明日もここで
5月12日の月曜は、平日のリズムにきれいに戻っている。
目覚ましのひと鳴りで布団から抜けて、ひじきと味噌汁の朝食を済ませる。学校では1限から6限までが順番に流れて、昼休みは中庭の藤棚の下で宗太と弁当を食べた。藤の花は先週より房の数が増えている。来週あたりで盛りは終わりだろう、と宗太がペットボトルのキャップを開けながら言った。藤の花はてんぷらにすると食えるらしいぞ、と宗太は誰に聞いたのかも分からない話を続けて、俺は食えるわけがないだろうと思いながら聞き流した。
夜、彼女の側のカーテンは20時前から閉まっていた。
仕切り板の向こうの灯りは点いている。部屋にはいるらしい。軽音部のミーティングか、琴音さんからの長電話か、今夜は部屋のなかに時間を取られているのだろう。俺はベランダに10分ほど出て、月を見てから自室に戻った。
連絡先は交換している。「今夜は出ない?」と送ることもできた。
できたが、送らなかった。夜のベランダの上では、そういう確認はしない。カーテンが閉まっている夜は、閉まったままにしておく。
* * *
5月13日の火曜には、書き留めることが何もない。
窓ガラスの軋む音も、牧田先生の現代文の声も、宗太の昼休みの軽口も、いつも通り。放課後、宗太はバスケ部へ。俺は駐輪場で自転車を出して帰る。坂のとちゅうのハナミズキの葉が、先週の同じ場所より一段濃い。5月の半ばに向かう、植物の側のいつもの速さだ。
家に戻って、夕食はひとりで済ませる。
母はまた平日の日勤に戻っている。今日は遅番で、帰りは22時を回る。冷蔵庫の中段の、ぶり大根とほうれん草の胡麻和え。温めたごはんと味噌汁を足して、食卓に並べた。
食器を洗ってから、机の前に座る。
右端に、書き込みを終えた『邪悪の家』が置いてある。明日か明後日の夜、彼女に返すことになる。ラベンダーの栞は、最後の数ページ手前にそのまま挟まっていた。
借りていたあいだの二週間ぶんの重さが、文庫一冊の厚みに収まっている。
手のひらに乗せると、思っていたよりずっしりしていた。中身の活字の重さではない。彼女の鉛筆のひと言と、俺の鉛筆の返事と、ページのあいだの押し花が、一冊のなかに少しずつ溜まったぶんだ。一鉢のラベンダーから始まった四月の終わりが、いつのまにかこの厚みになっていた。
* * *
21時すぎ、ベランダに出る。
満月のひと晩前の月が、薄雲を抜けて出ている。風はやわらかい。新緑とハーブの匂いが、いつも通りの細さで仕切り板の縁から流れてくる。
向こうの灯りは点いている。
肘をついて待つこと数分、カーテンが揺れて彼女が出てきた。左手にマグカップ、右手は手すりに置いたまま空いている。
「こんばんは」
「こんばんは」
「相川くん」
「うん」
「昨日は」
「うん」
「カーテン、閉めてしまっていて」
「いや」
「気を遣わせて、しまったかと」
「気にしてない」
「ありがとうございます」
「長電話?」
「琴音さんと、次のスタジオの曲決めで」
「決まった?」
「決まりそうです」
昨日のカーテンの確認は、ちょうどいい長さで終わる。
終わったあと、夜風がひと筋、仕切り板の縁を抜けていく。
* * *
「『邪悪の家』」
俺は短く言った。
「はい」
「明日か、明後日に返す」
「ありがとうございます」
「書き込み、足してしまった」
「あ」
「読みにくくなってないと、いいけど」
「ぜんぶ、読み返したいです」
「全部?」
「はい、全部」
「日曜の音楽」
俺は話題を変えた。
「はい」
「あれから、ふと思い出すことが、何度かあった」
「わたしも」
「3曲目」
「あ」
「『この曲、好きだな』の」
「うん」
「思い出すたびに、自分のあの語尾を」
「気にしてる?」
「気になっちゃって」
「いい語尾だった」
「ほんとうに、ですか」
「ほんと」
「……ありがとうございます」
その「ありがとうございます」は、いつもの硬さが半分ほどけて聞こえる。
* * *
「月島さん」
「はい」
「ふと思ったんだけど」
「うん」
「この二週間」
「はい」
「ラベンダーの苗から始まって」
「はい」
「本の話と、貸し借りと、書き込みと、音楽」
「並べると」
「多い」
「多いですね」
「思ったより、多い」
「思ったより、多いです。わたし、数えてみたんです、こっそり」
彼女が何を数えたのかは、こちらからは見えない。
見えないまま、「数えてみた」のひと言だけが、仕切り板の上に残った。
「全部、ベランダの上だった」
俺は短く言った。
「はい」
「学校でも、街でもなく」
「ここでだけ」
「うん」
「不思議です」
「不思議だ」
「不思議で、いい」
「いい」
* * *
「明日も」
俺は短く言った。
「はい」
「ここで」
「はい」
「いつも通りに」
「はい」
「いつも通りでいい」
「いつも通りで、いいです」
「明日もここで」
彼女が短く返した。
「うん」
「明日も、明後日も」
「うん」
「来週も」
「来週も」
「来週も」を、彼女は少し慎重に口にした。来週、という言葉が、仕切り板の上にしばらく残った。
「来週も」
俺も短く返す。
「はい」
「ずっと」
「ずっと……長すぎますか」
「長すぎない」
「ですよね」
「ずっと、でいい」
「はい」
彼女の「はい」のあとで、夜風がふた筋まとめて仕切り板の縁を抜けた。
風のなかの新緑とハーブの匂いは、今夜の最初の挨拶のときより、少し濃い。
* * *
「じゃあ、そろそろ」
「うん」
「明日も、出ますか」
「出る」
「わたしも」
「じゃあ、また」
「また」
短い挨拶のあと、ふたりはそれぞれの部屋に戻った。
カーテンが閉まり、灯りはどちらも点いたまま残る。
* * *
自室に戻って、机の前に座った。
今夜の「明日もここで」「来週も」「ずっと」が、頭のなかでまだ鳴っている。座っているだけなのに、鼓動がいつもより速い。
「ここ」というのは、マンションの5階の、隣り合った2部屋のベランダの仕切り板の前のことだ。
そのはずなのに、彼女が立っていない仕切り板の前は、ただの手すりの隅に戻る。向こうに彼女がいて初めて、こちらの手すりの前は「ここ」になる。
ここが、俺の夜の場所になった。
浮かんだ文を、いつもなら半歩遅れて打ち消す。深く関われば、いつか失う。今夜はその手が動かなかった。「ずっと、でいい」と返したときの、自分の声が、まだ耳の奥に残っている。
声の温度も、文字のひと言も、横顔も、外れた語尾も、押し花の栞も。
並べかけた手を、途中で止めた。
* * *
ベッドに入って電気を消した。
天井の暗さのなかで、「明日もここで」「来週も」「ずっと」を、もう一度並べる。並べ終えても、目がなかなか閉じない。
明日の夜も、21時すぎにベランダに出て、仕切り板の向こうの灯りを確かめる。
それだけのことが、今夜から少し違う意味になる。違って見えるその意味に、まだ名前はつけていない。つけないままにしておくのも、たぶんこの夜の作法のひとつだった。
ここが、俺の夜の場所になったのかもしれない。
その「ここ」が、場所のことなのか、それとも――そこから先は、まだ言葉にしないでおいた。




