梅雨の中休み
5月24日の土曜。朝、窓の向こうから雨の音が消えている。
テレビの気象予報士が「短い梅雨の中休みです」と告げる。母は連勤二日目の支度をしながら、台所の窓から空を見上げた。雲は薄い灰色のままだが、降る気配はない。
午前は机の前で、借りた『邪悪の家』の残りを少し読み進めた。
ついでに、ここ二夜のメッセージを開いて眺める。雨で会えないぶんを、文字でずいぶん埋めた二夜だった。4月のあの夜の三文字より、画面の並びはたしかに長い。長くなったぶんが、思ったより静かに残っている。
* * *
昼過ぎには、ベランダの床の水跡が乾いている。
手すりの水滴も飛んで、金属が少し白っぽい。アクリルの縦の筋も、薄い跡だけになっている。午後は中庭のほうから、二日ぶりに小学生たちの声が聞こえた。雨に閉じこめられていた子どもが、公園へ出たらしい。
夕食は母とふたりで食べた。
土曜は早めに上がれる日勤で、母は19時前に帰っている。駅前で買ったコロッケと千切りキャベツに、味噌汁とほうれん草の和え物。揚げ油の匂いが、雨の2日を一気に遠くへ押しやった。
「雨、止んでよかったね」
「うん」
「明日も、もちそう」
「そうらしい」
「来週からまた降るって」
「梅雨だしな」
「梅雨らしくなってきたわ」
母の声に、連勤二日目の疲れが薄くのっている。
聞き慣れた疲れだ。その声の前では、俺も自然といつもの食卓の調子に戻る。
* * *
20時半、カーテンを細く開けてベランダを見る。
雲は薄く広がっているが、雨の気配はもう消えている。手すりには昼の名残の薄い湿りだけ。仕切り板の向こうの灯りは、今夜もいつもの位置に点いている。
台所から白い綿のタオルを一枚持ってきた。
湿りは一拭きで消える程度だが、肘をつく前に拭いておく。サッシを開けて出ると、サンダルの裏が乾いたコンクリートを踏んだ。二夜ぶんの濡れた飛沫を覚えている足に、その硬さが妙に確かだ。自分の側の端から仕切り板まで横に滑らせ、もう一度繰り返して、絞って、隅のフックにかける。
仕切り板の向こうから、サンダルが床に出てくる音がする。
俺の足音より少し軽い。挨拶より先に、その音のほうが届く。
「こんばんは」
「こんばんは」
彼女の挨拶は、いつもの土曜の最初の数分と変わらない。
ただ今夜は、声のまわりに雨の音がない。一昨日は雨音と層になっていた声が、今夜はまっすぐ届く。
* * *
「相川くん」
「うん」
「手すり、拭きました?」
「拭いた」
「わたしも、いま、拭いてきたところで」
「そうか」
「乾きが、思ったより早くて」
「うん」
「タオル、白い綿の」
「うちも白い」
「ですね」
最初の数往復は、いつもの夜とほぼ同じテンポで進む。
ただ、ひと言とひと言の間が、ふだんより少し長い。その間に、一昨日の壁ぎわと、昨日の画面の吹き出しが、薄く挟まっている。
「昨日の夜は」
彼女が短く切り出した。
「うん」
「メッセージで」
「ああ」
「いつもより、たくさん打ちました」
「そうだな」
「打ちすぎ、じゃなかったですか」
「ちょうどよかった」
「ならよし」
彼女の「ならよし」のあとに、夜風が一筋、仕切り板の縁を抜けた。
いつもの新緑とハーブの匂いに、雨上がりの土と葉の湿りが薄く混じっている。
* * *
今夜の彼女は、手すりに肘をついたまま、口数が少ない。
ふだんの土曜は平日よりよく喋る。今夜の控えめさは、こちらと似ていた。二夜分の間合いが、まだ戻りきっていない。
俺もそれに合わせて、いつもの話題をひとつだけ短く出す。
「『邪悪の家』」
「はい」
「来週には返す」
「はい」
「あと、ふた章くらい」
「ゆっくりで、いいです」
「うん」
短いやりとりのあと、沈黙がきた。
いつもの夜の沈黙より、今夜のそれは少し長い。手すりの金属が、肘の下でまだ少しひんやりしている。
* * *
沈黙のあいだに、視線が仕切り板の向こうへ向かった。
アクリル越しに、彼女の左肩と、頬の陰が見える。今夜は首のうしろで髪をひとつにまとめていて、首から肩までのラインが細い。前にも同じ板越しに見ていたはずなのに、今夜はその線から目が離れにくい。
彼女は、こちらを見ていない。
肘をついたまま、空へ顔を半分向けている。薄い雲の切れ目に星がいくつか覗いていた。何を見ているのかは、横からでは分からない。
「星」
俺は短く言った。
「あ」
「見えてた?」
「ひとつ、二つ、見えます」
「中休みの夜は、星もよく出る」
「らしいですね」
「いい夜だ」
「いい夜です」
彼女の「いい夜です」のあとに、夜風がもう一筋抜けた。
土と葉の湿った匂いが、最初の挨拶のときよりさらに薄れて、いつもの新緑に近い。
* * *
「そろそろ、戻りますか」
彼女が短く切り出した。
「うん」
「今夜は、これくらいで」
「これくらいで」
「相川くん」
「うん」
「明日の夜は」
「出られそう」
「予報、少しもつみたいです」
「だな」
「明日も、出ますか」
「出る」
「わたしも」
「じゃあ、また」
「また」
短い挨拶のあと、ふたりはそれぞれの部屋に戻った。
今夜のベランダは、いつもの土曜の半分くらいだった。続きは、明日でいい。
* * *
自室に戻って、机の前に座った。
タオルはフックにかけたまま、明日の朝に取り込めばいい。白い綿なら、朝までに乾いている。
* * *
ベッドに入って電気を消した。
雨の音はもう聞こえない。代わりに、濡れた路面を走る遠いタイヤの音が、いつもより静かに届く。
瞼の裏に、さっきの横顔が残っている。左肩、頬の陰、まとめた髪の細いライン。
二夜ぶりに見た横顔は、前よりずっと具体的だった。明かりを消してしばらく経つのに、その線が、まだ消えない。




