親友は何も聞かないふりをする
5月7日、水曜。ゴールデンウィーク明けの最初の登校日だ。
目覚ましは6時半に鳴った。連休のあいだ7時すぎまで動かなかった眠りを、平日の朝に引き戻すのに、布団のなかで少し余計に時間がかかる。仕切り板の向こうの灯りが、まぶたの裏で一度だけ薄く浮かんだ。それを振り払うように目覚ましを止めて、起き上がった。
朝食を済ませて制服に着替え、鞄を持って玄関を出る。
エントランスを抜けるときの空気が、連休最終日の散歩のときより少し重い。連休最終日には静かだった通りが、もう自転車と人で詰まっている。信号待ちの列に並びながら、たった一日でこれか、と思う。
校門の自転車置き場には、宗太が先に来ている。
昨日のサイゼの席と同じ顔の温度で、片手を上げてくる。
「おう」
「おう」
「眠そうだな」
「お前もな」
「俺は元気」
「自主練の翌朝で?」
「だから元気」
宗太の理屈は中学のころから一貫している。自主練の翌朝は、眠っても眠らなくても元気なんだそうだ。理屈の正しさはともかく、宗太の朝の声は、いつもの平日に戻っていた。
* * *
1限は現代文。
牧田先生のやわらかい声が、連休明けのまだぼんやりした教室に、ちょうどいい速さで届く。範囲は連休前の続きで、長めの随筆の後半。俺はノートに必要なところだけ書き写しながら、ふと頭が昨夜のベランダの会話に逸れた。ペン先が一度、止まった。
2限は数学。3限は英語。
どちらも連休前の続きで、新しい単元には入らなかった。連休明けの初日は、生徒の頭がまだ平日に戻りきっていない前提で組まれているらしい。その慣例に乗ってしまうと、午前の3コマは思ったより早く過ぎた。
* * *
昼休み、いつもの経路でC組の前を通った。
廊下の真ん中から右寄り。視線は正面。4月の最初の週から変えていない歩き方だ。
今日は教室の中ではなく、廊下のほうにあかりがいた。
窓際の壁にもたれて立っている。手には小さなパックの牛乳と、半分閉じたノート。音楽の楽譜のページが開きかけになっている。連休前、彼女が放課後に軽音部の見学へ通っていた話は、夜のベランダで何度か聞いていた。たぶんその関連だろう。
あかりの隣に、もうひとり女子が立っている。
あかりより少し背が高い。ショートボブで、毛先が肩より上で軽くはねている。リボンの結び目が、几帳面に近い正方形になっている。手のひらをあかりのほうへ向けて、何か軽く話していた。声は廊下のざわめきに紛れて聞き取れなかったけれど、声の高さと身振りの軽さから、たぶん琴音さんだ。
二人とも、廊下を通る生徒の流れには目を向けていない。
琴音さんの右手が、ノートの一箇所を指している。楽譜の小節を確かめさせるような指の動き。あかりの目が、その指先を追っていた。そのときのあかりの顔は、教室で見せる最小限の表情より、いくらかほどけている。夜のベランダで声が緩むときと、たぶん同じ向きのほどけ方だった。
俺はすぐに視線を正面へ戻す。
戻した先には、4組の前の掲示物が並んでいる。そのまま経路を最後まで歩き切って、二人のほうへ二度目の視線は返さなかった。あんなふうにほどけたあかりの顔を、俺はまだ夜のベランダでしか見たことがない。昼の廊下で、しかも俺じゃない相手の隣で、それを見たことが、なんとなく胸の隅に引っかかったまま残った。引っかかったまま、それでも振り返らずに歩いた。
* * *
階段を昇って自分の教室へ戻るあいだ、琴音さんのことを思い返す。
琴音さんは前の街からの知人だ、と少し前の夜にあかりが言っていた。引っ越してくる前から、あかりを知っている人。それ以上のことは、俺は知らない。ただ、昼の廊下であかりが見せたあのほどけ方は、知り合って間もない相手の前では出ない種類のものだった気がする。
その遠慮の仕方は、なんとなく宗太を思い出させた。
宗太は、聞いてもいいことを一度だけ訊いて、あとは黙る。琴音さんのやり方は知らない。ただ、あかりの隣に残っていた空気が、宗太といるときの俺のまわりの空気と、少し似ている気がした。
* * *
5限と6限はLHRと体育。
LHRは連休明けの連絡で、修学旅行の積立のスケジュールの話。体育は校庭でソフトボールの基礎練習。どちらも頭をそれほど使わない時間で、午後の俺の頭のなかでは、昼休みの廊下が何度か再生された。再生のたびに、あのほどけたあかりの顔のところで、思考が少し止まる。止まってもすぐ戻ったから、宗太にも同じ組の同級生にも気づかれなかった。
