並んで聴く音楽
5月11日、日曜。母は連勤明けの休みだ。
夜勤明けの土曜の朝に帰り、土曜の夜にひと眠りして、日曜の午前にスーパーで一週間分の買い物。母の休日の動き方は、長年のルーチンでほぼ固まっている。そのルーチンに、俺の生活はあまり食い込まない。長いあいだに、互いの時間を踏まない距離が決まっていた。
俺は午前中、机の前で『邪悪の家』の続きを読んだ。
昨日のうちに半分まで進めていた後ろ半分を、午前の早いうちに一気に読み切る。彼女の鉛筆の書き込みは、後半のほうがやや多い。終盤で伏線が繋がっていく場面の脇に、「ここ繋がってる」「これ最初のあれ」と短い記号が並んでいる。
11時前に最後のページを読み終えて、本を伏せる。
ラベンダーの栞は、最後の数ページ手前にそのまま挟まっている。彼女が読み終えた位置だ。わざと残したのか、ただ忘れただけなのかは分からない。どちらでもよかった。
* * *
午後、俺は『邪悪の家』に書き込みを始めた。
彼女に倣って、鉛筆の薄い線で本文の脇にひと言ふた言を置いていく。最初の数ヶ所は何を書くか迷ったが、書きはじめると、自分が読みながら立ち止まった場所が自然と思い出せる。
書き込みのなかには、彼女の書き込みへの返事もあった。
「ここの設定が好き」の脇には「俺も」を。「分かる」の連打のシーンには「同じ崖を見たことがある気がする」を。「?」の隣には、こちらの解釈を一行だけ添える。
貸し主と借り主の書き込みが、同じページの脇に並んでいく。
古い文庫を一人で読んでいたころには、こんなふうにページの上で誰かと言葉を交わすことはなかった。それを、近いうちに返すこの本のうえに、夜のベランダの会話の続きみたいに淡々と作っている。
* * *
午後の終わりに本を伏せて、夕食は母とふたりで食べた。
母はテレビをつけず、台所の小さなラジオの音楽番組を流したまま食卓につく。連勤明けの母が選ぶのは、いつも古いジャズの流れる局だ。映像の情報より、音だけのほうが疲れた身体には軽い、というのが母の長年の理屈らしい。
「相川くん」
「うん、じゃない、ええと」
「は?」
「いや」
「呼ばれた気がした」
「呼んでない」
「気のせいか」
母は短く首を傾げて、ラジオのほうへ視線を戻す。
ジャズのフレーズの隙間から、仕切り板の向こうの「相川くん」が幻みたいに浮かんできて、つい返事をしかけた。意識の半分が、もう今夜のベランダのほうへ流れている。それを自分でも軽く笑って、味噌汁に戻す。
* * *
食器を洗い終えた頃、母は寝室に向かった。
日曜の夜の母は、明日からのシフトに合わせて早めに寝室へ入る。今夜は20時半すぎには電気を消していた。母が寝てしまうと、家は平日の夜の終わりと同じ静けさに沈んだ。
21時すぎ、ベランダに出た。
満月のひとつ手前くらいに丸く欠けた月が、薄雲のあいだから見えている。夜の空気に、新緑の匂いが少し濃く混じっていた。裏手の住宅街のケヤキとハナミズキが、今週のあいだに一気に葉を増やしたらしい。
向こうの灯りは点いている。
肘をついて数分待つと、カーテンが揺れて彼女が出てきた。左手にマグカップ、右手に手のひらサイズの黒い箱。Bluetoothの小さなスピーカーらしい。
「こんばんは」
「こんばんは」
「相川くん」
「うん」
「『邪悪の家』、読みました?」
「読み終わった」
「もう」
「うん」
「速い」
「半分は昨日のうちに、後ろ半分は今日の午前中に」
「うれしい、です」
彼女の「うれしい、です」のあとで、夜風がひと筋、仕切り板の縁を抜けた。
新緑の匂いとハーブの匂いが、いつもより少し濃く、混ざって届く。
「あの」
「うん」
「今夜は、相川くん」
「うん」
「ひとつ、お願いしてもいいですか」
「お願い」
「音楽を、一緒に聴いてくれませんか」
彼女は右手の黒い箱を、手すりの仕切り板に近いほうへそっと置いた。
