約束は学校の外でも
夕食は母とふたりだった。
連休最終日の夜のテーブルには、いつもより少し品数が多い。鶏肉と新じゃがの煮物、菜の花の和え物、豆腐とわかめの味噌汁。作り置きの最後を片付ける献立でもあったらしい。母の料理の品数は、その日の体力に正直に比例する。今夜のこれは、午前中によく眠れた証拠だった。
「こどもの日」
箸を持ったまま、母が短く言った。
「うん」
「もう柏餅なんて」
「いいよ」
「年だね」
「いや、それは別に」
母は小さく笑って、味噌汁に口をつけた。
うちの食卓でこどもの日の話題は、毎年このくらいの長さで終わる。中学2年の冬から、ふたりで季節の和菓子を買う習慣もなくなった。なくなったことをどちらかが軽く確かめて、すぐ普通の話に戻る。今夜も同じだ。
* * *
食器を洗ってから、自室で20時半すぎまで本を開く。
昼に見た公園の光と、自転車を押す彼女の細い肩が、ページを追う目の裏にときどき戻ってくる。読書のリズムは、いつもの夜より少し遅かった。一行進むごとに、頭が昼の公園のほうへ逸れる。逸れるたびに本へ戻すと、もう一行ぶん読み直さないと話が繋がらなかった。
手に取っていたのは、机の右端に積んであった鮎川哲也の文庫。短編はふだん一気に読み通せる長さで、こんなふうに途中で頭が逸れることはあまりない。今夜はだめだった。同じ段落を2回読んで、結局あらすじが頭に入ってこない。
21時を回ったところで本を閉じた。
パーカーを羽織って、ベランダのサッシをそっと開ける。リビングからは、母が医療雑誌のページをめくる気配がする。母がいる夜に俺がベランダへ出ていくことを、母はいまのところ何も聞かない。聞かないでいてくれることに、この連休のあいだ俺はずいぶん助けられている。
夜の空気は、連休最終日らしく少し湿って柔らかい。
月は今夜も雲の向こうだった。雲は昨夜よりわずかに薄く、月のあるあたりだけ滲み方が浅い。南からの夜風が、ハーブのプランターのほうから細い匂いを運んでくる。
仕切り板の向こうの灯りは、点いている。
手すりに肘をつくと、サッシの動く音が向こうから聞こえる。カーテンが揺れて、彼女が出てくる。今夜はマグカップを持っていない。手すりに置いた両手が、空のままだ。
* * *
「こんばんは」
「こんばんは」
「お母さん、夜勤、戻りましたか」
「いや、今夜は休み」
「そうですか」
「明日からまた連勤」
「お疲れさまです」
短い挨拶のあと、夜風がひと筋、仕切り板の縁を抜ける。
空気の温度はわずかに下がりはじめている。連休のあいだ安定していた夜の暖かさが、今夜あたりから少しずつ崩れていく気配がした。
「相川くん」
彼女が短く呼んだ。
「うん」
「さっきは」
「ああ」
「公園で」
「うん」
「気づいてくれて」
「気づいてた」
彼女の「さっき」は、いつもの声より少しだけ低い。その低さのぶん、言葉を仕切り板の向こうへそっと置いた感じがした。
「驚きました」
「俺も」
「家を出るとき、まさかと思って」
「同じ」
「でも」
「うん」
「相川くんが、何も」
「うん」
彼女の言葉は、そこで一度切れる。
切れた先を、彼女は小さく息を整えてから続ける。
「ちゃんと、約束のかたちに、してくれて」
「ああ」
「嬉しかったです」
その「嬉しかったです」は、丁寧語の硬さを残したままベランダの空気に置かれる。けれど硬さの内側に、いつもより柔らかいものが混じっていた。仕切り板越しでも、それははっきり届く。
* * *
俺はその「嬉しかったです」を、夜風のなかでもう一度頭の隅に置く。
置いてみると、胸の鼓動がいつもより速い。手すりに肘をついたまま、しばらくそのままだった。
