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夜のとなりはベランダ1枚分  作者: Studio Yodaca
仕切り板の向こう

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35/42

横顔を見ていた

 5月25日の日曜。昨日の晴れ間が、そのまま薄い雲へ広がった朝だった。

 雨は今日のうちは戻らないらしい。母は連勤三日目の支度をしながら、台所で味噌汁の鍋の蓋を一度開けて、また閉めた。昨日は早めに寝たぶん、今朝の顔色はいつもの月曜くらいまで戻っている。


 午後、宗太(そうた)から体育の選択の確認メッセージが来る。

 バスケと卓球とソフトから二つ選ぶ、5月最終週のやつだ。俺と宗太(そうた)は毎学期、片方を揃える暗黙の約束で動いている。今学期もバスケと卓球で揃えることに、短いやりとりで決まった。


 * * *


 夕方、空はもう一段だけ明るい灰色に寄っている。

 ベランダの床も手すりも、昨日のうちに乾いている。土と葉の湿った匂いだけが、夕方の空気に薄く残る。


 夕食は母とふたりで食べた。

 銀鮭の塩焼きと、昨日の残りのほうれん草の和え物。母は明日の日勤に備えて、今夜も21時前には寝室に入る。母が寝るのを待って、食器を洗い、机の前に戻った。


 伏せて置いた『邪悪の家』を、手のひらで一度撫でる。

 その感触の上に、昨夜の彼女の横顔が勝手に立ち上がってくる。


 * * *


 21時すぎ、ベランダに出た。

 薄雲の隙間に、満月から数日進んだ月が、はっきりした輪郭で出ている。風はやわらかく、新緑とハーブの匂いがいつもの細さで仕切り板の縁を流れる。雨上がりの土の匂いは、夕方のうちにもう薄れていた。


 仕切り板の向こうの灯りは点いている。

 手すりに肘をついて数分待つと、カーテンが揺れて彼女が出てきた。左手にマグカップ、右手は手すりの上。今夜は髪をおろしている。昨夜の首のうしろでまとめた形ではなく、肩まで自然に流れる、いつもの形に戻っていた。


「こんばんは」

「こんばんは」


「今夜は、おろしてるんだね」

「髪ですか」

「うん」

「気づきました?」

「気づいた」

「昨夜、まとめてたから」

「ちょっと違って見えた」

「そうですか」


 彼女の「そうですか」は、いつもの最初の数分より少し柔らかい。

 髪に気づかれて、悪い気はしていないらしかった。


 * * *


 会話は、いつもの日曜の夜のテンポで進む。

 土日の小さなこと。コロッケの揚げ油。母の連勤のこと。彼女からは、軽音部の次の曲決めが、琴音(ことね)さんとの長電話で一週遅れに決まった話。


「結局、決まった?」

「はい、ジャズの古いスタンダードを1曲、英語のオリジナルを1曲」

「いい組み合わせ」

琴音(ことね)さんが、ジャズのほうを推して」

「らしいな」

相川(あいかわ)くんは、ジャズ、聴きます?」

「うちの母が」

「あ」

「夜の台所で、ラジオで」

「いいですね、それ」

「いい」

「いつか、聴いてみたいです」

「そのうち」


 彼女の「いつか」は、梅雨入りの夜に紫陽花の小道の話をしたときと、同じ「いつか」だった。


 * * *


 会話がいつものテンポに収まった頃、視線がまた仕切り板の向こうへ伸びる。

 今夜は左肩ではなく、頬の線と口の端だ。彼女が「英語のオリジナル」と言ったとき、口の端がほんの少し持ち上がった。嬉しいときの、いつもの動きだ。それを、ふだんより長く目で追ってしまう。


 追っているあいだ、目をいつもの位置へ戻す気にならない。


 * * *


相川(あいかわ)くん」

 彼女は短く切り出した。

「うん」

「なに、見てますか」

「あ」

「いま、こっち」

「ああ」


 一拍、答えに詰まる。

 口の中に浮かんだのは、「夜風の影」というひと言だった。風の影なんか見ていない。彼女の口の端を追っていた、とは言えない。言えないかわりに、嘘のほうが先に口から出た。


「夜風の影」

 俺は短く言った。

「夜風の」

「うん」

「影」

「うん」

「見えるんですね、そんなものが」

「今夜の風の中で、たまたま」

「そうなんですか」

「うん」


 彼女の「そうなんですか」は、いつもより少し慎重だ。

 「夜風の影」なんて、ふだんの俺は言わない。


 * * *


 ふたりのあいだに、小さな沈黙が降りる。

 夜風が一筋、仕切り板の縁を抜ける。新緑とハーブの匂いが、いつもの日曜より少し濃い。


相川(あいかわ)くん」

 彼女がもう一度、静かに切り出す。

「うん」

「何か、ありました?」

「……ない」


 短く返す。

 口に出すと、その「ない」は自分でも嘘くさく聞こえた。本当に、ないわけではない。ただ、あるともないとも、いまの言葉では仕切り板の向こうへ渡せない。渡せないまま、「ない」だけが先に出た。


「そうですか」

 彼女は短く受ける。

「ああ」

「ならよし」

「うん」


 彼女の「ならよし」のあとに、夜風がもう一筋抜ける。

 「ない」で止めた俺を、彼女はそれ以上つつかなかった。


 * * *


「そろそろ」

 彼女は静かに切り出した。

「うん」

「今夜は、これくらいで」

「これくらいで」

「明日も」

「出る」

「わたしも」

「じゃあ、また」

「また」


 短い挨拶のあと、ふたりはそれぞれの部屋に戻った。

 今夜のベランダは、いつもの日曜より短かった。彼女が早めに切り上げたのか、こちらが言葉に詰まったぶん縮んだのかは、分からない。


 * * *


 自室に戻って、机の前に座った。

 「夜風の影」なんて、よく口から出たものだ。我ながらひどい嘘だが、彼女はそれ以上つつかなかった。たぶん、嘘だと分かったうえで。


 * * *


 ベッドに入って電気を消した。

 暗がりのなかで、彼女の頬の線と、持ち上がった口の端が、まだ残っている。なぜそれを、いつもより長く目で追ったのか。


 俺はいま、彼女の横顔を見ていた。

 それをどう呼ぶべきかは、まだ分からなかった。


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