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夜のとなりはベランダ1枚分  作者: Studio Yodaca
夜と呼ばない夜

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23/42

公園で偶然

 5月5日、こどもの日。

 連休5日目の朝、母は夜勤明けで8時すぎに帰ってきた。シャワーを浴びて、午前中のうちに寝室で寝る。連勤と休みを何度も繰り返すうちに、帰ってきてから眠りに入るまでの動きは、回ごとに少しずつ速くなっていた。


 俺はリビングで、こどもの日らしくない昼食をひとりで食べた。作り置きの煮物と、温め直した味噌汁とご飯。柏餅はない。母も俺も、季節の和菓子をわざわざ買う家ではない。テレビでは住宅展示場の鯉のぼり中継が短く流れていて、大きな鯉のぼりが風に合わせて斜めに上がったり下がったりしている。風が強くなると、しっぽの先まで一気にしなった。


 * * *


 午後3時すぎ、母が起きてきた。

 寝室から出てくる足音が、いつもよりわずかに遅い。連休のあいだの夜勤の蓄積が、そのまま朝の足取りに乗っている。母はソファに座り、リモコンを取らないまま画面を眺めていた。鯉のぼりの中継はもう終わって、夕方のニュースの予告みたいな帯番組に変わっていた。


「散歩、行ってきたら」

 母は俺のほうを見ずに言った。

「うん」

「ずっと家にいたでしょう」

「そうだな」

「天気いいよ」

「行ってくる」


 夜勤明けの、半分眠ったような声だった。それでも、散歩に出せという結論だけは、いつもどおりはっきりしていた。


 パーカーを羽織って、玄関で靴紐を結んだ。

 考えてみれば、連休に入って散歩に出るのは今日が初めてだ。それまではベランダのラベンダーを朝と夕方に見ることと、母とのひとり分ふたり分の食卓を交互に回すことで、昼の時間はだいたい埋まっていた。後半に入ると、家のなかの空気が少しずつ詰まってくる。外の空気を身体に一度通したほうがいい。母の言い方は、たぶんそういう判断だった。


 * * *


 エントランスを出て、駅とは反対の方向に歩く。

 駅のほうは商店街があって、連休の夕方は人が多い。今日はひとりで歩く時間が目的だったから、人の少ない側を選んだ。住宅街を抜けると椿ヶ丘(つばきがおか)の中規模公園に出る。徒歩で7分くらいだ。


 住宅街の道は、こどもの日の夕方らしい音をところどころに落としていた。

 2階のベランダから垂らした小さな鯉のぼりが、風のなかでゆっくり揺れている家が2軒。庭先でビニールプールを片付けている家族。補助輪のうしろを腰をかがめて押している父親。連休の昼を使い切ったあとの夕方の住宅街には、子どものいる家の終わりかけの音が薄く広がっていた。


 俺の家には、その音はない。

 ひとりっ子で、父はもういない。母は連休も勤務表のうえで動いている。べつに今日はじめて気づいたわけでもなかった。中学2年の冬から、連休の夕方はだいたいこのくらいの静かさだ。


 * * *


 公園に着いた。

 住宅街の真ん中にひと区画だけ取られた、長方形の平らな緑地。中央に芝生の広場、北側にすべり台とブランコ、南側にベンチが3台、西側に水飲み場と、東に欅の木が1本。夕方の公園には子ども連れが3組ほど残っていた。すべり台の前で、3歳くらいの子が父親に手を引かれて滑っている。ブランコでは小学校低学年らしい兄弟が、1台ずつ占有して交互に漕いでいた。西の空は、雲の縁に薄いオレンジを置きはじめている。


 南側のベンチの真ん中に座る。

 欅の木陰の、少しだけ外側。座ると夕方の斜めの光が左の頬に乗った。熱はもう連休のはじめより弱くなって、5月後半の夕方らしい温度に落ちていた。


 スマホは出さなかった。

 散歩は画面を見るためではなく、家に詰まった空気を抜くために出てきた時間だ。開いてしまうと目の前の空気から意識が逃げる。今日は公園の様子と、自分の頭のなかだけに視線を置いておこうと決めた。


 頭のなかには、昨夜の彼女の話がまだ残っていた。

 「線を引く」という言い方。前の街で長く親しかった一人との壊れ方。新しい街では線の内側にまだ誰も入れていないこと。夜のベランダだけは別だ、という言い方。ひとつずつ、午後の頭のなかで並べ直した。並べているうちに、ベンチの座面の冷たさがズボン越しに伝わってくる。


 * * *


 兄弟がブランコを降りて、母親のほうへ走っていく。

 すべり台の子も父親に抱き上げられて、出入り口に向かう。夕方が深まるにつれて、公園の人の数は少しずつ減っていった。残ったのは、欅の根元で本を読んでいる年配の男性と、北側でストレッチをしている学生らしい男性と、ベンチの俺だけになった。


 そのとき、西側の出入り口から自転車を押してくる人影が見えた。

 逆光で、はじめは輪郭しか分からない。少し色のあるカーディガンと、薄手のロングスカート。かごには紙袋がふたつ。ハンドルを握る位置が、女子の平均よりやや低い。近づくにつれて、肩の細い線と髪のまとめ方が、目のなかでひとつの像に重なってくる。


