親友はまだ何も聞かない
5月6日、火曜。振替休日。
午前9時すぎ、スマホがLINEの通知音を鳴らす。画面を見ると、宗太からだ。
「12時、駅前のサイゼ。連休最後だしどっか出ようぜ」
用件と時刻と場所だけを並べた、いつもの文面。語尾の「ぜ」のひと文字に、宗太の軽口の名残がある。連休のあいだ、宗太とは会っていなかった。LINEもスタンプが数回飛んできたくらいで、俺もそれほど熱心に返していない。隣の灯りのことが、頭のなかでずいぶん大きくなっていた。そのぶん、宗太に向ける余裕の置き場所が、少し縮んでいたんだと思う。
「了解。12時にサイゼ」
短く返した。
この素っ気なさに「お前最近そっけなくね?」くらい返ってきても不思議じゃない。実際に返ってきたのは、「お」のひと文字とサムズアップのスタンプだけだった。
* * *
昼前、母にひと声かけて家を出る。
「サイゼ、宗太と」
「はーい」
「夕方には帰る」
「うん」
母はリビングで医療雑誌を開いていた。
夜勤明けの午後は、ソファの背もたれに浅く凭れて読むことが多い。ページをめくる速さは、平日の朝の出勤前の半分くらい。連休のあいだに、身体が少しずつ自分のリズムを取り戻している途中なんだろう。明日からまた連勤が組まれている。今日のうちにできるだけ眠りを溜めておきたいはずだった。
エントランスを出て、駅のほうへ歩く。
昨日散歩した住宅街とは反対方向の道。連休最終日の昼前の駅前は、平日よりわずかに人が多い。半分は家族連れ、四分の一は部活の集合らしい高校生、残りはそれ以外。そのなかに、たぶん宗太と俺みたいな同級生のペアもいくらか混じっている。
駅前のサイゼリヤは、駅ビルの2階だ。
ガラス張りのエレベーターで上がると、自動ドアの脇にもう宗太が立っている。グレーのパーカーに黒のジョガーパンツ。右肩にいつものスポーツバッグの小さいほうを掛けている。連休最終日の昼前にこれを持ってくるということは、午後にバスケ部の自主練が入っているんだろう。
「おう、湊」
「おう」
「早かったな」
「お前のほうが早い」
「俺は3分前だ」
「俺は1分前」
「2分の差だな」
「2分の差だ」
* * *
店内の窓際、四人席に通された。
昼のサイゼリヤは、家族連れと学生で席が埋まっている。ひとつ向こうの席には、小学校低学年くらいの兄弟と母親の三人連れ。兄弟は交互にメニューの写真を指差して、母親と小声で相談している。
「ミラノ風ドリアな」
メニューを開いて、俺は短く言った。
「お前ほんとそればっかな」
「迷う時間が惜しい」
「俺は今日はペペロンチーノとミニサラダ。あと食後のドリンクバー」
「自主練あるんだろ」
「ある」
「ペペロンチーノで腹もつのか」
「もつ」
「自信の根拠は」
「経験」
宗太の注文は毎回ほぼ同じだ。
ペペロンチーノとミニサラダとドリンクバー。理由を聞いたことが何度かあるが、毎回「コスパ」で片付けられる。価格と腹持ちと味の総合点、ということらしい。中学のころからずっとこれだった。
注文を済ませると、宗太はドリンクバーまで立っていって、自分用のオレンジジュースと俺用の烏龍茶を持って戻ってくる。頼んでもいないのに、俺の烏龍茶を覚えている。
「連休、なにしてた」
オレンジジュースに口をつけて、宗太が聞いた。
「あんまり」
「あんまり、ってのが一番情報量ないんだよ」
「散歩」
「散歩」
「公園まで」
「あー、椿ヶ丘の」
「あの広場の」
「俺もあのへん通った、4日に」
「そうか」
俺は短く返した。
宗太が4日に椿ヶ丘のあたりを通っていた、というのは初めて聞く。4日は俺はまだ家にいて、公園には出ていない。
* * *
料理が来るまでの数分、宗太はバスケ部の話と漫画の話を交互に並べた。
バスケのほうは、連休明けの練習で2年が3年の代わりに紅白戦のスタメンを任されるという話。漫画のほうは、連載中のバトルものの最新話で、長い伏線がやっと回収されたという話。どちらも口の動きはいつもの軽さで、こっちのリアクションを過剰に求めてこない。俺は短く頷いたり、質問を一度ずつ返したりして、いつもの聞き手をやっている。
漫画の伏線回収の話のとき、宗太の目が一度だけ俺のほうへ斜めに止まった。
ほんの一瞬だった。こっちが普段より薄い反応しか返さなかったのに、宗太は何も言わない。視線はすぐ漫画の続きの話に戻っていく。
ミラノ風ドリアとペペロンチーノが運ばれてきて、しばらく食べることに集中する。
ドリアの表面の焦げたチーズに、スプーンの腹で割り目を入れる。ベシャメルとミートソースとライスを下から掬う。中学のころから手順はずっと同じだ。いつ食べても、同じ味がする。
* * *
