梅雨入り
5月13日の「ずっと」から9日が過ぎる。
そのあいだの夜は、本の話と植物の話を順に並べていく、いつも通りの夜だ。庭の紫陽花の蕾が膨らんだと彼女が報告する。宗太に頼まれてクリスティの新訳を藤棚の下で受け取る。あの夜の最後の数分のことには、どちらも触れなかった。触れたい気もしたが、触れなかった。
* * *
5月22日の木曜、朝のテレビが関東の梅雨入りを告げている。
ひじきと焼き鮭の向こうで、天気図のうえを青と緑のグラデーションが動く。平年より少し早い梅雨入りの可能性が高い、と気象予報士が落ち着いた声で言う。母が「傘、持っていきなさい」と短く言って、俺はカバンに折り畳み傘を入れた。玄関の長い傘ではなく折り畳みを選んだことを、自転車置き場までの数歩で半分だけ後悔する。
昼休みには、もう降っていた。
2限が終わる頃に遠くの空が灰色に沈み、3限の途中で「降り出した」と窓際の女子の声が上がった。藤棚の下には出られない。宗太と廊下の窓辺で購買のパンを立ち食いした。宗太は「梅雨入りだな」とだけ言って、天気の話をそれ以上伸ばさなかった。校庭に薄い水たまりがいくつか光りはじめていた。
* * *
帰りの坂で、雨が一度だけ強くなった。
折り畳み傘では肩までは守れない。駐輪場に着いた頃には、シャツの肩と袖、ジーンズの裾がはっきり湿っていた。傘を畳んでエレベーターで5階へ上がる。共用廊下を歩くあいだ、軒を伝う水の音と、窓の外で降る雨そのものの音が、別々のリズムで耳に届いた。
部屋に入ってすぐシャツを着替えた。
タオルで髪を拭いて、机の前で息をつく。窓の向こうの雨は、坂で強くなった勢いをそのまま続けていた。ベランダの床は、昼前の乾いた色から濃い灰色に沈んでいる。いつもの夜なら、その色のうえに俺の素足が乗るはずだった。今夜は乗らない。靴下を濡らしたくないなら、乗せられない。
母の作り置きの春巻にほうれん草を添えて、ごはんと味噌汁を温め直した。
今日も日勤で、帰りは22時を回る。雨の音をBGMにひとりで食べて、食器を洗ってから、明日の小テストの範囲に薄く目を通した。文字が頭に入りきらない。集中の問題ではない。ベランダに出るのか出ないのか、その判断が机の前でまだ片付いていない。
* * *
20時半すぎ、雨は弱まらなかった。
カーテンを少し開けて、窓ガラスごしにベランダを見る。床に細い水流が斜めに走り、手すりの金属のうえに水滴が一定の間隔で並んでいた。仕切り板のアクリルには、上から落ちる雨の筋が何本も縦に引かれている。その向こうの灯りは、点いている。
点いているなら、彼女も部屋にいる。
いつもの夜なら、それはベランダに出るかどうかと同じ意味だった。今夜は同じにならない。雨の夜は、出ないのが普通だ。先月の雨の夜を思い出した。連絡先を交換した直後で、俺たちはスマホの画面で「寂しい」「知ってる」とだけ送り合った。今夜も同じやり方はできる。
できるが、少しだけ違うことを試したかった。
あの夜のあとで、何度かカーテンの隙間からベランダを覗いて、上の階の床が庇のように頭上を覆っているのを確かめたことがあった。手すりまで出れば濡れる。けれど壁ぎわに背を寄せれば、雨はほとんど当たらないはずだった。
* * *
20時45分、部屋着のうえに薄手のパーカーを羽織った。
靴下は脱いで、玄関のスリッパではなく室内用の布のサンダルをつっかけた。床の冷たさと水滴の何粒かは足に来る。それでも靴下を濡らすよりはましだ。カーテンを開けて、引き戸を少しだけ開く。雨の音が、ガラス越しの音から生の音に変わった。
ベランダに出て、壁ぎわに身体を寄せた。
頭上のコンクリートの縁が、思ったより内側まで張り出している。背を完全に壁につけると、足先のあたりを除いて、雨の落ちる線の内側に入った。サンダルの先は、思ったより濡れた。戻って何か履くほどでもないので、そのままにした。脛に当たる夜風は、5月とは思えないほど澄んで冷たい。
仕切り板の向こうの気配が、ガラス越しのときよりはっきり音で分かった。
アクリルに当たる雨粒の音とは別に、向こうのサッシが細く開いた。布のサンダルが床を動く音、それが壁ぎわで止まる音。彼女も同じことを思いついたらしい。
「相川くん」
「いる」
「いま、出てきました」
「壁の側?」
