古いミステリの話
5月8日、木曜。連休明け二日目で、身体はもう平日の朝に戻りきっている。
目覚ましが鳴ってから布団を出るまでの間は、昨日よりずいぶん短い。眠りの遅い時刻へずれた分は、まだ夜の側に少し残っている気がする。それでも朝のほうは、もう何食わぬ顔で平日に戻っている。
学校の一日は、木曜らしく流れていく。
午前は現代文、英語、数学、現代社会の4コマ。どれも連休前の続きで、新しい単元の手前で足踏みしている。昼休みは中庭の藤棚の下で、宗太と弁当を広げる。
見上げると、紫の房が頭の少し上で何本も垂れている。
四月のうちは固いつぼみだったのに、連休のあいだに一気に咲いたらしい。盛りは五月の最初の週から半ばあたり。俺の知らないところで進んだ自然の動きの、目に見える部分のひとつだ。
「藤、今年も間に合ったな」
宗太が短く言った。
「うん」
「連休中だと、もっと盛りだったらしいぞ」
「それは惜しかった」
「俺は来てない」
「俺も」
ふたりは紫の房を見上げながら、弁当を食べ終える。
昨日のサイゼの「好きな奴できた?」は、今日の宗太の口にはのぼらない。聞かないのが、いつもの宗太の精度だ。
* * *
昼休み、いつもの経路でC組の前を通る。
今日は教室の中、窓際の席にあかりがいた。机のうえには弁当箱と、開いた文庫本。カバーは深い緑色をしている。表紙の文字までは廊下を歩きながらでは読めない。緑色のひと色だけ、目の端に残る。
* * *
放課後はまっすぐ帰る。
母は今日から連勤の入りで、夕方には夜勤に出ている。冷蔵庫の中段に、朝のうちに作り置いたきんぴらと鶏の照り焼き。レンジで温めて、ひじきと味噌汁を並べ、ひとりで夕食を済ませる。
食器を洗ってから、机の前に座る。
右端の文庫の山から、鮎川哲也の『黒いトランク』を抜いた。連休明けからまだ読み切れていない一冊だ。今夜のベランダに持って出ようか、と机に置いたまま少し考える。これまで本の話は口でやり取りするばかりで、物そのものを手すりに乗せた夜はあまりなかった。たまには物のほうを置いてみるのも悪くない。表紙を指で軽く整えて、ポケットには入らない厚みだから、左手に持って部屋を出る。
* * *
21時すぎ、ベランダに出た。
雲の切れ目から、月が半分だけ覗いている。半月の少し手前くらいの欠け方で、欅の梢の上に浮かんでいる。風はやわらかい。ハーブの匂いが、いつも通りの細さで仕切り板の縁から流れてくる。
向こうの灯りは点いている。
肘をついて数分待つと、カーテンが動いて彼女が出てきた。今夜は両手がふさがっている。左手にマグカップ、右手に深い緑色のカバーの文庫。暗さと距離でタイトルまでは読めない。緑のひと色だけが、目に入る。
「こんばんは」
「こんばんは」
「相川くん」
「うん」
「今日は、わたしも持ってきました」
「本」
「はい」
彼女の声は、夜の最初のいつもより少し高い。
本の話を、今夜は彼女のほうから出してきた。
「俺もある」
左手の文庫を、仕切り板のほうへ少し寄せて見せる。
「あ」
「鮎川哲也の続き」
「『黒いトランク』」
「うん」
「わたしは」
「クリスティ?」
「はい」
* * *
「『無実はさいなむ』」
彼女が短くタイトルを言った。
「ああ」
「読んだことはありますか」
「ある」
「最後のところ」
「うん」
「わたし、あの最後の一文のために、ときどき開き直すんです」
開き直す、と彼女は言った。その言葉だけ、いつもより前のめりに聞こえる。
「あの一文」
俺は短く返した。
「はい」
「冒頭につながるやつ」
「そうです、そうです」
「うん」
「何気なく置かれてた一文が、最後で意味を持って立ち上がる」
