横顔を見ていた
5月25日の日曜。昨日の晴れ間が、そのまま薄い雲へ広がった朝だった。
雨は今日のうちは戻らないらしい。母は連勤三日目の支度をしながら、台所で味噌汁の鍋の蓋を一度開けて、また閉めた。昨日は早めに寝たぶん、今朝の顔色はいつもの月曜くらいまで戻っている。
午後、宗太から体育の選択の確認メッセージが来る。
バスケと卓球とソフトから二つ選ぶ、5月最終週のやつだ。俺と宗太は毎学期、片方を揃える暗黙の約束で動いている。今学期もバスケと卓球で揃えることに、短いやりとりで決まった。
* * *
夕方、空はもう一段だけ明るい灰色に寄っている。
ベランダの床も手すりも、昨日のうちに乾いている。土と葉の湿った匂いだけが、夕方の空気に薄く残る。
夕食は母とふたりで食べた。
銀鮭の塩焼きと、昨日の残りのほうれん草の和え物。母は明日の日勤に備えて、今夜も21時前には寝室に入る。母が寝るのを待って、食器を洗い、机の前に戻った。
伏せて置いた『邪悪の家』を、手のひらで一度撫でる。
その感触の上に、昨夜の彼女の横顔が勝手に立ち上がってくる。
* * *
21時すぎ、ベランダに出た。
薄雲の隙間に、満月から数日進んだ月が、はっきりした輪郭で出ている。風はやわらかく、新緑とハーブの匂いがいつもの細さで仕切り板の縁を流れる。雨上がりの土の匂いは、夕方のうちにもう薄れていた。
仕切り板の向こうの灯りは点いている。
手すりに肘をついて数分待つと、カーテンが揺れて彼女が出てきた。左手にマグカップ、右手は手すりの上。今夜は髪をおろしている。昨夜の首のうしろでまとめた形ではなく、肩まで自然に流れる、いつもの形に戻っていた。
「こんばんは」
「こんばんは」
「今夜は、おろしてるんだね」
「髪ですか」
「うん」
「気づきました?」
「気づいた」
「昨夜、まとめてたから」
「ちょっと違って見えた」
「そうですか」
彼女の「そうですか」は、いつもの最初の数分より少し柔らかい。
髪に気づかれて、悪い気はしていないらしかった。
* * *
会話は、いつもの日曜の夜のテンポで進む。
土日の小さなこと。コロッケの揚げ油。母の連勤のこと。彼女からは、軽音部の次の曲決めが、琴音さんとの長電話で一週遅れに決まった話。
「結局、決まった?」
「はい、ジャズの古いスタンダードを1曲、英語のオリジナルを1曲」
「いい組み合わせ」
「琴音さんが、ジャズのほうを推して」
「らしいな」
「相川くんは、ジャズ、聴きます?」
「うちの母が」
「あ」
「夜の台所で、ラジオで」
「いいですね、それ」
「いい」
「いつか、聴いてみたいです」
「そのうち」
彼女の「いつか」は、梅雨入りの夜に紫陽花の小道の話をしたときと、同じ「いつか」だった。
* * *
会話がいつものテンポに収まった頃、視線がまた仕切り板の向こうへ伸びる。
今夜は左肩ではなく、頬の線と口の端だ。彼女が「英語のオリジナル」と言ったとき、口の端がほんの少し持ち上がった。嬉しいときの、いつもの動きだ。それを、ふだんより長く目で追ってしまう。
追っているあいだ、目をいつもの位置へ戻す気にならない。
* * *
「相川くん」
彼女は短く切り出した。
「うん」
「なに、見てますか」
「あ」
「いま、こっち」
「ああ」
一拍、答えに詰まる。
口の中に浮かんだのは、「夜風の影」というひと言だった。風の影なんか見ていない。彼女の口の端を追っていた、とは言えない。言えないかわりに、嘘のほうが先に口から出た。
「夜風の影」
俺は短く言った。
「夜風の」
「うん」
「影」
「うん」
「見えるんですね、そんなものが」
「今夜の風の中で、たまたま」
「そうなんですか」
「うん」
彼女の「そうなんですか」は、いつもより少し慎重だ。
「夜風の影」なんて、ふだんの俺は言わない。
* * *
ふたりのあいだに、小さな沈黙が降りる。
夜風が一筋、仕切り板の縁を抜ける。新緑とハーブの匂いが、いつもの日曜より少し濃い。
「相川くん」
彼女がもう一度、静かに切り出す。
「うん」
「何か、ありました?」
「……ない」
短く返す。
口に出すと、その「ない」は自分でも嘘くさく聞こえた。本当に、ないわけではない。ただ、あるともないとも、いまの言葉では仕切り板の向こうへ渡せない。渡せないまま、「ない」だけが先に出た。
「そうですか」
彼女は短く受ける。
「ああ」
「ならよし」
「うん」
彼女の「ならよし」のあとに、夜風がもう一筋抜ける。
「ない」で止めた俺を、彼女はそれ以上つつかなかった。
* * *
「そろそろ」
彼女は静かに切り出した。
「うん」
「今夜は、これくらいで」
「これくらいで」
「明日も」
「出る」
「わたしも」
「じゃあ、また」
「また」
短い挨拶のあと、ふたりはそれぞれの部屋に戻った。
今夜のベランダは、いつもの日曜より短かった。彼女が早めに切り上げたのか、こちらが言葉に詰まったぶん縮んだのかは、分からない。
* * *
自室に戻って、机の前に座った。
「夜風の影」なんて、よく口から出たものだ。我ながらひどい嘘だが、彼女はそれ以上つつかなかった。たぶん、嘘だと分かったうえで。
* * *
ベッドに入って電気を消した。
暗がりのなかで、彼女の頬の線と、持ち上がった口の端が、まだ残っている。なぜそれを、いつもより長く目で追ったのか。
俺はいま、彼女の横顔を見ていた。
それをどう呼ぶべきかは、まだ分からなかった。




