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夜のとなりはベランダ1枚分  作者: Studio Yodaca
夜と呼ばない夜

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31/41

明日もここで

 5月12日の月曜は、平日のリズムにきれいに戻っている。

 目覚ましのひと鳴りで布団から抜けて、ひじきと味噌汁の朝食を済ませる。学校では1限から6限までが順番に流れて、昼休みは中庭の藤棚の下で宗太(そうた)と弁当を食べた。藤の花は先週より房の数が増えている。来週あたりで盛りは終わりだろう、と宗太(そうた)がペットボトルのキャップを開けながら言った。藤の花はてんぷらにすると食えるらしいぞ、と宗太(そうた)は誰に聞いたのかも分からない話を続けて、俺は食えるわけがないだろうと思いながら聞き流した。


 夜、彼女の側のカーテンは20時前から閉まっていた。

 仕切り板の向こうの灯りは点いている。部屋にはいるらしい。軽音部のミーティングか、琴音(ことね)さんからの長電話か、今夜は部屋のなかに時間を取られているのだろう。俺はベランダに10分ほど出て、月を見てから自室に戻った。


 連絡先は交換している。「今夜は出ない?」と送ることもできた。

 できたが、送らなかった。夜のベランダの上では、そういう確認はしない。カーテンが閉まっている夜は、閉まったままにしておく。


 * * *


 5月13日の火曜には、書き留めることが何もない。

 窓ガラスの軋む音も、牧田(まきた)先生の現代文の声も、宗太(そうた)の昼休みの軽口も、いつも通り。放課後、宗太(そうた)はバスケ部へ。俺は駐輪場で自転車を出して帰る。坂のとちゅうのハナミズキの葉が、先週の同じ場所より一段濃い。5月の半ばに向かう、植物の側のいつもの速さだ。


 家に戻って、夕食はひとりで済ませる。

 母はまた平日の日勤に戻っている。今日は遅番で、帰りは22時を回る。冷蔵庫の中段の、ぶり大根とほうれん草の胡麻和え。温めたごはんと味噌汁を足して、食卓に並べた。


 食器を洗ってから、机の前に座る。

 右端に、書き込みを終えた『邪悪の家』が置いてある。明日か明後日の夜、彼女に返すことになる。ラベンダーの栞は、最後の数ページ手前にそのまま挟まっていた。


 借りていたあいだの二週間ぶんの重さが、文庫一冊の厚みに収まっている。

 手のひらに乗せると、思っていたよりずっしりしていた。中身の活字の重さではない。彼女の鉛筆のひと言と、俺の鉛筆の返事と、ページのあいだの押し花が、一冊のなかに少しずつ溜まったぶんだ。一鉢のラベンダーから始まった四月の終わりが、いつのまにかこの厚みになっていた。