「壁の側です」
「庇の下にいる」
「はい、こちらも」
彼女の声は、雨のなかでも、いつもの夜の最初の挨拶と同じ調子で届く。
アクリルを伝う水滴、庇の縁から落ちる水、遠くの坂の雨音。声の周りでいくつもの音が層になって、そのぶん彼女の声がいつもより近くに聞こえる。
「濡れてないですか」
「肩は平気」
「足は」
「サンダル、ちょっと」
「ですよね」
「月島さんのほうは」
「同じくらい」
「ならよし」
「ならよし、ですか」
「うつった」
彼女が小さく笑ったあとで、雨脚がほんの一段だけ緩んだ。
緩んだ拍子に、雨の匂いが鼻の高さまで上がってくる。アスファルトが水を浴びた匂い、葉のうえで弾けた青い匂い、昼の熱を冷まされた土の匂い。三つが混ざって、ひとつの梅雨入りの匂いになっている。
* * *
「雨の匂い」
俺は短く口にする。
「うん」
「いつもより、濃い」
「梅雨入りの最初の夜が、いちばん濃いって」
「そうなのか」
「土の匂いと、葉の匂いと」
「アスファルトと」
「三つで、梅雨の匂い」
「分けて聞ける?」
「聞ける、と思います」
嗅ぐではなく、聞けると彼女は言う。
匂いを聞く。どこかで聞いた言い方だ。彼女がそれを雨の壁ぎわでするりと選んだのが、少し意外で、少しいい。どこでその言い方を覚えたのかは、訊かなかった。
「いい匂いだ」
俺は短く言う。
「はい」
「梅雨、嫌いじゃない」
「わたしも、です」
「意外」
「意外ですか」
「もうちょっと、苦手そうな顔をするのかと」
「顔、見えないんですけどね」
「だな」
彼女の小さな笑い声が、雨音の隙間に乗って届く。
短い笑いが、そのまま雨の匂いのなかに溶けていった。
* * *
「前の街でも」
彼女が短く切り出した。
「うん」
「梅雨は、好きでした」
「そうなのか」
「公園に紫陽花の小道があって」
「うん」
「家の窓から、傘の色がたくさん見えて」
「いいな」
「青い傘と、白い傘と、子どもの黄色の傘」
「色がはっきりする」
「雨の日だけ、色が」
前の街、と彼女が言った。
連休の終わりに初めてその言葉が出たときは、失った関係の話で、声は短く翳った。今夜は紫陽花と傘の話で、声がほどけている。雨のせいなのか、紫陽花のせいなのか、こちらからは分からなかった。
「こっちの椿ヶ丘でも」
俺は短く返す。
「はい」
「紫陽花、ある?」
「神社の裏に、群生があるって」
「行ったこと、ある?」
「まだないです」
「俺もない」
「梅雨の中休みに、いつか」
「そうだな」
いつ行こう、とは言わなかった。
約束のかたちにするには、紫陽花の話はまだ少し早い。「いつか」という曖昧さのなかにふたりで立っているくらいが、今夜の壁ぎわにはちょうどよかった。
* * *
「雨、強くなってきた」
俺は仕切り板の向こうへ短く言う。
「はい」
「そろそろ、戻りますか」
「戻ります」
「うん」
「相川くん」
「うん」
「今夜は、これくらいで」
「これくらいで」
「明日、晴れたら」
「いつものとこで」
「はい」
彼女の「はい」のあとに、雨脚が強い側へ戻った。
庇の下の隙間にも、横から細い飛沫が混じりはじめる。一歩前に出ようとして、その前に向こうのサンダルが動く音がする。彼女が先に戻るのだ。引き戸が静かに閉まって、向こうの灯りがカーテン越しの形に切り替わった。
俺も壁ぎわでひと呼吸ぶん間を置いてから、自分のサッシへ歩いた。
サンダルの裏が床の水流を走る。サッシを閉めてカーテンを引くと、雨の音がまた生からガラス越しに戻った。室内の空気は、ベランダで嗅いだ雨の匂いを半分忘れた、いつもの自室の空気だった。
* * *
机の前に座って、さっきの彼女の声と雨音の重なりを、もう一度なぞった。
今夜の会話は、いつもの夜の半分にも満たなかった。本も、書き込みのページも、小さなスピーカーも、今夜は出さなかった。雨の匂いと紫陽花の話を二つ置いただけで、雨脚に追われて部屋へ戻った。それでも、壁ぎわで聞いた彼女の声は、まだ耳に残っている。
* * *
ベッドに入って電気を消した。
雨は窓の向こうで一定のリズムを刻んでいる。強すぎず弱すぎず、明日の朝まで続きそうだ。明日の夜のベランダがどうなるかは、明日の夕方の空次第だ。
庇の下でしか話せない夜もある。それが、少しだけ残念だった。




