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夜のとなりはベランダ1枚分  作者: Studio Yodaca
仕切り板の向こう

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33/40

雨が続く夜はメッセージで

 5月23日の金曜。空は昨日より一段沈んでいる。

 ベランダの床に、夜のうちの雨水が細い筋を残している。手すりの金属には水滴が等間隔にぶら下がり、新しい雨粒を受け止めはじめていた。テレビの気象予報士が、今日明日は雨脚がさらに強まる見込みです、と穏やかに言う。天気図の青と緑が、昨日より濃く塗られている。


 駅前の坂で、傘の内側に飛沫が入ってくる。

 校門を抜ける頃にはジーンズの裾が膝まで濡れて、窓際の席に座っても袖口の湿りが引かない。昼休みは購買へ行く気にもならず、宗太(そうた)と教室で弁当を広げる。


「梅雨入り、2日目だな」

「ああ」

「明日も明後日もこのままらしい」

「予報、見てた」

「お前、昨日の夜どうしてた」

「家にいた」

「珍しいな」

「珍しくはない」

「雨の日も外を歩いてる印象があるけど」

「印象だけだろ」

「印象だけだ」


 宗太(そうた)は唐揚げをひとつつまんで、口に運んでから短く笑った。

 昨夜あかりと壁ぎわで話したことは、今日も言っていない。言わなくても、宗太(そうた)との昼は昨日と同じ速さで流れていく。


 * * *


 帰りの坂の下で、雨はほとんど豪雨に変わった。

 コンビニの軒下に少し避難して、弱まった隙を狙ってマンションまで走る。駐輪場に着くと、折り畳み傘の半分は仕事をしていなかった。シャツもジーンズも、肩から膝まで濡れている。


 着替えて、机の前で長く息をついた。

 窓の外の雨は、思っていたより強い。仕切り板の向こうの灯りは、夕方の早いうちから点いている。彼女も今日は早く帰ったらしい。それ以上のことは、こちらからは見えない。


 母は今夜も日勤で、帰りは22時を回る。

 いつもなら帰宅を待たずに出ればいい音量だが、今夜は出る前提そのものがない。夕食のあと、明日提出のレポートの構成をノートに並べた。雨は強くも弱くもならないまま夜に入る。


 20時半すぎ、カーテンを細く開けてベランダを見た。

 手すりを流れる水は、昨夜の倍に増えている。アクリルを伝う縦の筋も本数が増え、庇の縁から落ちる飛沫が昨夜より内側へ跳ねていた。壁ぎわに寄っても、今夜はあれが肩まで届く。出ない、と決めるのは早かった。


 * * *


 机のうえのスマホを手に取った。

 メッセージアプリを開くと、登録名『月島(つきしま)』の画面の最後は、昨夜壁ぎわから戻ったあとの『おやすみなさい』『おやすみ』で止まっていた。その二行の下に、半日ぶんの空白がある。短く打って送った。


『今夜は、出られそうにない』


 既読は、すぐつく。

 返信は、ひと呼吸遅れて画面に上がってくる。

『はい』

『出られないです』

相川(あいかわ)くんも、ですか』

『俺もだ』

『庇の下も、無理だ』

『はい、無理そう』


 彼女のメッセージのあとに、俺は短く返した。

『昨夜のは、ぎりぎりだった』

『ですね』

『今夜やったら、たぶんびしょ濡れだ』

『びしょ濡れの相川(あいかわ)くん、想像できないです』

『想像しないでくれ』

『はい』

相川(あいかわ)くん、傘は、駅前のあたりで』

『負けた』

『わたしも、坂のあたりで、似たような状況でした』

『無事に帰れて、なにより』

『なにより、です』


 画面の中の彼女は、いつものベランダの最初の数分とそう変わらない。

 文字に夜風の音は乗らない。それでも読んでいると、昨夜壁ぎわで聞いた声が勝手に重なる。


 * * *


 しばらく間があってから、次のメッセージが上がってくる。

相川(あいかわ)くん』

『うん』

『前にも、こういう夜が、ありましたね』

『あった』

『4月の、土曜の夜』

『19日』

『日付、覚えてるんですね』

『覚えてる』

『わたしも、覚えてます』


 画面の上で、指がいったん止まった。

 4月19日の夜の『寂しい』『知ってる』を、まだ消さずに置いている。覚えてる、と打って初めて、自分でもそれに気づいた。


 メッセージは、ふた呼吸ぶんあけて続く。

『あの夜、わたし』

『うん』

『「寂しい」って』

『送ったな』

『送りました』

『俺は、「知ってる」って返した』

『はい』

『あれが、精一杯だった』

『充分でした』

『充分だったか』

『充分すぎて、いまでも、思い出します』


 その吹き出しが、画面に残る。

 雨の部屋で、机の灯りの下、彼女がこれを打っている。そこまでは想像がつく。打ったあとどんな顔をしているかは、画面のこちらからは分からない。もう一度、ゆっくり読み直した。


 * * *


 俺は短く返した。

『今夜は、寂しいって、書かなくていいか』

『書かなくて、いいです』

『そうか』

『今夜は、寂しいって、お互いに分かってるから』

『分かってる』

『書くのは、また必要になったときで』

『そういう運用にしよう』

『運用』

『そのほうが、長持ちする』

『運用』

『「寂しい」ってこの前も言いましたね、相川(あいかわ)くん』

『言ったな』

『二度目だと少し、ちがって聞こえます』

『どう違う』

『一度目より、軽いです』

『軽い』

『軽くて、楽です』

『そういうものか』

『そういうものです』


 『「寂しい」って、この前も言いましたね』。その一行だけ、少し大きな吹き出しになる。

 同じ言葉が前より軽く届くのは、こちらも同じだった。


 * * *


 雨の音は、窓の向こうで一定のリズムを刻んでいる。

 吹き出しが上がってくるのは、ベランダで声を交わすときより少しゆっくりだった。


『今夜は、これくらいで』

『うん』

『また明日』

『出られなかったら、また』

『はい、また、こうやって』

『分かった』

相川(あいかわ)くん』

『うん』

『おやすみなさい』

『おやすみ』


 最後の2行は、4月19日の夜とほぼ同じ文面だった。

 同じ文字なのに、画面を消すのが少し惜しい。


 * * *


 スマホを机に伏せて、椅子の背に身体を預けた。

 机の右端には、借りた『邪悪の家』が置いたままになっている。栞はもう抜いて引き出しに移したが、本のほうはまだ返していない。雨の音をしばらく聞いた。


 * * *


 ベッドに入って電気を消した。

 雨は天井の暗がりの向こうで、まだ同じリズムを刻んでいる。予報では、明日の夜も似たような降り方らしい。たぶん明日もベランダには出られない。出られなければ、また吹き出しの中で『おやすみ』を言い合う。


 文字なら、今夜みたいに繋がれる。それは4月の雨の夜より、ずっと心強い。

 心強いのに、声で話せる夜が、いっそう惜しくなる。会えない夜が続くと、会える夜のほうばかり、近く思えてくるのはどうしてだろう。答えは出ないまま、雨の音を聞いていた。


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