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夜のとなりはベランダ1枚分  作者: Studio Yodaca
仕切り板の向こう

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36/41

捨てられないメモ

 5月26日の月曜の夜のベランダは、いつもの月曜のテンポに収まった。

 彼女は、軽音部のミーティングが水曜から木曜に変わりそうだと短く伝えた。こちらも文芸部の発表会が来週末にあると返す。昨夜の「夜風の影」と「ない」のことは、どちらも口に出さなかった。


 * * *


 5月27日の火曜。昼休みは中庭の藤棚の下に戻った。

 藤の盛りはもう終わりかけで、紫の房のあいだに、若い緑の莢がちらほら見えはじめている。宗太(そうた)は卵焼きをつまみながら、来月の球技大会でどのクラスが本命かを、ひとりで勝手に予想していた。半分は聞き流した。日曜の夜のことは、話していない。


 * * *


 帰宅して、机の前で軽く息をつく。

 明日の小テストの範囲を開く前に、机の右上で視線が止まった。

 文具ケースの脇に、彼女からの小さな紙片がいくつか寄り集まっている。この一ヶ月あまりで自然と溜まったものだ。


 ラベンダーの鉢底に挟まっていた、角張った丁寧な字の『ラベンダー(オフィシナリス)』。

 ミントの飴の袋に入っていた『お疲れさま、相川(あいかわ)くん』。星座早見盤を貸してくれたときの『北の空のほうが、見やすいです』。貸し本のページの『次の章、たぶん好きです』。ハーブの小袋に貼られた『朝、開けてみてください』。差し入れの本体はとっくに手元を離れたのに、紙片だけが、外されて脇に並んだまま残っている。


 * * *


 机を片付けはじめたのは、夕食から30分ほど経った頃だった。

 水曜の小テスト前に机を整えるのは、いつもの段取りだ。テキスト、ノート、過去問を重ね直すうちに、紙片の山にも手が伸びる。


 手に取って、一枚ずつ眺める。

 どれも、差し入れの本体はもう手元にない。残った紙片に、役目なんてもうほとんどない。


 山を両手に集めて、ごみ箱の上まで運ぶ。

 傾けようとして、手が止まった。


 止めたのは、頭ではない。

 紙そのものは、合わせても2グラムもない。なのに、手のひらが傾けるのを拒んだ。


 * * *


 手を、ゆっくり元へ戻す。

 女子からのメモを5枚も後生大事に取ってある男、と言葉にすると、われながら締まらない。締まらないと思いながら、山を文具ケースの脇に置き直す。


 * * *


 21時すぎ、ベランダに出た。

 薄雲のあいだに、満月から大きく欠けた月が細く残っている。風はやわらかく、新緑とハーブの匂いがいつもの細さで流れた。仕切り板の向こうの灯りは点いている。


 手すりに肘をついて数分、カーテンが揺れて彼女が出てきた。

 右手に、いつもより少し大きめの白い小袋。口は細い麻紐でゆるく結ばれている。その結び目に小さな紙片が挟まっているのが、アクリル越しにも見えた。


「こんばんは」

「こんばんは」


相川(あいかわ)くん」

「うん」

「これ、よかったら」

「ハーブ?」

「ええ、レモンバームを乾燥させたものを、少し」

「ありがとう」

「お母さんと、お湯に少し入れて」

「夜のお茶に?」

「夜のお茶に」


 彼女は仕切り板の足元の隙間に屈んで、小袋を俺の側へ静かに滑らせる。

 こちらも屈んで受け取る。結び目の紙片には、彼女の字で『眠る前の30分、お湯200に小さじ1』とあった。


 * * *


「メモ」

 俺は短く言った。

「あ」

「いつも、丁寧に」

「ご迷惑、でしたか」

「いや」

「ならよし」

「むしろ」

「むしろ」

「捨てられない」

「え」

「いままでの、メモも」

「捨ててないんですか」

「捨てられない」

相川(あいかわ)くんが、捨てられないって、めずらしい」

「めずらしい?」

「言葉の感じが、いつもより、少しだけ」

「そうか」

「重い、ような」


 彼女の「重い、ような」のあとに、夜風が一筋、仕切り板の縁を抜ける。

 その一筋を、すぐには言葉で埋められなかった。


 俺は短く言葉を継いだ。

「片付けの段取りで」

「はい」

「捨てようとした」

「うん」

「手が、止まった」

「止まった」

「5枚ぶん」

「5枚も、あったんですか」

「数えたら、5枚」

「わたし、そんなに、書きました?」

「書いてた」

「気づかないで、書いてました」


 彼女の「気づかないで、書いてました」は、いつもより少し柔らかい。

 5枚も書いていたことに、本人も気づいていなかったのか。そのあとの声が、一瞬だけとぎれた。


 * * *


 ふたりのあいだに、しばらく沈黙が降りる。

 夜風がもう一筋、仕切り板の縁を抜ける。


「……ありがとうございます」

 彼女が短く切り出した。

「いや」

「捨てないでくれて」

「うん」

「わたしの、書いたものを」

「捨てない」

「これからも」

「捨てない」


 二度目の「捨てない」を、口に出したあとで、短く息を整えた。


 * * *


「そろそろ」

 彼女が静かに切り出す。

「うん」

「今夜は」

「これくらいで」

「明日も」

「出る」

「わたしも」

「じゃあ、また」

「また」


 短い挨拶のあと、ふたりはそれぞれの部屋に戻った。

 自室で、結び目から新しいメモを外し、山のいちばん上に重ねる。8枚になった山は、ほんの少しだけ高くなった。


 * * *


 ベッドに入って電気を消した。

 暗がりのなかで、夕方ごみ箱の上で止まった手の感触を、もう一度たどる。捨てられなかったのは、紙が惜しかったからではない。そこに書かれた、彼女の字のほうだ。


 捨てられない、というのは、どういう意味だろう。

 言いかけの形なら、もう浮かんでいる。ただ、その形に名前をつけるのが、まだ少しこわい。


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