放課後、宗太は昨日に続いてバスケ部へ向かった。
俺は文芸部の部室には今日も寄らず、駐輪場で自転車を出して家路についた。坂を下る途中、ハナミズキの葉が昨日よりさらに濃くなっている。連休明けの一日でまた葉が進むのは、5月のいつもの速さだった。
* * *
夜、21時すぎにベランダへ出た。
空には薄い雲がかかって、月は輪郭だけがぼんやり滲んでいる。仕切り板の向こうの灯りは点いている。手すりに肘をついて数分待つと、カーテンが揺れて彼女が出てくる。今夜は左手にマグカップ、右手は手すりに置いたまま空いている。
「こんばんは」
「こんばんは」
「今日、ありがとうございました」
「いや」
「廊下、見ましたか」
「ちょっと」
「すぐ、戻してくれて」
「うん」
ああ見えて、彼女はちゃんと先に確かめにくる。俺は手すりのうえで、少しだけ肩の力を抜く。
「楽譜、だった?」
俺は短く聞いた。
「はい」
「軽音部の」
「見学のときの曲の、譜面を」
「琴音さんに見てもらってた」
「はい」
「ベース、彼女がやってる」
「そうです」
軽音部に入るかどうかは決めていない、と連休前の彼女は言っていた。決めていないのに、譜面は琴音さんに見てもらっている。
迷っているものを、誰かに見せられる相手がいる。それだけのことが、ほんの少しうらやましかった。
* * *
「琴音さんは」
俺は静かに言った。
「はい」
「月島さんが新しい街に慣れるまで」
「はい」
「いろいろ、聞かないでいてくれる」
「……はい」
彼女の「はい」のあと、夜風がひと筋、仕切り板の縁を抜けた。
風に乗ってくるハーブの匂いは、いつもの細さだった。
「聞かないでいてくれるのが、ありがたい時もあります」
彼女は静かに言った。
「うん」
「全部、聞かれてしまうと」
「うん」
「答えるための言葉を、その場で用意しないといけなくて」
「ああ」
「用意できない種類のことも、ある」
「分かる」
俺は短く返した。
分かる、と言った自分の声に、昨日のサイゼでの宗太の「好きな奴できた?」の感触が、わずかに重なる。あのとき俺の「ない」の声が少しほつれたのは、用意できないことに即席で答えを作ろうとしたせいだ。宗太は、そのほつれを見てから「聞かない」を選んでくれた。
あかりにも、たぶん琴音さんがいる。それがどんな形なのかは、俺には分からない。
* * *
「ねえ」
俺は短く呼びかけた。
「はい」
「親友って」
「はい」
「聞かないでいてくれるのが、いちばんの仕事だったりする」
「……そうかもしれません」
「俺もそうしてもらってる」
「はい」
「宗太、っていうやつに」
「ああ、相川くんの」
「うん」
彼女の「ああ」には、宗太の名前を夜のベランダで聞くのが初めてじゃない、という響きがさらりとあった。
連休前の何度かの夜に、宗太の名前は俺のほうから出していた。彼女もその名前を、夜のベランダの輪郭のひとつとして覚えていてくれたらしい。それが、たった「ああ」のひと言のあいだで確かめられた。
「お互い」
俺は静かに言った。
「はい」
「似た友達に」
「はい」
「似た配慮をしてもらってる」
「そうですね」
彼女の「そうですね」は、丁寧語のかたちのまま、声だけがいつもより少し緩んでいた。
* * *
「じゃあ、そろそろ」
「うん」
「明日も」
「出る」
「わたしも」
「じゃあ、また」
「また」
短い挨拶のあと、ふたりはそれぞれの部屋に戻った。
カーテンが閉まり、灯りはどちらも点いたまま残った。
* * *
自室に戻って、机の前に座る。
昼の廊下のあかりと、昨日のサイゼの俺。場所も人も別なのに、隣にいる相手のしてくれていることは、たぶん似ている。
ベッドに入って電気を消す。
天井の暗さのなかで、昼の廊下のあかりのほどけた顔を、もう一度思い出す。あれは琴音さんの隣でだけ出る顔だ。正直に言えば、俺の知らないあかりがそこにいるな、と少しだけ思った。夜のベランダで俺の前にいるあかりとは、たぶん別の顔。べつに、悪い意味じゃない。ただ、ほんの少し、置いていかれたような気持ちにはなった。
それでも、と思う。
夜の仕切り板の向こうのあかりは、俺の前にしかいない。それで、今夜のところはじゅうぶんだった。




