答えられない夜
5月30日の金曜。夜のうちに、南風が北寄りの細い風へ入れ替わっていた。
空は昨日の白っぽい青のままで、湿度がもう一段下がっている。来週の頭からまた前線が上がってくると、朝の予報が言っていた。窓際の席に着くと、宗太はもう単語帳を片手で繰っていた。
「相川」
「うん」
「数学の3-(2)、答え合わせさせてくれ」
「いいよ」
宗太の口調は、いつもの金曜の朝そのままだ。
昨日の藤棚の問いは、あいつのなかではもう昨日に置いてきている。単語帳をめくる指の先に、こちらも短く頷いた。
* * *
1限の現代文のあいだ、頭の片隅に昨日の宗太の問いが残っていた。
牧田先生の朗読に合わせてノートを取るうちに、鉛筆の先がふと止まる。気づくと、余白に「奴」の一文字を書きかけている。
線の途中で止めて、消しゴムで消す。
消しても、紙には薄い跡が残る。その跡を見ないようにして、朗読のテンポに戻った。
* * *
2限も3限も、同じだった。
気づくと書きかけ、気づくと消している。鉛筆を溝に戻すころには、ページの隅が薄く荒れていた。
* * *
昼休み、弁当を持って中庭の藤棚へ向かう。
紫の房のあとの若い莢が、5月の最後の金曜に合わせて数を増やしている。ベンチでは宗太がもう弁当を開けて、お茶を片手に待っていた。
「藤、もう終わりだな」
「来週には、緑だけだ」
「来年までお預けかよ」
「気の長い話だ」
「受験前に花見できただけ、もうけもんだろ」
宗太は卵焼きをつまみながら、勝手にそう結論づけた。
昨日の問いは、あいつの口からはもう出てこない。藤の話に短く乗って、こちらも卵焼きへ箸を伸ばした。
* * *
午後の授業も、いつもの金曜のまま進んだ。
現代社会の途中で、今度は余白に「ない」のふた文字が立ち上がる。また鉛筆を止めて、消す。午前のページの「奴」と、午後のページの「ない」が、別々の余白に薄く残った。
二つを並べて、すぐにノートを閉じる。閉じても、跡は表紙の下に残っている。
* * *
夕食のあと、机の前で月曜の現代文の予習を開く。
文具ケースの脇には、紙片の山がいつもの位置にある。いちばん上のレモンバームのメモを一度だけ目で確かめて、すぐ予習へ戻す。戻っても、意識は半分しか文字に乗らない。
* * *
21時すぎ、ベランダに出た。
薄い雲のあいだに、細い月が昨夜より一段高い。風はやわらかく、新緑とハーブの匂いがいつもの細さで流れる。仕切り板の向こうの灯りは点いていた。
手すりに肘をついて待つこと数分、カーテンが揺れて彼女が出てきた。
左手にマグカップを持って、右手を手すりに置いている。今夜は差し入れの小袋もない。
「こんばんは」
「こんばんは」
「相川くん」
「うん」
「今日、乾いた風でしたね」
「乾いてた」
「来週からは、また戻るって」
「予報じゃな」
「そうですね」
彼女の声は、ふだんの夜と同じ高さで届く。
ただ、こちらの返すひと言がふだんより短い。短いまま、手すりの肘のところに置いておく。
* * *
会話は今夜じゅう、いつもより短いテンポで進んだ。
来週の天気の話から、軽音部の次の練習へ移り、文芸部の発表会の段取りへ流れる。どれを話しても、こちらのひと言が短い。彼女がそれに気づいているのかどうかは、横からでは分からなかった。
「相川くん」
「うん」
「今夜、いつもより」
「うん」
「短いですね」
「そうかも」
「疲れてます?」
「疲れては、ない」
「ならいいんですけど」
彼女の「ならいいんですけど」のあとに、夜風が一筋、仕切り板の縁を抜けた。
それきり、彼女はもう何も訊いてこない。マグカップに口をつけて、月のほうへ顔を向けている。
* * *
短い沈黙のあいだに、昨日の宗太の「好きな奴、できたのか」が、もう一度立ち上がってきた。
それを仕切り板の向こうへ渡す言葉が、まだ整っていない。整わないものを無理に出すのは、この一ヶ月の夜の作法に合わない気がした。
「相川くん、今夜はもう、休んだほうが」
「そうする」
「明日、出られそうなら」
「出る」
「わたしも、たぶん」
「うん」
彼女はそう言うと、マグカップを持った手を小さく上げて、先にカーテンの奥へ消えた。
手すりに残されたこちらが、ひと呼吸遅れて「また」とつぶやく。今夜のベランダは、いつもの金曜より短かった。こちらが短ければ、彼女も短く切り上げる。それだけの夜だった。
* * *
自室に戻って、机の前に座った。
今日はずっと、宗太の問いの周りを回っていた。昨日「ない」と答えたのが嘘だったことは、もう昨夜のうちに認めている。それを認めるのが、なぜかいちばん面倒だった。
名前なら、昨夜の暗がりで一度は浮かんでいる。
それを宗太に言い直す必要はない。月曜の昼に、あいつは同じ問いを振ってはこないだろう。彼女に渡すのも、今夜はまだ早い。早すぎるという感覚だけが、はっきりある。
* * *
宗太でも、彼女でもない。
じゃあ誰に、と開いたままの予習のテキストの白い余白を、しばらく目で追った。残ったのは、ここに座っているこいつだ。鉛筆には手を伸ばさない。書き留めるのは、まだ早い。
答えるべき相手は宗太ではなく、自分だった。
* * *
ベッドに入って電気を消した。
暗がりに、その一文だけが残っている。相手が自分だと分かったところで、それで楽になるわけでもなかった。名前を呼ぶのは、まだ先でいい。今夜のところは、それで足りる。




