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夜のとなりはベランダ1枚分  作者: Studio Yodaca
夜と呼ばない夜

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28/42

読んだことがあるかもしれない

 5月9日、金曜。連休明けの三日目だ。

 連休のあいだ夜更かしで後ろにずれていた寝起きも、もとに戻った。昨夜のベランダの余韻はまだ右耳の奥あたりに残っているのに、今朝は目覚ましのひと鳴りで布団から抜け出せる。


 金曜の午後の校舎は、昼休みのあたりから少しほどけはじめる。

 生徒のほうもそれを察して、5限と6限の集中力は週でいちばん低い。今日もその通り、5限の物理も6限の倫理も、ぼんやりした空気のまま過ぎていく。


 放課後、宗太(そうた)は今日もバスケ部へ向かう。

 俺は文芸部の部室には寄らず、駐輪場で自転車を出して帰った。週末の夕方の坂は、行きより少し下りやすく感じる。同じ坂のはずなのに、登校時の自分と帰宅時の自分とで、体感が違う。


 * * *


 家に戻って、夕食をひとりで済ませる。

 母は昨日から連勤の入りで、夕方には夜勤に出ている。冷蔵庫の中段に、朝のうちの作り置きのきんぴらとほうれん草の胡麻和え。レンジで温めたごはんと味噌汁を足して、食卓に並べる。母のいない夜の食卓も、連休のあいだに何度か繰り返して、もう慣れた。


 食器を洗ってから、本棚の前に立つ。

 昨夜、あかりが「楽しい、です」と言った瞬間のことを、もう一度思い出した。あの続きを今夜も作りたい。そのために、読み終わった本を一冊持って出ようと思う。


 本棚の右端から、鮎川哲也の『りら荘事件』を抜く。

 数ヶ月前に読み終えた一冊で、山小屋を舞台にした連続殺人の話だ。古いミステリのなかでも、構造の綺麗さははっきり高い。昨夜のクリスティの話のときのあかりの食いつき方からすると、たぶん好みに合う。


 カバーは、長く棚に立てていた分だけ背の上が少し色あせている。

 手のひらで表紙を一度なでて、机の右端に置いた。21時すぎ、これを左手に持って出る。


 * * *


 21時すぎ、ベランダに出た。

 薄雲のあいだに、半月よりひとつ太い月が浮かんでいる。南からの夜風はやわらかい。ハーブの匂いが、いつも通りの細さで仕切り板の縁から流れてくる。


 向こうの灯りは点いている。

 肘をついて数分待つと、カーテンが揺れて彼女が出てきた。今夜も両手がふさがっている。左手にマグカップ、右手に文庫本。カバーは昨夜の深い緑色ではなく、薄い赤茶色だ。


「こんばんは」

「こんばんは」


相川(あいかわ)くん」

「うん」

「今夜も、本」

「持ってきた」

「わたしも」


 最初の挨拶から、もう本の話に滑り込んでくる。昨夜の「明日も本を持ってくる?」の続きだ。


月島(つきしま)さん」

 俺は短く呼んだ。

「はい」

「ひとつ、提案がある」

「はい」

「今夜から、貸し借りしないか」

「貸し、借り」

「読み終わった本を、貸し借り」

「……」

「無理にじゃなくていい」

「いえ」

「いえ、ですか」

「わたしも」

「うん」

「同じこと、考えていました」


 仕切り板の両側で、同じ提案を別々にあたためていたらしい。先に口に出したのが、たまたま俺だった。


 * * *


「それじゃ」

 俺は短く言った。

「はい」

「俺は、これ」

「『りら荘事件』」

「鮎川哲也の」

「読んだことが」

「ある?」

「いえ」

「ない、ですか」

「ない、です」

「読み終わったら、感想を聞かせてくれると」

「はい」

「うれしい」

「うれしいです」


「あ」

 彼女が短く声を出した。

「ん」

「読んだことが、あるかもしれない、です」

「『りら荘事件』」

「タイトルだけ、覚えがあって」

「図書館か」

「前の街の」

「中学の」

「中学の頃の、図書室の棚で」

「借りたかどうかは」

「覚えていません」

「じゃあ、今夜から確かめる」

「はい」

「読んだことがあった、と思い出すかもしれないし」

「初めて、と気づくかもしれない」

「どっちでもいい」

「どっちでも、うれしいです」


 その声を、左手の『りら荘事件』の重さと一緒に受け取った。

 前の街の図書室の棚に、この背表紙が立っていたのかもしれない。確かめるのは、今夜からだ。


「わたしは」

「うん」

「これを、持ってきました」

「赤茶色の」

「『無実はさいなむ』とは別の」

「うん」

「クリスティの『邪悪の家』」

「ああ」

相川(あいかわ)くん、前に」

「好きな一冊」

「読み返してます?」

「最近は読み返してない」

「じゃあ」

「うん」

「もう一度、わたしので」

「読み返したい」

「はい」


 向こうで、布の擦れる短い音が返ってきた。頷いたのだと思う。

 月島(つきしま)が自分でいちばん好きだと言う本が、貸す最初の一冊になった。


 * * *


「じゃあ、どう渡しましょうか」

 彼女が短く聞いた。

「下の隙間」

「足元の」

「うん」

「あの隙間、文庫の厚さなら通ります」

「通る」

「通りますね」


 俺は手すりから一歩離れて、ベランダの床にしゃがんだ。

 仕切り板の右端の足元に、避難経路を確保するためのアクリル板の終わり目がある。終わり目と床のあいだに、文庫がちょうど通るくらいの隙間が空いている。普段の夜は、そこへ目をやることなどない。今夜、その隙間が初めてふたりの通路になった。


