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夜のとなりはベランダ1枚分  作者: Studio Yodaca
夜と呼ばない夜

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29/41

彼女の書き込み

 5月10日、土曜。母は連勤三日目の夜勤明けで、8時すぎに帰ってきた。

 玄関の鍵の音と、スニーカーを脱ぐ動作の重さは、いつもの夜勤明けと変わらない。シャワーを浴びて、母は午前中のうちに寝室で眠った。母が寝ているあいだの土曜の家は、平日の昼より一段静かだ。


 俺はリビングの食卓で、ひとり分の朝食を済ませる。

 昨夜のひじきの残りと、温め直した味噌汁とごはん。制服ではなくスウェットで食卓につくと、同じ品数でも身体の構えが少しゆるむ。それが俺の土曜の朝だ。


 * * *


 食器を洗ってから、机の前に座る。

 右端には、昨夜のベランダで彼女から渡された『邪悪の家』が置いてある。表紙には、長く読み込まれた手の痕がいくつか残っていた。右下の隅が、ページを開きやすくするためか、わずかに折り癖になっている。


 ページの中ほどに親指を入れて、ラベンダーの栞のところを開いた。

 押し花の薄紫は、昼の光のなかでは昨夜の薄明かりより、はっきり見える。栞を脇に置いて、本を最初のページに戻す。土曜の昼の部屋で、はじめから順に読みはじめる。


 * * *


 最初の鉛筆の線に気づいたのは、3ページ目だった。

 本文の右側、二行分くらいの長さで、ページの端に縦の線が薄く引かれている。何度か消して引き直したような、整えられた細さだ。


 線のとなりの余白に、小さな字でひと言。


 ここの設定が好き。


 ひと言だけだった。

 彼女の字を見るのは初めてだ。丸みの取り方と縦線のまっすぐさのつり合いが、仕切り板越しに聞いてきた声とどこか似ている。


 * * *


 その先も、ページを進めるたびに鉛筆の書き込みが現れた。

 短いひと言。長くてふた言。「クリスティ上手」「ここの台詞いい」「?」「これ伏線」。10ページに1回くらいの間隔で、本文の流れを邪魔しない置き方だった。


 いちばん多いのは、「分かる」「私も」だった。

 主人公の女性が崖の上の屋敷の客人を観察するシーンの脇には、「分かる」が三つと「私も」が二つ並んでいる。観察しながら自分の見方を疑う独白の脇には、「私もよくこれをやる」と少し長めにひと言。彼女のいちばん長い書き込みでも、余白に収まる短さしかない。


 「?」は、登場人物が曖昧な動機を口にする箇所に多い。答えを書かずに「?」だけ置いて、先へ進んでいる。


 彼女の書き込みを目で追いながら、本文を読み進めていく。

 書き込みのある脇に来ると、自然と読む速さが落ちて、一行ずつに目を留める時間が長くなった。ひとつのページのうえで、彼女の読み方と俺の読み方が同時に進んでいく。


 * * *


 午後3時すぎ、本のちょうど真ん中まで読んだ。

 栞を挟みなおして、本を机に伏せる。表紙を手のひらでひと撫でしてから、椅子の背もたれに身体を預ける。


 頭のなかで、彼女の鉛筆のひと言が、いくつか順番に並んだ。

 「ここの設定が好き」「ここの台詞いい」「?」「分かる」「私も」。どれも、夜のベランダで聞いてきた彼女の声と、同じ調子をしている。


 * * *


 夕方、5時前に母が起きてきた。

 寝室から出てくる足音が、いつもより少しゆっくりだ。連勤三日目の夜勤明けの重さが、足取りに残っている。


「ご飯、何にする」

「鶏」

「うん」

「ちょっと、早めに」

「うん」


 今夜は明けの非番で、早めに食べて夜のうちに眠っておくつもりらしい。

 俺は台所に立って、鶏と新じゃがの煮物を温め直す。母の作り置きは、土曜の夕方でも味のかどがちゃんと丸い。


 母とふたりで夕食を済ませて、食器を洗った。

 母は夜の8時すぎには寝室に戻る。連勤明けの疲れを抜くための、土曜の早寝だ。母が寝てしまうと、家は平日の夜と同じ静けさに沈んでいく。


 * * *


 21時すぎ、ベランダに出た。

 半月よりさらに太い月が、薄雲のあいだからはっきりした輪郭で浮かんでいる。風はやわらかい。ハーブの匂いが、いつも通りの細さで仕切り板の縁から流れてくる。


 向こうの灯りは点いている。

 肘をついて数分待つと、カーテンが揺れて彼女が出てきた。左手にマグカップ、右手は手すりに置いたまま空いている。今夜は文庫を持っていない。貸した『りら荘事件』は、まだ読みはじめのあたりなのだろう。