 月島(つきしま)さんだった。

 彼女もこちらに気づいている。気づいているのに、視線は俺へは向けなかった。自転車を押したまま、芝生の南側、俺の座るベンチのほうの舗装路を歩いてくる。歩く速さは変わらなかった。


 * * *


 学校の約束を、反射的に思い出した。

 話しかけない。目を合わせない。廊下のすれ違いは小さな会釈まで。あれは学校の中の取り決めだったはずだ。でも、いまこの公園には欅の下で本を読む年配の男性と、北側でストレッチをする学生がいる。どちらも俺たちを知らない。知らない誰かの前でも、ここで声をかければ、それだけで彼女の何かを壊す気がした。


 俺はベンチに座ったまま動かなかった。

 立ち上がりたい、と一瞬だけ身体が前に出た。でも口は開かなかった。声をかけてしまえば、彼女はたぶん止まる。止まらせないことのほうが、いまは大事な気がした。


 彼女がベンチの前まで来た。

 距離は3メートルほど。目線は自転車のハンドルの上、俺の顔のすぐ脇あたりに置かれている。3メートルまで来た瞬間、彼女のあごがほんのわずかに下に引かれた。1センチほどの動き。夜のベランダで短く相槌を打つときの、あの首の動きだった。


 俺も座ったまま、あごを1センチ引く。

 目は向けない。視線は欅の根元に置いたまま、首の角度のなかにだけ応答を乗せる。この会釈は、たぶん年配の男性にも北側の学生にも気づかれないくらい細かかった。


 * * *


 彼女の自転車は、そのままベンチの前を通り過ぎていく。

 チェーンの軽い音と、靴底に乗った砂粒の擦れる音が、3メートルを斜めに抜けて、右のほうへ小さくなっていった。かごの紙袋ふたつは、たぶん駅前の買い物の帰りだ。連休最終日の夕方、頼まれて買い出しに行った帰り道。家の方向は俺と同じだから、この自転車もこのあとマンションへ向かう。


 彼女の背中が、東側の出入り口に近づいていく。

 出入り口の前で一度自転車を止め、ハンドルを左へ切り直した。住宅街の道に向きを合わせる動きだ。揃え直してから、押したまま歩き出す。出入り口の縁を越えるとき、細い肩が最後に一度だけ夕方の光でオレンジに染まって、家並みの陰に消えた。


 俺は3分ほど、ベンチに座ったまま動かなかった。

 本当は、すぐ立って背中を追いたかった。同じ家に帰るのだから、追えば追いつく。追いついて、何を言うわけでもないのに。立てば、たぶん家のロビーで鉢合わせる。さっきの会釈が、エレベーター前の気まずさで塗り替えられる。それが嫌で、俺は座ったまま自分を押さえつけていた。我ながら、ずいぶん面倒くさいことをしている。


 * * *


 ベンチのうえで、3分かけて夕方の公園の音を聞いた。

 年配の男性が、ページをめくる音を一度だけ立てた。北側の学生はストレッチを終えてバッグを肩にかけ、北の出入り口へ歩いていった。残るのは年配の男性と俺だけ。日の傾きはさらに進んで、西の空のオレンジが雲の上のほうまで広がっていく。


 学校の約束は、学校のなかだけで効くものだと思っていた。

 今日はそうじゃなかった。約束のほうが、最初から学校の外まで届く形をしていたらしい。


 ベンチから立ち上がる。

 裾についた木屑をひとつ払って、出入り口に向かう。彼女と同じ東側ではなく、北側を選んだ。同じ道を時間差で歩くのを避けたかった。住宅街を遠回りして、家には少し遅れて着くようにする。それくらいの遠回りは、今日の流れとして自然だった。


 * * *


 北側を出て、住宅街の細い道を西へ折れる。

 道の角に、ハナミズキの植わった小さな庭がある。花の盛りは終えて、葉のほうが緑を濃くしはじめている。歩きながら、今夜のベランダのことを考えた。21時すぎ、彼女がいつものようにカーテンを開けて出てくるか。出てきたとき、公園のことに触れるか。触れるなら、どんな短さで触れるか。触れないなら、それはそれで。考えはじめると、足が少しだけ速くなった。


 エントランスに着いたのは、公園を出て20分後だった。

 その20分のあいだに、彼女の自転車はとっくに駐輪場に収まっているはずだ。エレベーターで5階に上がり、鍵を開けて入ると、リビングから母のテレビの音が聞こえた。


「おかえり」

「ただいま」

「散歩、長かったね」

「ちょっと遠回りした」

「うん」


 母はそれ以上は聞かなかった。

 夜勤明けの午後の集中は、息子の散歩の長さを細かく追及するほどは残っていない。今日に限っては、それがちょうどよかった。詳しく聞かれていたら、説明の言葉を用意するのに少し手間がかかった。


 ベランダに出て、ラベンダーの鉢を確認した。

 葉先は夕方の光のなかで、午前中とは少し姿勢を変えていた。買い出しの帰りに公園を抜けてきた彼女と、ベンチにいた俺。約束した遭遇じゃない。それでも、声をかけずに会釈だけで通り過ぎられた。


 約束は、学校の内側だけじゃなく、街の中でも効くらしい。

 夕方の光のなかで、ラベンダーの葉先は静かに上を向いている。


 部屋に戻る前に、向かいのベランダのカーテンを一度だけ見た。まだ閉まっていた。


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