「お前さ」
半分くらい食べたところで、宗太がフォークを置いた。
「ん」
「なんか顔色いいな」
「そう?」
「いや、なんかさ」
「うん」
「肌つやつやしてる」
「肌つやつや」
俺はスプーンを止めた。
肌つやつや、なんて言葉、中学のころの宗太の口からは出てこなかった。スプーンを持つ手が止まったまま、しばらく動かない。
「マジで」
「そんなに?」
「なんか、連休前とちょっと違うんだよな」
「気のせいじゃないか」
「俺の気のせいの精度、お前知ってるだろ」
「……知ってる」
「だろ」
宗太の「気のせいの精度」の話には、もとがある。
中学3年の冬。父が亡くなったあとの俺の変化に、宗太は最初の数日で気づいていた。気づいたけれど、何も聞かなかった。ただ毎朝、家の前まで自転車で迎えに来た。登校班なんて中3にはないのに、宗太は自分のルートをわざわざ曲げて、俺の家の前に寄ってから学校へ行った。あのころ俺が口でお礼を言ったことは、たぶん一度もない。お礼を言わせない振る舞いを、宗太のほうが先に作っていたからだ。
その「気のせいの精度」を、いま宗太は、俺の連休明けの顔色に当てている。
「連休でしっかり寝たか?」
「まあ、寝た」
「夜ふかし、減った?」
「いや、変わらない」
「ふーん」
「ふーんって」
「ふーん」
宗太は曖昧に頷いて、フォークでペペロンチーノを巻き直す。
巻いたパスタを口に運ぶ速さが、いつもより少しだけ遅い。それが何の遅さなのかは、俺には分からなかった。
「お前さ」
「ん」
「彼女、できた?」
「は?」
「あー違うか。えっと、好きな奴は」
最初に口から出たほうを、宗太は自分で軽く言い直した。いつもの軽口のテンションのまま、本題のほうを置きにくる。
「ない」
俺は即答した。
いつもの「ない」なら、もっと軽く転がるはずだった。今のは、語尾の最後で力が足りなかった。速さで中身は隠せても、声の縁までは隠しきれない。
宗太は俺の顔をひと呼吸ぶん見た。
その間に、宗太の目のなかを何かが動いた。動いたあと、宗太はフォークを動かす手を再開して、ペペロンチーノの最後のひと巻きを口に運ぶ。
「ふーん」
「ふーん」
「ま、いいか」
「いい」
「ペペロンチーノ、うまかった」
「うまそうだな」
「お前のドリアは」
「うまい」
「だろ」
* * *
宗太は、それ以上は聞かなかった。
中学3年の冬と同じだ。あのとき宗太は「父さんのこと」を、一度も俺の前で口にしなかった。
今日のサイゼのテーブルでも、宗太は同じことをやっていた。
ふーん、と言って、宗太は話題を別のほうへ切り替える。今度は3年のキャプテンが連休中にうっかり彼女と海まで行って、帰りの電車で寝過ごして始発まで漫喫で潰した、という人づての話だった。話はもう俺の顔色には戻ってこなかった。
俺は宗太の話を聞きながら、烏龍茶の最後のひと口を飲み干す。
コップの底に残った氷が、店内のざわめきのなかで、自分にだけ聞こえる細さで鳴った。
* * *
会計はそれぞれ別々に済ませて、店を出た。
駅ビルの2階のエレベーターホールの前で、宗太はスポーツバッグの肩紐を直している。
「俺、これから自主練」
「ああ」
「お前は」
「家に帰る」
「真っ直ぐか」
「真っ直ぐ」
「夜更かしすんなよ」
「ほどほどに」
「ほどほどに、な」
宗太は片手をひらりと上げて、エスカレーターのほうへ歩いていく。
グレーのパーカーの背中が、下りの段に乗って、視界のなかで少しずつ沈んでいった。降りていくあいだ、宗太は一度もこちらを振り返らない。振り返らないのも、たぶんいつもの宗太だった。
俺は反対側の下りエスカレーターに乗って、駅ビルを出る。
ロータリーの脇には、連休最終日の昼下がりらしい人の流れがゆるく広がっている。そのなかをひとりで抜けて、住宅街へ向かう道に入った。
道沿いのケヤキの新緑が、連休のあいだに葉を増やしている。
重なりが厚くなったぶん、歩道に落ちる影が前より濃い。四月のうちはまだ葉のあいだから地面の白さが透けていたのに、いまはその白さがケヤキの影に置き換わっている。家のなかで過ごしているあいだも、外の緑は黙って育っていたらしい。
帰り道、宗太の「好きな奴できた?」が、頭のなかで何度か鳴り返した。
「いる」のひと言は、夜のベランダのいまの形にうまくはまらない。はめようとすると、夜のほうが崩れる。だから「ない」と言った。理屈はそうなんだけど、要するに、うまく言えないから、ないことにしただけだ。親友に、嘘をついた。それだけのことを、こんなに長く言い訳している自分が、われながら少し情けない。
宗太は何も聞かない。
聞かないのが、いちばんありがたい時もある。