「あれ、きれいだった」
「綺麗ですよね」
丁寧語の硬さは残ったまま、語尾だけがやわらかい。好きな本の最後の一文を、彼女が仕切り板越しにこちらへ手渡してくる。
「鮎川哲也は」
彼女が話題を返してきた。
「『黒いトランク』のまだ途中」
「あの、二つ目の駅のところ」
「もう少し先」
「鬼貫が、時刻表を」
「並べ直すあたり」
「あの並べ直しが、わたしは好きです」
* * *
二冊分の話を往復するうちに、ベランダの上の言葉が、いつもの倍くらいに増えていく。
好き、と彼女がはっきり言う回数が、連休前より多い。それくらいの軽さが、今夜のクリスティと鮎川哲也の行き来のなかにはあった。
「カーは」
俺は短く聞いた。
「読んでます」
「『三つの棺』」
「あれは、頭が回らなくて」
「俺もだ」
「でも、密室の説明のところを読み直すのが好きで」
「分かる」
「分かりますか」
「分かる」
「あの章、繰り返し読みたくなる」
「はい」
「一度目で全部の理屈は飲み込めない」
「飲み込めなくても、そのままにしておいて」
「先のページを読み進める」
「読んでると、後ろのほうが、ひとりでに収まってくるときがあって」
「あれが、たまらない」
「たまらないですよね」
その「たまらないですよね」は、今夜の彼女の言葉のなかでいちばん語尾がほどけている。
俺も語尾を落として、短く返す。
「分かる」
「もう一度言いますけど、分かりますか」
「分かる」
「ふふ」
彼女が小さく笑った。
風が静まっていて、その声はいつもより近く聞こえる。つられて、俺の口元も少し緩んだ。
俺は向こうへ、視線を一度斜めに送った。
仕切り板の縁の上から、彼女の横顔の上半分がぼんやり見える。前髪の先、軽くまとめた髪の片側の毛先、顎の線の途中まで。表情の細部までは読めない。肩の力の抜け方だけ、なんとなく伝わってくる。
今夜の彼女は、話しやすそうに話していた。
その話しやすさに俺がどう効いているのかは、俺には分からない。手すりに肘をついて左手で顎を支えたまま、ずっと聞き手の側にいる。
* * *
話が一段落して、彼女がマグカップに口をつける。
ひと口の温度が、夜風のなかに小さく湯気を立てた。最初に出てきたときより、湯気は細くなっている。
「楽しい、です」
彼女が短く言った。
「うん」
「本の話を、こんなに長く誰かとするのは」
「俺も」
「久しぶり、ですか」
「久しぶり」
「わたしも」
短いひと言なのに、鼓動が少し速くなった。返事のあと、もう一度だけ彼女の横顔を見た。今夜は、いつもの夜より彼女を見ている。
* * *
気づいて、視線を月へ戻す。
今夜は、彼女ばかり見ていた。なぜ、と考えかけて、やめる。考えれば答えが出そうで、出たら戻れない気がした。月は半分だけ欠けて、欅の上に浮かんでいる。
「じゃあ、そろそろ」
「うん」
「明日も、本」
「持ってくる?」
「もし、相川くんが」
「持ってくる」
「じゃあ、また」
「また」
短い挨拶のあと、ふたりはそれぞれの部屋に戻る。
カーテンが閉まり、灯りはどちらも点いたまま残った。
* * *
自室に戻って、机の前に座る。
左手の『黒いトランク』を、右端のもとの位置に戻す。今夜はページが一枚も進まなかった。本は、活字を追う道具にはならなかったけれど、ふたりの夜のうえに置かれた共通の物としては、十分に役目を果たしている。
ベッドに入って電気を消す。
天井の暗さのなかで、今夜の自分の視線がまだ残っている。いつもより、彼女を見た。それだけのことが、なかなか寝つけない理由になっている。
彼女のことを、よく見ている。
それを、布団のなかで何度も思い返している自分のことは、見ないふりをした。




