捨てられないメモ
5月26日の月曜の夜のベランダは、いつもの月曜のテンポに収まった。
彼女は、軽音部のミーティングが水曜から木曜に変わりそうだと短く伝えた。こちらも文芸部の発表会が来週末にあると返す。昨夜の「夜風の影」と「ない」のことは、どちらも口に出さなかった。
* * *
5月27日の火曜。昼休みは中庭の藤棚の下に戻った。
藤の盛りはもう終わりかけで、紫の房のあいだに、若い緑の莢がちらほら見えはじめている。宗太は卵焼きをつまみながら、来月の球技大会でどのクラスが本命かを、ひとりで勝手に予想していた。半分は聞き流した。日曜の夜のことは、話していない。
* * *
帰宅して、机の前で軽く息をつく。
明日の小テストの範囲を開く前に、机の右上で視線が止まった。
文具ケースの脇に、彼女からの小さな紙片がいくつか寄り集まっている。この一ヶ月あまりで自然と溜まったものだ。
ラベンダーの鉢底に挟まっていた、角張った丁寧な字の『ラベンダー(オフィシナリス)』。
ミントの飴の袋に入っていた『お疲れさま、相川くん』。星座早見盤を貸してくれたときの『北の空のほうが、見やすいです』。貸し本のページの『次の章、たぶん好きです』。ハーブの小袋に貼られた『朝、開けてみてください』。差し入れの本体はとっくに手元を離れたのに、紙片だけが、外されて脇に並んだまま残っている。
* * *
机を片付けはじめたのは、夕食から30分ほど経った頃だった。
水曜の小テスト前に机を整えるのは、いつもの段取りだ。テキスト、ノート、過去問を重ね直すうちに、紙片の山にも手が伸びる。
手に取って、一枚ずつ眺める。
どれも、差し入れの本体はもう手元にない。残った紙片に、役目なんてもうほとんどない。
山を両手に集めて、ごみ箱の上まで運ぶ。
傾けようとして、手が止まった。
止めたのは、頭ではない。
紙そのものは、合わせても2グラムもない。なのに、手のひらが傾けるのを拒んだ。
* * *
手を、ゆっくり元へ戻す。
女子からのメモを5枚も後生大事に取ってある男、と言葉にすると、われながら締まらない。締まらないと思いながら、山を文具ケースの脇に置き直す。
* * *
21時すぎ、ベランダに出た。
薄雲のあいだに、満月から大きく欠けた月が細く残っている。風はやわらかく、新緑とハーブの匂いがいつもの細さで流れた。仕切り板の向こうの灯りは点いている。
手すりに肘をついて数分、カーテンが揺れて彼女が出てきた。
右手に、いつもより少し大きめの白い小袋。口は細い麻紐でゆるく結ばれている。その結び目に小さな紙片が挟まっているのが、アクリル越しにも見えた。
「こんばんは」
「こんばんは」
「相川くん」
「うん」
「これ、よかったら」
「ハーブ?」
「ええ、レモンバームを乾燥させたものを、少し」
「ありがとう」
「お母さんと、お湯に少し入れて」
「夜のお茶に?」
「夜のお茶に」
彼女は仕切り板の足元の隙間に屈んで、小袋を俺の側へ静かに滑らせる。
こちらも屈んで受け取る。結び目の紙片には、彼女の字で『眠る前の30分、お湯200に小さじ1』とあった。
* * *
「メモ」
俺は短く言った。
「あ」
「いつも、丁寧に」
「ご迷惑、でしたか」
「いや」
「ならよし」
「むしろ」
「むしろ」
「捨てられない」
「え」
「いままでの、メモも」
「捨ててないんですか」
「捨てられない」
「相川くんが、捨てられないって、めずらしい」
「めずらしい?」
「言葉の感じが、いつもより、少しだけ」
「そうか」
「重い、ような」
彼女の「重い、ような」のあとに、夜風が一筋、仕切り板の縁を抜ける。
その一筋を、すぐには言葉で埋められなかった。
俺は短く言葉を継いだ。
「片付けの段取りで」
「はい」
「捨てようとした」
「うん」
「手が、止まった」
「止まった」
「5枚ぶん」
「5枚も、あったんですか」
「数えたら、5枚」
「わたし、そんなに、書きました?」
「書いてた」
「気づかないで、書いてました」
彼女の「気づかないで、書いてました」は、いつもより少し柔らかい。
5枚も書いていたことに、本人も気づいていなかったのか。そのあとの声が、一瞬だけとぎれた。
* * *
ふたりのあいだに、しばらく沈黙が降りる。
夜風がもう一筋、仕切り板の縁を抜ける。
「……ありがとうございます」
彼女が短く切り出した。
「いや」
「捨てないでくれて」
「うん」
「わたしの、書いたものを」
「捨てない」
「これからも」
「捨てない」
二度目の「捨てない」を、口に出したあとで、短く息を整えた。
* * *
「そろそろ」
彼女が静かに切り出す。
「うん」
「今夜は」
「これくらいで」
「明日も」
「出る」
「わたしも」
「じゃあ、また」
「また」
短い挨拶のあと、ふたりはそれぞれの部屋に戻った。
自室で、結び目から新しいメモを外し、山のいちばん上に重ねる。8枚になった山は、ほんの少しだけ高くなった。
* * *
ベッドに入って電気を消した。
暗がりのなかで、夕方ごみ箱の上で止まった手の感触を、もう一度たどる。捨てられなかったのは、紙が惜しかったからではない。そこに書かれた、彼女の字のほうだ。
捨てられない、というのは、どういう意味だろう。
言いかけの形なら、もう浮かんでいる。ただ、その形に名前をつけるのが、まだ少しこわい。




