好きな奴できたのか
5月28日の水曜の夜のベランダは、いつもの水曜のテンポに収まった。
彼女は、ベランダのミントが伸びすぎて困っていると短く笑った。こちらは文芸部の発表会の段取りを返す。昨夜の「捨てられない」のことは、どちらも口に出さなかった。昨夜の机の脇の感触も、今夜は動かさずに置いておいた。
* * *
5月29日の木曜。朝の空は白っぽい青に寄っている。
雨は週末まで戻らないらしい。窓際の席に着いた頃、宗太がいつもより早く、俺の机のところへ来た。
「相川」
「うん」
「昼、藤棚のとこな」
「分かった」
口調はいつもどおりだ。
ただ、わざわざ朝に予約を入れてくるのは、めずらしい。
* * *
午前は、いつもの木曜のまま進んだ。
昼休みのチャイムで、宗太が弁当を手に先に教室を出た。俺も少し遅れて、弁当を持って中庭の藤棚へ歩く。
藤の紫の房は、5月の終わりに合わせて、もう盛りを過ぎている。
房のあった枝に、若い緑の莢が控えめに垂れている。ベンチでは宗太が弁当を開けて、お茶のペットボトルを片手に待っていた。隣に座って、自分の弁当を開く。
「相川」
宗太が短く切り出す。
「うん」
「ちょっと、聞いてもいいか」
「うん」
宗太の置いたひと呼吸が、いつもより長い。
雑談の入り方ではない。弁当の蓋を半分開けたところで、箸が止まった。
「お前、最近」
「うん」
「好きな奴、できたのか」
* * *
その問いに、藤棚の下の空気が、一拍止まった。
口に浮かんだのは「……ない」のふた文字だ。出る前に、ひとつだけためらった。
「……ない」
短く、そう答える。
口に出すと、その「ない」は自分でも嘘くさかった。
日曜の夜、ベランダで彼女に返した「ない」と、同じ声だ。同じ嘘が、同じ口から、4日のうちに二度。なんで「ない」なんだ、と思ったが、もう遅い。
* * *
宗太は、俺の「……ない」を聞いて、ひと呼吸ぶん黙る。
箸の先が、藤棚の莢のほうを向いたまま止まっていた。
「そうか」
宗太が短く返す。
「うん」
「ならいい」
宗太の「ならいい」は、いつもより少し柔らかい。
嘘に気づいたのかどうかは、あいつの顔からは分からなかった。
「深入りはしない」
宗太が短く付け足す。
「うん」
「ただ、何かあるなら」
「うん」
「いつでも」
「ありがとう」
「いや」
宗太の「いや」のあとに、藤棚の若い莢が、細い風に一度だけ揺れた。
* * *
昼休みの残りは、どちらからともなく、午後の数学の宿題の話へ切り替わる。
さっきの問いは、それきり蒸し返されなかった。
ただ、宗太の「好きな奴」のひと言は、午後まで耳に残る。
5限の途中、ノートの右下の余白に、気づくと一文字を書いている。「奴」だった。鉛筆を止めて、消しゴムで消す。消しても、紙には薄い跡が残った。
* * *
帰りの坂を下りて、駐輪場まで戻った。
夕食のあと、机の前で数学の宿題に手をつける。文具ケースの脇には、彼女からのメモの山が、いつもの位置にある。いちばん上のレモンバームの『眠る前の30分、お湯200に小さじ1』を、目で一度なぞった。昼の「奴」の硬い手触りと、この字の柔らかさは、ずいぶん違う。
21時すぎ、ベランダに出た。
薄い雲のあいだに、細い月が低く出ている。風はやわらかく、新緑とハーブの匂いがいつもの細さで流れる。仕切り板の向こうの灯りは点いている。
手すりに肘をついて待つこと数分、カーテンが揺れて彼女が出てきた。
左手にマグカップ、右手は手すりのうえ。今夜は手ぶらだ。
「こんばんは」
「こんばんは」
「相川くん」
「うん」
「今日、軽音部のスタジオでした」
「水曜から、木曜に動いたやつ」
「そうです」
「うまくいった?」
「ええ、ジャズの古いスタンダードのほうの合わせを」
「順調」
「順調です」
「よかったな」
彼女の声は、いつもの木曜の夜のまま届く。
昼の宗太の問いも、自分の「……ない」も、この声の前には持ち出さない。
* * *
「中庭の藤」
俺は短く話題を振った。
「はい」
「もう、終わりかけ」
「あ」
「来週には完全に」
「早いですね」
「早い」
「楽器のスタジオの近所の藤も、もう終わりです」
「同じ終わり方」
「同じ、終わり方」
同じ藤の終わりを、別々の場所で見ていた。
それだけのことが、今夜は妙によかった。
「そろそろ」
「うん」
「今夜は」
「これくらいで」
「明日も」
「出る」
「わたしも」
「じゃあ、また」
「また」
短い挨拶のあと、ふたりはそれぞれの部屋に戻る。
今夜のベランダは、いつもの木曜の長さだった。
* * *
ベッドに入って電気を消した。
暗がりのなかで、昼の宗太の声がまた聞こえる。「好きな奴、できたのか」。それに返した、自分の「……ない」。
「ない」と答えたのは、嘘だった。
そのことは、もう、自分にも隠せない。




