表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜のとなりはベランダ1枚分  作者: Studio Yodaca
仕切り板の向こう

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
37/42

好きな奴できたのか

 5月28日の水曜の夜のベランダは、いつもの水曜のテンポに収まった。

 彼女は、ベランダのミントが伸びすぎて困っていると短く笑った。こちらは文芸部の発表会の段取りを返す。昨夜の「捨てられない」のことは、どちらも口に出さなかった。昨夜の机の脇の感触も、今夜は動かさずに置いておいた。


 * * *


 5月29日の木曜。朝の空は白っぽい青に寄っている。

 雨は週末まで戻らないらしい。窓際の席に着いた頃、宗太(そうた)がいつもより早く、俺の机のところへ来た。


相川(あいかわ)

「うん」

「昼、藤棚のとこな」

「分かった」


 口調はいつもどおりだ。

 ただ、わざわざ朝に予約を入れてくるのは、めずらしい。


 * * *


 午前は、いつもの木曜のまま進んだ。

 昼休みのチャイムで、宗太(そうた)が弁当を手に先に教室を出た。俺も少し遅れて、弁当を持って中庭の藤棚へ歩く。


 藤の紫の房は、5月の終わりに合わせて、もう盛りを過ぎている。

 房のあった枝に、若い緑の莢が控えめに垂れている。ベンチでは宗太(そうた)が弁当を開けて、お茶のペットボトルを片手に待っていた。隣に座って、自分の弁当を開く。


相川(あいかわ)

 宗太(そうた)が短く切り出す。

「うん」

「ちょっと、聞いてもいいか」

「うん」


 宗太(そうた)の置いたひと呼吸が、いつもより長い。

 雑談の入り方ではない。弁当の蓋を半分開けたところで、箸が止まった。


「お前、最近」

「うん」

「好きな奴、できたのか」


 * * *


 その問いに、藤棚の下の空気が、一拍止まった。

 口に浮かんだのは「……ない」のふた文字だ。出る前に、ひとつだけためらった。


「……ない」

 短く、そう答える。


 口に出すと、その「ない」は自分でも嘘くさかった。

 日曜の夜、ベランダで彼女に返した「ない」と、同じ声だ。同じ嘘が、同じ口から、4日のうちに二度。なんで「ない」なんだ、と思ったが、もう遅い。


 * * *


 宗太(そうた)は、俺の「……ない」を聞いて、ひと呼吸ぶん黙る。

 箸の先が、藤棚の莢のほうを向いたまま止まっていた。


「そうか」

 宗太(そうた)が短く返す。

「うん」

「ならいい」


 宗太(そうた)の「ならいい」は、いつもより少し柔らかい。

 嘘に気づいたのかどうかは、あいつの顔からは分からなかった。


「深入りはしない」

 宗太(そうた)が短く付け足す。

「うん」

「ただ、何かあるなら」

「うん」

「いつでも」

「ありがとう」

「いや」


 宗太(そうた)の「いや」のあとに、藤棚の若い莢が、細い風に一度だけ揺れた。


 * * *


 昼休みの残りは、どちらからともなく、午後の数学の宿題の話へ切り替わる。

 さっきの問いは、それきり蒸し返されなかった。


 ただ、宗太(そうた)の「好きな奴」のひと言は、午後まで耳に残る。

 5限の途中、ノートの右下の余白に、気づくと一文字を書いている。「奴」だった。鉛筆を止めて、消しゴムで消す。消しても、紙には薄い跡が残った。


 * * *


 帰りの坂を下りて、駐輪場まで戻った。

 夕食のあと、机の前で数学の宿題に手をつける。文具ケースの脇には、彼女からのメモの山が、いつもの位置にある。いちばん上のレモンバームの『眠る前の30分、お湯200に小さじ1』を、目で一度なぞった。昼の「奴」の硬い手触りと、この字の柔らかさは、ずいぶん違う。


 21時すぎ、ベランダに出た。

 薄い雲のあいだに、細い月が低く出ている。風はやわらかく、新緑とハーブの匂いがいつもの細さで流れる。仕切り板の向こうの灯りは点いている。


 手すりに肘をついて待つこと数分、カーテンが揺れて彼女が出てきた。

 左手にマグカップ、右手は手すりのうえ。今夜は手ぶらだ。


「こんばんは」

「こんばんは」


相川(あいかわ)くん」

「うん」

「今日、軽音部のスタジオでした」

「水曜から、木曜に動いたやつ」

「そうです」

「うまくいった?」

「ええ、ジャズの古いスタンダードのほうの合わせを」

「順調」

「順調です」

「よかったな」


 彼女の声は、いつもの木曜の夜のまま届く。

 昼の宗太(そうた)の問いも、自分の「……ない」も、この声の前には持ち出さない。


 * * *


「中庭の藤」

 俺は短く話題を振った。

「はい」

「もう、終わりかけ」

「あ」

「来週には完全に」

「早いですね」

「早い」

「楽器のスタジオの近所の藤も、もう終わりです」

「同じ終わり方」

「同じ、終わり方」


 同じ藤の終わりを、別々の場所で見ていた。

 それだけのことが、今夜は妙によかった。


「そろそろ」

「うん」

「今夜は」

「これくらいで」

「明日も」

「出る」

「わたしも」

「じゃあ、また」

「また」


 短い挨拶のあと、ふたりはそれぞれの部屋に戻る。

 今夜のベランダは、いつもの木曜の長さだった。


 * * *


 ベッドに入って電気を消した。

 暗がりのなかで、昼の宗太(そうた)の声がまた聞こえる。「好きな奴、できたのか」。それに返した、自分の「……ない」。


 「ない」と答えたのは、嘘だった。

 そのことは、もう、自分にも隠せない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