彼女の「嬉しかった」を、そのまま受け止めて返す言葉が、すぐには出てこない。
返事をひとつ作るのに、ふだんより時間がかかる。仕切り板の向こうの彼女は、たぶんそれを察していて、急かすような気配は出さない。
「俺も」
俺は短く返した。
「うん」
「ちゃんと、向こう側から守ってもらった気がした」
「いえ」
「いや、ほんとに」
彼女が仕切り板の向こうで、首を小さく振った気配がする。何か言いかけて、結局その音は言葉にならなかった。
「学校だけのつもりだった」
俺は静かに言った。
「はい」
「あの約束」
「そうですね」
「でも、外でも、自然に同じになった」
「なりましたね」
「どっちが先に決めたわけじゃなく」
「はい」
「最初から、そういうものだった」
「そう、思います」
彼女の「思います」のあと、また夜風がひと筋抜けた。
連休の終わりの夜の匂いが、ベランダの空気を少し落ち着かせる。彼女のほうも、自分の同意をもう一度たしかめる短い間を取っているようだ。間のあいだに、ハーブの葉の擦れる音がした。風よりも、彼女がプランターの近くで身体を少し動かしたときの音だろう。
「学校でも、街でも、同じ」
彼女が短くまとめた。
「うん」
「同じなら、わたしたちは大丈夫」
「うん」
「他の場所でもたぶん」
「同じになる」
「そう思います」
彼女の「そう思います」のあと、ハーブの匂いがまた一度流れる。
俺は手すりの冷たさに手のひらを馴染ませて、次の言葉を探した。
* * *
「月島さん」
俺は短く呼んだ。
「はい」
「この約束」
「うん」
「続けたい?」
「はい」
彼女の「はい」は、いつもの返事より短かった。
短さのなかに迷いがほとんどない、即答に近い「はい」だった。
「続けたいです」
「うん」
「続けたい、と思っています」
「分かった」
彼女は「続けたい」を二度言った。
二度目の声は、一度目より少しだけ低くて、自分の内側へ落とすような言い方だった。
俺は手すりのうえで、一度息を吸って吐く。
「俺も」
「はい」
「続けたい」
「はい」
俺の「続けたい」には丁寧語がない。彼女の「続けたいです」と並べれば、温度の見え方は少し違う。それでも向きは同じだった。
* * *
「じゃあ」
俺は短く言った。
「明日も」
「はい」
「明日からの平日も、約束は同じ」
「同じです」
「学校でも」
「はい」
「街でも」
「街でも」
彼女が同じ言葉を繰り返した。
今夜の確認を、彼女自身ももう一度なぞっておくような繰り返しだ。なぞり終えると、彼女は手すりに置いていた両手をそっと内側へ引いた。布のこすれる小さな音がして、それきり手の気配は消えた。
「じゃあ、そろそろ」
「うん」
「明日も、出ますか」
「出る」
「わたしも」
「じゃあ、また」
「また」
短い挨拶のあと、ふたりはそれぞれの部屋に戻った。
カーテンが閉まり、灯りはどちらも点いたまま残った。
* * *
自室に戻って、机の前に座る。
桜丘高校のクラスの誰も、駅前の商店街の誰も、椿ヶ丘の公園の誰も、この約束を知らない。知られないところで、二人のあいだにだけ引かれた線。それを今夜、互いの言葉で太くした。
ベッドに入って電気を消す。
さっき自分が返した「続けたい」の、丁寧語のない短さが、まだ口の奥に残っている。彼女の「続けたいです」と並べると、自分のほうがずいぶん素っ気なく聞こえた気がする。いまさら少し決まりが悪い。向きは同じはずなのに、いちいち気にしている自分が、われながら面倒くさい。
約束は、俺たちの夜を守る細い線だ。
それを自分たちで守り続けることが、いまのところの一番の仕事だった。




