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夜のとなりはベランダ1枚分  作者: Studio Yodaca
仕切り板の向こう

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34/42

梅雨の中休み

 5月24日の土曜。朝、窓の向こうから雨の音が消えている。

 テレビの気象予報士が「短い梅雨の中休みです」と告げる。母は連勤二日目の支度をしながら、台所の窓から空を見上げた。雲は薄い灰色のままだが、降る気配はない。


 午前は机の前で、借りた『邪悪の家』の残りを少し読み進めた。

 ついでに、ここ二夜のメッセージを開いて眺める。雨で会えないぶんを、文字でずいぶん埋めた二夜だった。4月のあの夜の三文字より、画面の並びはたしかに長い。長くなったぶんが、思ったより静かに残っている。


 * * *


 昼過ぎには、ベランダの床の水跡が乾いている。

 手すりの水滴も飛んで、金属が少し白っぽい。アクリルの縦の筋も、薄い跡だけになっている。午後は中庭のほうから、二日ぶりに小学生たちの声が聞こえた。雨に閉じこめられていた子どもが、公園へ出たらしい。


 夕食は母とふたりで食べた。

 土曜は早めに上がれる日勤で、母は19時前に帰っている。駅前で買ったコロッケと千切りキャベツに、味噌汁とほうれん草の和え物。揚げ油の匂いが、雨の2日を一気に遠くへ押しやった。


「雨、止んでよかったね」

「うん」

「明日も、もちそう」

「そうらしい」

「来週からまた降るって」

「梅雨だしな」

「梅雨らしくなってきたわ」


 母の声に、連勤二日目の疲れが薄くのっている。

 聞き慣れた疲れだ。その声の前では、俺も自然といつもの食卓の調子に戻る。


 * * *


 20時半、カーテンを細く開けてベランダを見る。

 雲は薄く広がっているが、雨の気配はもう消えている。手すりには昼の名残の薄い湿りだけ。仕切り板の向こうの灯りは、今夜もいつもの位置に点いている。


 台所から白い綿のタオルを一枚持ってきた。

 湿りは一拭きで消える程度だが、肘をつく前に拭いておく。サッシを開けて出ると、サンダルの裏が乾いたコンクリートを踏んだ。二夜ぶんの濡れた飛沫を覚えている足に、その硬さが妙に確かだ。自分の側の端から仕切り板まで横に滑らせ、もう一度繰り返して、絞って、隅のフックにかける。


 仕切り板の向こうから、サンダルが床に出てくる音がする。

 俺の足音より少し軽い。挨拶より先に、その音のほうが届く。


「こんばんは」

「こんばんは」


 彼女の挨拶は、いつもの土曜の最初の数分と変わらない。

 ただ今夜は、声のまわりに雨の音がない。一昨日は雨音と層になっていた声が、今夜はまっすぐ届く。


 * * *


相川(あいかわ)くん」

「うん」

「手すり、拭きました?」

「拭いた」

「わたしも、いま、拭いてきたところで」

「そうか」

「乾きが、思ったより早くて」

「うん」

「タオル、白い綿の」

「うちも白い」

「ですね」


 最初の数往復は、いつもの夜とほぼ同じテンポで進む。

 ただ、ひと言とひと言の間が、ふだんより少し長い。その間に、一昨日の壁ぎわと、昨日の画面の吹き出しが、薄く挟まっている。


「昨日の夜は」

 彼女が短く切り出した。

「うん」

「メッセージで」

「ああ」

「いつもより、たくさん打ちました」

「そうだな」

「打ちすぎ、じゃなかったですか」

「ちょうどよかった」

「ならよし」


 彼女の「ならよし」のあとに、夜風が一筋、仕切り板の縁を抜けた。

 いつもの新緑とハーブの匂いに、雨上がりの土と葉の湿りが薄く混じっている。


 * * *


 今夜の彼女は、手すりに肘をついたまま、口数が少ない。

 ふだんの土曜は平日よりよく喋る。今夜の控えめさは、こちらと似ていた。二夜分の間合いが、まだ戻りきっていない。


 俺もそれに合わせて、いつもの話題をひとつだけ短く出す。

「『邪悪の家』」

「はい」

「来週には返す」

「はい」

「あと、ふた章くらい」

「ゆっくりで、いいです」

「うん」


 短いやりとりのあと、沈黙がきた。

 いつもの夜の沈黙より、今夜のそれは少し長い。手すりの金属が、肘の下でまだ少しひんやりしている。


 * * *


 沈黙のあいだに、視線が仕切り板の向こうへ向かった。

 アクリル越しに、彼女の左肩と、頬の陰が見える。今夜は首のうしろで髪をひとつにまとめていて、首から肩までのラインが細い。前にも同じ板越しに見ていたはずなのに、今夜はその線から目が離れにくい。


 彼女は、こちらを見ていない。

 肘をついたまま、空へ顔を半分向けている。薄い雲の切れ目に星がいくつか覗いていた。何を見ているのかは、横からでは分からない。


「星」

 俺は短く言った。

「あ」

「見えてた?」

「ひとつ、二つ、見えます」

「中休みの夜は、星もよく出る」

「らしいですね」

「いい夜だ」

「いい夜です」


 彼女の「いい夜です」のあとに、夜風がもう一筋抜けた。

 土と葉の湿った匂いが、最初の挨拶のときよりさらに薄れて、いつもの新緑に近い。


 * * *


「そろそろ、戻りますか」

 彼女が短く切り出した。

「うん」

「今夜は、これくらいで」

「これくらいで」

相川(あいかわ)くん」

「うん」

「明日の夜は」

「出られそう」

「予報、少しもつみたいです」

「だな」

「明日も、出ますか」

「出る」

「わたしも」

「じゃあ、また」

「また」


 短い挨拶のあと、ふたりはそれぞれの部屋に戻った。

 今夜のベランダは、いつもの土曜の半分くらいだった。続きは、明日でいい。


 * * *


 自室に戻って、机の前に座った。

 タオルはフックにかけたまま、明日の朝に取り込めばいい。白い綿なら、朝までに乾いている。


 * * *


 ベッドに入って電気を消した。

 雨の音はもう聞こえない。代わりに、濡れた路面を走る遠いタイヤの音が、いつもより静かに届く。


 瞼の裏に、さっきの横顔が残っている。左肩、頬の陰、まとめた髪の細いライン。

 二夜ぶりに見た横顔は、前よりずっと具体的だった。明かりを消してしばらく経つのに、その線が、まだ消えない。


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