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夜のとなりはベランダ1枚分  作者: Studio Yodaca
夜と呼ばない夜

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27/42

古いミステリの話

 5月8日、木曜。連休明け二日目で、身体はもう平日の朝に戻りきっている。

 目覚ましが鳴ってから布団を出るまでの間は、昨日よりずいぶん短い。眠りの遅い時刻へずれた分は、まだ夜の側に少し残っている気がする。それでも朝のほうは、もう何食わぬ顔で平日に戻っている。


 学校の一日は、木曜らしく流れていく。

 午前は現代文、英語、数学、現代社会の4コマ。どれも連休前の続きで、新しい単元の手前で足踏みしている。昼休みは中庭の藤棚の下で、宗太(そうた)と弁当を広げる。


 見上げると、紫の房が頭の少し上で何本も垂れている。

 四月のうちは固いつぼみだったのに、連休のあいだに一気に咲いたらしい。盛りは五月の最初の週から半ばあたり。俺の知らないところで進んだ自然の動きの、目に見える部分のひとつだ。


「藤、今年も間に合ったな」

 宗太(そうた)が短く言った。

「うん」

「連休中だと、もっと盛りだったらしいぞ」

「それは惜しかった」

「俺は来てない」

「俺も」


 ふたりは紫の房を見上げながら、弁当を食べ終える。

 昨日のサイゼの「好きな奴できた?」は、今日の宗太(そうた)の口にはのぼらない。聞かないのが、いつもの宗太(そうた)の精度だ。


 * * *


 昼休み、いつもの経路でC組の前を通る。

 今日は教室の中、窓際の席にあかりがいた。机のうえには弁当箱と、開いた文庫本。カバーは深い緑色をしている。表紙の文字までは廊下を歩きながらでは読めない。緑色のひと色だけ、目の端に残る。


 * * *


 放課後はまっすぐ帰る。

 母は今日から連勤の入りで、夕方には夜勤に出ている。冷蔵庫の中段に、朝のうちに作り置いたきんぴらと鶏の照り焼き。レンジで温めて、ひじきと味噌汁を並べ、ひとりで夕食を済ませる。


 食器を洗ってから、机の前に座る。

 右端の文庫の山から、鮎川哲也の『黒いトランク』を抜いた。連休明けからまだ読み切れていない一冊だ。今夜のベランダに持って出ようか、と机に置いたまま少し考える。これまで本の話は口でやり取りするばかりで、物そのものを手すりに乗せた夜はあまりなかった。たまには物のほうを置いてみるのも悪くない。表紙を指で軽く整えて、ポケットには入らない厚みだから、左手に持って部屋を出る。


 * * *


 21時すぎ、ベランダに出た。

 雲の切れ目から、月が半分だけ覗いている。半月の少し手前くらいの欠け方で、欅の梢の上に浮かんでいる。風はやわらかい。ハーブの匂いが、いつも通りの細さで仕切り板の縁から流れてくる。


 向こうの灯りは点いている。

 肘をついて数分待つと、カーテンが動いて彼女が出てきた。今夜は両手がふさがっている。左手にマグカップ、右手に深い緑色のカバーの文庫。暗さと距離でタイトルまでは読めない。緑のひと色だけが、目に入る。