「こんばんは」

「こんばんは」


相川(あいかわ)くん」

「うん」

「読みました?」

「半分」

「あ、もう」

「うん」

「速い、ですね」

「いや」


「あの」

「うん」

「鉛筆、消し忘れがあって」

「読みにくくはなかった?」

「いや」

「ほんと?」

「ほんと」


「読みにくく、なかったですか」

 彼女がもう一度、確かめる言い方で聞き直した。

「ない」

「ほんとうに」

「読みにくいどころか」

「どころか?」

「面白い」

「……」

「書き込みも、本文と一緒に読めて」

「楽しい?」

「楽しい」


「特に」

「はい」

「『分かる』の連打のところ」

「あ」

「主人公が、崖の上の屋敷の客人を観察するシーンの脇」

「すみません、三つ並べました」

「三つでも足りないくらい良かった」

相川(あいかわ)くんも、そう感じましたか」

「俺も観察癖があるたちで」

「ああ」

「三つの『分かる』が、ちょうど効いてた」


 仕切り板の向こうから、小さな笑いの気配が漏れた。いつもの夜より、ほどけた笑い方をしている。

 俺はマグカップを持つ手の位置を、少しだけずらす。


 * * *


「鉛筆、邪魔になるかと思って」

「全然」

「いつも、消そうかどうか迷うんです」

「貸すたびに?」

「はい」

「でも、消したら、読み返したときに自分の覚えが消える」

「そう」

「だから、結局、消さないで貸す」

「そのほうが、いい」

「……はい」


 「結局、消さないで貸す」は、たぶん誰かに本を貸してきたなかで、彼女がたどり着いた結論だ。

 誰に貸したのかは聞かなかった。琴音(ことね)さんあたりかもしれない。聞かないでおく、というのを、今夜は宗太(そうた)のやり方の真似で選んだ。


「俺も」

 俺は短く言った。

「はい」

「読み終わったら」

「うん」

「書き込みして」

「え」

「返す」

「……いいんですか」

「いい」

「うれしい、です」

「読みにくいかもしれない」

「読みにくくないと、思います」

「根拠は」

「根拠は、ないですけど」


 彼女の「根拠は、ないですけど」のあとで、夜風がひと筋、仕切り板の縁を抜けた。

 風のなかのラベンダーの匂いは、いつも通りの細さだ。今夜は文庫を出していないから、ページの押し花の匂いは混じらず、プランターの匂いだけが届いた。


 * * *


「じゃあ、そろそろ」

「うん」

「明日も」

「出る」

「わたしも」

「じゃあ、また」

「また」


 短い挨拶のあと、ふたりはそれぞれの部屋に戻る。

 カーテンが閉まり、灯りはどちらも点いたまま残った。


 * * *


 自室に戻って、机の前に座る。

 右端の『邪悪の家』を、もう一度手のひらに乗せた。栞のところを開いて、半分から先のページに、あと何ヶ所書き込みがあるかを目で追う。少なくとも数ヶ所はある。残りのひと言たちが、これからのページでまた俺の読みをゆっくりにするのだろう。


 ベッドに入って電気を消す。

 天井の暗さのなかで、彼女の鉛筆のひと言を、もう一度頭に並べた。「ここの設定が好き」「ここの台詞いい」「?」「分かる」「私も」。どれも、仕切り板越しに聞いてきた声と同じ調子で、頭のなかに置かれていく。


 ベランダの夜には彼女の声があり、自室の本のページには彼女の文字がある。

 今夜は、そのどちらからも同じ調子で話しかけられた一日だった。


 彼女の書き込みは、彼女の声のようだった。

 これは少しずるい、と思った。暗さのなかで、もう一度ページをめくりたくなって、やめた。


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