上面の小さなランプが、薄明かりのなかで淡い緑に点いている。もうスマホとつないであるらしい。
「いいよ」
「ほんとに?」
「うん」
「うるさくない、ですか」
「夜の家の窓は閉まってる」
「音量は、控えめに」
「お願いします」
* * *
彼女がスマホの画面を一度操作した。
スピーカーから、最初の音が小さく流れはじめる。
ゆっくりしたギターのアルペジオ。ひと弾きの余韻が、次の弾きの直前まできれいに残る。やがて女声のハミングが短く入って、少し間を置いて、かすれた声のバースが始まる。歌詞は英語だった。
彼女からは、何の説明もない。
ふたりは手すりに肘をついた姿勢のまま、流れてくる音だけを聴いている。今夜のこの数分は、言葉が要らなかった。
1曲目は4分くらいで終わった。
短い無音のあと、2曲目が始まる。今度はピアノの単音から入る、もう少しゆっくりした曲。古い録音らしく、音にわずかな雑音が混じっていて、それがかえってあたたかい。
* * *
2曲目の途中で、夜風が一段強く吹いた。
仕切り板の縁から、新緑とハーブの匂いがひと巻きまとめて流れてくる。その匂いの上に、ピアノの低音の余韻が乗る。匂いと音がいっぺんに身体に入ってきて、すぐには言葉にならないまま、胸のあたりに留まった。
夜風と音楽の隙間から、彼女の呼吸がときどきこちらに届く。
いつもより、ひと呼吸ぶんゆっくりだ。
2曲目が終わって、3曲目が始まる。
軽快なギターと、女声のデュエット。高いほうの声が、低いほうの声に細く長く巻きついていく。聴いていると、なぜか喉の奥がくすぐったかった。
* * *
3曲目の最後のフレーズが終わったところで、彼女から小さな声が漏れた。
「この曲、好きだな」
「だな」を、彼女の口から聞くのは初めてだった。
俺は手すりのうえで、肘の位置を少しだけ動かす。
「うん」
「あ」
「いいよ」
「ごめんなさい、つい」
「いい」
「いつもの言い方じゃ、なくて」
「そのほうが、いい」
「……はい」
彼女の「はい」は、いつもの硬さに半分だけ戻っている。
照れているのか、ただ仕切り直しただけなのか、こちらからは分からない。
* * *
4曲目と5曲目も、ふたりは同じ姿勢で聴き続ける。
4曲目はギターのソロ、5曲目はピアノとチェロ。どの曲も急がず、聴く側の呼吸を待ってくれるような並びだ。
4曲目のギターには、ときどき、弦を指で滑らせるかすれた音が混じる。
その細いかすれが、彼女のプランターのハーブの葉の擦れる音と、どこか似ている。
5曲目のピアノとチェロは、チェロの低い余韻が長く伸びて、曲の真ん中の空気を支える。
仕切り板のこちらと向こうから、ふたつの音がゆっくり交わった。
5曲目が終わって、彼女がスマホを操作してスピーカーを止めた。
あとには、夜風と新緑とハーブの匂いだけが残る。
「ありがとう」
彼女が静かに言った。
「いや、こちらこそ」
「お願いごとを、聞いてくれて」
「いつでも」
「いつでも」
「うん」
「これからもいつでもお願いします」
「これからも」のところで、彼女の声が、ほんの少しだけ前に出た気がした。
「じゃあ、そろそろ」
「うん」
「明日は、月曜」
「学校」
「気をつけて」
「お互い」
「じゃあ、また」
「また」
* * *
短い挨拶のあと、ふたりはそれぞれの部屋に戻る。
カーテンが閉まり、灯りはどちらも点いたまま残った。
自室に戻って、机の前に座る。
今夜の5曲のメロディが、頭の浅いところでまだ鳴っている。曲名はひとつも聞かなかった。それでも、5曲分の音の感触は、ちゃんと身体に残った。
ベッドに入って電気を消す。
天井の暗さのなかで、3曲目の「この曲、好きだな」を、もう一度思い出す。あの「だな」だけが、メロディよりはっきり残っている。
同じ音楽を仕切り板越しに、同じ音量で聴いた。
それだけなのに、特別だった。




