彼女の書き込み
5月10日、土曜。母は連勤三日目の夜勤明けで、8時すぎに帰ってきた。
玄関の鍵の音と、スニーカーを脱ぐ動作の重さは、いつもの夜勤明けと変わらない。シャワーを浴びて、母は午前中のうちに寝室で眠った。母が寝ているあいだの土曜の家は、平日の昼より一段静かだ。
俺はリビングの食卓で、ひとり分の朝食を済ませる。
昨夜のひじきの残りと、温め直した味噌汁とごはん。制服ではなくスウェットで食卓につくと、同じ品数でも身体の構えが少しゆるむ。それが俺の土曜の朝だ。
* * *
食器を洗ってから、机の前に座る。
右端には、昨夜のベランダで彼女から渡された『邪悪の家』が置いてある。表紙には、長く読み込まれた手の痕がいくつか残っていた。右下の隅が、ページを開きやすくするためか、わずかに折り癖になっている。
ページの中ほどに親指を入れて、ラベンダーの栞のところを開いた。
押し花の薄紫は、昼の光のなかでは昨夜の薄明かりより、はっきり見える。栞を脇に置いて、本を最初のページに戻す。土曜の昼の部屋で、はじめから順に読みはじめる。
* * *
最初の鉛筆の線に気づいたのは、3ページ目だった。
本文の右側、二行分くらいの長さで、ページの端に縦の線が薄く引かれている。何度か消して引き直したような、整えられた細さだ。
線のとなりの余白に、小さな字でひと言。
ここの設定が好き。
ひと言だけだった。
彼女の字を見るのは初めてだ。丸みの取り方と縦線のまっすぐさのつり合いが、仕切り板越しに聞いてきた声とどこか似ている。
* * *
その先も、ページを進めるたびに鉛筆の書き込みが現れた。
短いひと言。長くてふた言。「クリスティ上手」「ここの台詞いい」「?」「これ伏線」。10ページに1回くらいの間隔で、本文の流れを邪魔しない置き方だった。
いちばん多いのは、「分かる」「私も」だった。
主人公の女性が崖の上の屋敷の客人を観察するシーンの脇には、「分かる」が三つと「私も」が二つ並んでいる。観察しながら自分の見方を疑う独白の脇には、「私もよくこれをやる」と少し長めにひと言。彼女のいちばん長い書き込みでも、余白に収まる短さしかない。
「?」は、登場人物が曖昧な動機を口にする箇所に多い。答えを書かずに「?」だけ置いて、先へ進んでいる。
彼女の書き込みを目で追いながら、本文を読み進めていく。
書き込みのある脇に来ると、自然と読む速さが落ちて、一行ずつに目を留める時間が長くなった。ひとつのページのうえで、彼女の読み方と俺の読み方が同時に進んでいく。
* * *
午後3時すぎ、本のちょうど真ん中まで読んだ。
栞を挟みなおして、本を机に伏せる。表紙を手のひらでひと撫でしてから、椅子の背もたれに身体を預ける。
頭のなかで、彼女の鉛筆のひと言が、いくつか順番に並んだ。
「ここの設定が好き」「ここの台詞いい」「?」「分かる」「私も」。どれも、夜のベランダで聞いてきた彼女の声と、同じ調子をしている。
* * *
夕方、5時前に母が起きてきた。
寝室から出てくる足音が、いつもより少しゆっくりだ。連勤三日目の夜勤明けの重さが、足取りに残っている。
「ご飯、何にする」
「鶏」
「うん」
「ちょっと、早めに」
「うん」
今夜は明けの非番で、早めに食べて夜のうちに眠っておくつもりらしい。
俺は台所に立って、鶏と新じゃがの煮物を温め直す。母の作り置きは、土曜の夕方でも味のかどがちゃんと丸い。
母とふたりで夕食を済ませて、食器を洗った。
母は夜の8時すぎには寝室に戻る。連勤明けの疲れを抜くための、土曜の早寝だ。母が寝てしまうと、家は平日の夜と同じ静けさに沈んでいく。
* * *
21時すぎ、ベランダに出た。
