜より短かった。こちらが短ければ、彼女も短く切り上げる。それだけの夜だった。


 * * *


 自室に戻って、机の前に座った。

 今日はずっと、宗太(そうた)の問いの周りを回っていた。昨日「ない」と答えたのが嘘だったことは、もう昨夜のうちに認めている。それを認めるのが、なぜかいちばん面倒だった。


 名前なら、昨夜の暗がりで一度は浮かんでいる。

 それを宗太(そうた)に言い直す必要はない。月曜の昼に、あいつは同じ問いを振ってはこないだろう。彼女に渡すのも、今夜はまだ早い。早すぎるという感覚だけが、はっきりある。


 * * *


 宗太(そうた)でも、彼女でもない。

 じゃあ誰に、と開いたままの予習のテキストの白い余白を、しばらく目で追った。残ったのは、ここに座っているこいつだ。鉛筆には手を伸ばさない。書き留めるのは、まだ早い。


 答えるべき相手は宗太(そうた)ではなく、自分だった。


 * * *


 ベッドに入って電気を消した。

 暗がりに、その一文だけが残っている。相手が自分だと分かったところで、それで楽になるわけでもなかった。名前を呼ぶのは、まだ先でいい。今夜のところは、それで足りる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