 向こう側でも、彼女が床のほうへしゃがんだ気配がある。

 布の擦れる音と、マグカップを床に置く陶器の音。ふたつの音は短く続いて、彼女も俺と同じくらいの速さで床の姿勢に移っている。


「じゃあ『りら荘事件』いきますね」

 俺は短く言った。

「はい」


 文庫の背を先頭にして、隙間の手前の床に置く。

 表紙を手のひらで軽く押しながら、隙間の向こうへすべらせた。文庫はアクリル板の足元を音もなく抜けて、向こうの床へ滑っていく。表紙がなめらかなおかげで、こちらの手と向こうの床が触れ合うことは一度もなかった。


「届きました」

 彼女の声が、床のあたりから短く返ってくる。

「うん」

「ありがとうございます」


 * * *


 次は彼女の番だ。

 向こうで、彼女の手がアクリル板の足元へ動く気配がある。布の擦れる音と、文庫の表紙が床に触れた音。


「じゃあ『邪悪の家』いきますね」

「うん」


 彼女の文庫が、隙間のこちら側へすべってきた。

 クリスティの古い文庫は、俺の靴の少し手前で音もなく止まる。


 手のひらでカバーを押さえて、文庫を持ち上げる。

 表紙の四隅が、長く持たれた手の形に少し丸まっている。月島(つきしま)が何度も開いた本だ。


 持ち上げた手で、ページのほうへ親指をかけた。

 半分くらいのところで、ページのあいだに小さな硬さがある。栞だった。薄い透明の樹脂のシートに、押し花のラベンダーが挟んである。細い茎と、花穂の片端。文庫を斜めに傾けると、薄紫の色が、夜のベランダの薄明かりのなかでもそれと分かる濃さで残っていた。


「ああ」

 俺は短く声を出した。

「あ」

 彼女の声が、少しあわてた響きで返ってくる。

「栞」

「入ったままです」

「ラベンダー」

「すみません、入れっぱなしで」

「あれ」

「はい」

「最初のときの」

「……はい」


 最初のとき、というのは、四月の終わりに彼女のプランターのラベンダーを一鉢分けてもらった夜のことだ。

 あの夜のあと、月島(つきしま)も自分のラベンダーを栞にしていたらしい。


「返します、ね」

 彼女が静かに言った。

 向こうで、栞を返してもらおうと手を動かしかける気配があった。その手を止める言葉は、俺のほうから先に出た。


「このまま、貸してください」

「え」

「このまま」

「いいんですか」

「いい」

「ラベンダーごと貸す」

「貸して」

「……はい」


 彼女の「はい」のあとで、夜風がひと筋、仕切り板の縁を抜けた。

 風のなかに、いつもより少し濃いラベンダーの匂いが混じっている。彼女のプランターからの匂いか、いま手のひらの文庫に挟まった押し花からの匂いか。たぶん、その両方だ。


 * * *


「読み終わったら」

「うん」

「栞、そのまま挟んだまま」

「返す」

「はい」

「『りら荘事件』は」

「読んでから」

「俺の好きな一節を」

「教えてくれると」

「うれしい」

「はい」


 ふたりはそれぞれ床から立ち上がって、もとの手すりの定位置に戻る。

 戻ったあと、ベランダの言葉の量は、夜の終わりらしい静けさに落ち着いていく。


「じゃあ、そろそろ」

「うん」

「明日は、ない」

「ない?」

「学校が」

「ああ、土曜」

「明日も、出ますか」

「出る」

「わたしも」

「じゃあ、また」

「また」


 短い挨拶のあと、ふたりはそれぞれの部屋に戻る。

 カーテンが閉まり、灯りはどちらも点いたまま残った。


 * * *


 自室に戻って、机の前に座る。

 手のひらの『邪悪の家』を、机の右端に置く。ラベンダーの押し花は、ページのあいだから茎の片端だけが、ほんの少し表に覗いている。覗いた茎の薄い緑が、白いページの縁との対比のなかで、机の照明の色をひとつ吸い込んで光って見えた。


 ベッドに入って電気を消す。

 天井の暗さのなかで、足元の隙間を通った文庫の感触を思い返す。手のひらには、滑らせた表紙のなめらかさだけが残っていた。


 こちらの机に一冊、仕切り板の向こうの机に一冊。

 同じ夜の同じ時刻、別々の本が読み手を待ちはじめている。こちらの本にだけ、ラベンダーの栞が入っている。


 指先は触れなかった。

 けれど貸した本のページには、彼女の栞が確かに入っていた。


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