「こんばんは」

「こんばんは」


相川(あいかわ)くん」

「うん」

「今日は、わたしも持ってきました」

「本」

「はい」


 彼女の声は、夜の最初のいつもより少し高い。

 本の話を、今夜は彼女のほうから出してきた。


「俺もある」

 左手の文庫を、仕切り板のほうへ少し寄せて見せる。

「あ」

「鮎川哲也の続き」

「『黒いトランク』」

「うん」

「わたしは」

「クリスティ?」

「はい」


 * * *


「『無実はさいなむ』」

 彼女が短くタイトルを言った。

「ああ」

「読んだことはありますか」

「ある」

「最後のところ」

「うん」

「わたし、あの最後の一文のために、ときどき開き直すんです」


 開き直す、と彼女は言った。その言葉だけ、いつもより前のめりに聞こえる。


「あの一文」

 俺は短く返した。

「はい」

「冒頭につながるやつ」

「そうです、そうです」

「うん」

「何気なく置かれてた一文が、最後で意味を持って立ち上がる」

「あれ、きれいだった」

「綺麗ですよね」


 丁寧語の硬さは残ったまま、語尾だけがやわらかい。好きな本の最後の一文を、彼女が仕切り板越しにこちらへ手渡してくる。


「鮎川哲也は」

 彼女が話題を返してきた。

「『黒いトランク』のまだ途中」

「あの、二つ目の駅のところ」

「もう少し先」

「鬼貫が、時刻表を」

「並べ直すあたり」

「あの並べ直しが、わたしは好きです」


 * * *


 二冊分の話を往復するうちに、ベランダの上の言葉が、いつもの倍くらいに増えていく。

 好き、と彼女がはっきり言う回数が、連休前より多い。それくらいの軽さが、今夜のクリスティと鮎川哲也の行き来のなかにはあった。


「カーは」

 俺は短く聞いた。

「読んでます」

「『三つの棺』」

「あれは、頭が回らなくて」

「俺もだ」

「でも、密室の説明のところを読み直すのが好きで」

「分かる」

「分かりますか」

「分かる」


「あの章、繰り返し読みたくなる」

「はい」

「一度目で全部の理屈は飲み込めない」

「飲み込めなくても、そのままにしておいて」

「先のページを読み進める」

「読んでると、後ろのほうが、ひとりでに収まってくるときがあって」

「あれが、たまらない」

「たまらないですよね」


 その「たまらないですよね」は、今夜の彼女の言葉のなかでいちばん語尾がほどけている。

 俺も語尾を落として、短く返す。


「分かる」

「もう一度言いますけど、分かりますか」

「分かる」

「ふふ」


 彼女が小さく笑った。

 風が静まっていて、その声はいつもより近く聞こえる。つられて、俺の口元も少し緩んだ。


 俺は向こうへ、視線を一度斜めに送った。

 仕切り板の縁の上から、彼女の横顔の上半分がぼんやり見える。前髪の先、軽くまとめた髪の片側の毛先、顎の線の途中まで。表情の細部までは読めない。肩の力の抜け方だけ、なんとなく伝わってくる。


 今夜の彼女は、話しやすそうに話していた。

 その話しやすさに俺がどう効いているのかは、俺には分からない。手すりに肘をついて左手で顎を支えたまま、ずっと聞き手の側にいる。


 * * *


 話が一段落して、彼女がマグカップに口をつける。

 ひと口の温度が、夜風のなかに小さく湯気を立てた。最初に出てきたときより、湯気は細くなっている。


「楽しい、です」

 彼女が短く言った。

「うん」

「本の話を、こんなに長く誰かとするのは」

「俺も」

「久しぶり、ですか」

「久しぶり」

「わたしも」


 短いひと言なのに、鼓動が少し速くなった。返事のあと、もう一度だけ彼女の横顔を見た。今夜は、いつもの夜より彼女を見ている。


 * * *


 気づいて、視線を月へ戻す。

 今夜は、彼女ばかり見ていた。なぜ、と考えかけて、やめる。考えれば答えが出そうで、出たら戻れない気がした。月は半分だけ欠けて、欅の上に浮かんでいる。


「じゃあ、そろそろ」

「うん」

「明日も、本」

「持ってくる?」

「もし、相川(あいかわ)くんが」

「持ってくる」

「じゃあ、また」

「また」


 短い挨拶のあと、ふたりはそれぞれの部屋に戻る。

 カーテンが閉まり、灯りはどちらも点いたまま残った。


 * * *


 自室に戻って、机の前に座る。

 左手の『黒いトランク』を、右端のもとの位置に戻す。今夜はページが一枚も進まなかった。本は、活字を追う道具にはならなかったけれど、ふたりの夜のうえに置かれた共通の物としては、十分に役目を果たしている。


 ベッドに入って電気を消す。

 天井の暗さのなかで、今夜の自分の視線がまだ残っている。いつもより、彼女を見た。それだけのことが、なかなか寝つけない理由になっている。


 彼女のことを、よく見ている。

 それを、布団のなかで何度も思い返している自分のことは、見ないふりをした。


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