 * * *


 21時すぎ、ベランダに出る。

 満月のひと晩前の月が、薄雲を抜けて出ている。風はやわらかい。新緑とハーブの匂いが、いつも通りの細さで仕切り板の縁から流れてくる。


 向こうの灯りは点いている。

 肘をついて待つこと数分、カーテンが揺れて彼女が出てきた。左手にマグカップ、右手は手すりに置いたまま空いている。


「こんばんは」

「こんばんは」


相川(あいかわ)くん」

「うん」

「昨日は」

「うん」

「カーテン、閉めてしまっていて」

「いや」

「気を遣わせて、しまったかと」

「気にしてない」

「ありがとうございます」


「長電話?」

琴音(ことね)さんと、次のスタジオの曲決めで」

「決まった?」

「決まりそうです」


 昨日のカーテンの確認は、ちょうどいい長さで終わる。

 終わったあと、夜風がひと筋、仕切り板の縁を抜けていく。


 * * *


「『邪悪の家』」

 俺は短く言った。

「はい」

「明日か、明後日に返す」

「ありがとうございます」

「書き込み、足してしまった」

「あ」

「読みにくくなってないと、いいけど」

「ぜんぶ、読み返したいです」

「全部?」

「はい、全部」


「日曜の音楽」

 俺は話題を変えた。

「はい」

「あれから、ふと思い出すことが、何度かあった」

「わたしも」

「3曲目」

「あ」

「『この曲、好きだな』の」

「うん」

「思い出すたびに、自分のあの語尾を」

「気にしてる?」

「気になっちゃって」

「いい語尾だった」

「ほんとうに、ですか」

「ほんと」

「……ありがとうございます」


 その「ありがとうございます」は、いつもの硬さが半分ほどけて聞こえる。


 * * *


月島(つきしま)さん」

「はい」

「ふと思ったんだけど」

「うん」

「この二週間」

「はい」

「ラベンダーの苗から始まって」

「はい」

「本の話と、貸し借りと、書き込みと、音楽」

「並べると」

「多い」

「多いですね」

「思ったより、多い」

「思ったより、多いです。わたし、数えてみたんです、こっそり」


 彼女が何を数えたのかは、こちらからは見えない。

 見えないまま、「数えてみた」のひと言だけが、仕切り板の上に残った。


「全部、ベランダの上だった」

 俺は短く言った。

「はい」

「学校でも、街でもなく」

「ここでだけ」

「うん」

「不思議です」

「不思議だ」

「不思議で、いい」

「いい」


 * * *


「明日も」

 俺は短く言った。

「はい」

「ここで」

「はい」

「いつも通りに」

「はい」

「いつも通りでいい」

「いつも通りで、いいです」


「明日もここで」

 彼女が短く返した。

「うん」

「明日も、明後日も」

「うん」

「来週も」

「来週も」


 「来週も」を、彼女は少し慎重に口にした。来週、という言葉が、仕切り板の上にしばらく残った。


「来週も」

 俺も短く返す。

「はい」

「ずっと」

「ずっと……長すぎますか」

「長すぎない」

「ですよね」

「ずっと、でいい」

「はい」


 彼女の「はい」のあとで、夜風がふた筋まとめて仕切り板の縁を抜けた。

 風のなかの新緑とハーブの匂いは、今夜の最初の挨拶のときより、少し濃い。


 * * *


「じゃあ、そろそろ」

「うん」

「明日も、出ますか」

「出る」

「わたしも」

「じゃあ、また」

「また」


 短い挨拶のあと、ふたりはそれぞれの部屋に戻った。

 カーテンが閉まり、灯りはどちらも点いたまま残る。


 * * *


 自室に戻って、机の前に座った。

 今夜の「明日もここで」「来週も」「ずっと」が、頭のなかでまだ鳴っている。座っているだけなのに、鼓動がいつもより速い。


 「ここ」というのは、マンションの5階の、隣り合った2部屋のベランダの仕切り板の前のことだ。

 そのはずなのに、彼女が立っていない仕切り板の前は、ただの手すりの隅に戻る。向こうに彼女がいて初めて、こちらの手すりの前は「ここ」になる。


 ここが、俺の夜の場所になった。

 浮かんだ文を、いつもなら半歩遅れて打ち消す。深く関われば、いつか失う。今夜はその手が動かなかった。「ずっと、でいい」と返したときの、自分の声が、まだ耳の奥に残っている。


 声の温度も、文字のひと言も、横顔も、外れた語尾も、押し花の栞も。

 並べかけた手を、途中で止めた。


 * * *


 ベッドに入って電気を消した。

 天井の暗さのなかで、「明日もここで」「来週も」「ずっと」を、もう一度並べる。並べ終えても、目がなかなか閉じない。


 明日の夜も、21時すぎにベランダに出て、仕切り板の向こうの灯りを確かめる。

 それだけのことが、今夜から少し違う意味になる。違って見えるその意味に、まだ名前はつけていない。つけないままにしておくのも、たぶんこの夜の作法のひとつだった。


 ここが、俺の夜の場所になったのかもしれない。

 その「ここ」が、場所のことなのか、それとも――そこから先は、まだ言葉にしないでおいた。


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