半月よりさらに太い月が、薄雲のあいだからはっきりした輪郭で浮かんでいる。風はやわらかい。ハーブの匂いが、いつも通りの細さで仕切り板の縁から流れてくる。
向こうの灯りは点いている。
肘をついて数分待つと、カーテンが揺れて彼女が出てきた。左手にマグカップ、右手は手すりに置いたまま空いている。今夜は文庫を持っていない。貸した『りら荘事件』は、まだ読みはじめのあたりなのだろう。
「こんばんは」
「こんばんは」
「相川くん」
「うん」
「読みました?」
「半分」
「あ、もう」
「うん」
「速い、ですね」
「いや」
「あの」
「うん」
「鉛筆、消し忘れがあって」
「読みにくくはなかった?」
「いや」
「ほんと?」
「ほんと」
「読みにくく、なかったですか」
彼女がもう一度、確かめる言い方で聞き直した。
「ない」
「ほんとうに」
「読みにくいどころか」
「どころか?」
「面白い」
「……」
「書き込みも、本文と一緒に読めて」
「楽しい?」
「楽しい」
「特に」
「はい」
「『分かる』の連打のところ」
「あ」
「主人公が、崖の上の屋敷の客人を観察するシーンの脇」
「すみません、三つ並べました」
「三つでも足りないくらい良かった」
「相川くんも、そう感じましたか」
「俺も観察癖があるたちで」
「ああ」
「三つの『分かる』が、ちょうど効いてた」
仕切り板の向こうから、小さな笑いの気配が漏れた。いつもの夜より、ほどけた笑い方をしている。
俺はマグカップを持つ手の位置を、少しだけずらす。
* * *
「鉛筆、邪魔になるかと思って」
「全然」
「いつも、消そうかどうか迷うんです」
「貸すたびに?」
「はい」
「でも、消したら、読み返したときに自分の覚えが消える」
「そう」
「だから、結局、消さないで貸す」
「そのほうが、いい」
「……はい」
「結局、消さないで貸す」は、たぶん誰かに本を貸してきたなかで、彼女がたどり着いた結論だ。
誰に貸したのかは聞かなかった。琴音さんあたりかもしれない。聞かないでおく、というのを、今夜は宗太のやり方の真似で選んだ。
「俺も」
俺は短く言った。
「はい」
「読み終わったら」
「うん」
「書き込みして」
「え」
「返す」
「……いいんですか」
「いい」
「うれしい、です」
「読みにくいかもしれない」
「読みにくくないと、思います」
「根拠は」
「根拠は、ないですけど」
彼女の「根拠は、ないですけど」のあとで、夜風がひと筋、仕切り板の縁を抜けた。
風のなかのラベンダーの匂いは、いつも通りの細さだ。今夜は文庫を出していないから、ページの押し花の匂いは混じらず、プランターの匂いだけが届いた。
* * *
「じゃあ、そろそろ」
「うん」
「明日も」
「出る」
「わたしも」
「じゃあ、また」
「また」
短い挨拶のあと、ふたりはそれぞれの部屋に戻る。
カーテンが閉まり、灯りはどちらも点いたまま残った。
* * *
自室に戻って、机の前に座る。
右端の『邪悪の家』を、もう一度手のひらに乗せた。栞のところを開いて、半分から先のページに、あと何ヶ所書き込みがあるかを目で追う。少なくとも数ヶ所はある。残りのひと言たちが、これからのページでまた俺の読みをゆっくりにするのだろう。
ベッドに入って電気を消す。
天井の暗さのなかで、彼女の鉛筆のひと言を、もう一度頭に並べた。「ここの設定が好き」「ここの台詞いい」「?」「分かる」「私も」。どれも、仕切り板越しに聞いてきた声と同じ調子で、頭のなかに置かれていく。
ベランダの夜には彼女の声があり、自室の本のページには彼女の文字がある。
今夜は、そのどちらからも同じ調子で話しかけられた一日だった。
彼女の書き込みは、彼女の声のようだった。
これは少しずるい、と思った。暗さのなかで、もう一度ページをめくりたくなって、やめた。




