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夜のとなりはベランダ1枚分  作者: Studio Yodaca
夜と呼ばない夜

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22/40

前の街のこと少しだけ

 翌朝、母はまた夜勤明けで帰ってきた。

 5月4日の日曜の朝。連休のシフトは5月3日の休みを一日だけ挟んで、また夜勤明けの朝に戻った。前々日と同じリズム。スニーカーの底の沈み込みも、玄関の鍵の回る音も、前々日とほぼ同じ形で再現された。


「おかえり」

「ただいま」

「ご飯」

「もう食べた」

「うん」

「あなたは」

「これから」


 短いやり取りも、前々日とほぼ同じだった。

 母はシャワーを浴びて、午前中のうちに寝室で寝た。俺はリビングの食卓で、ひじきと味噌汁とご飯の朝食をひとりで食べた。連休5日目の朝のリズムは、4日目の母の休みの一日を挟んで、また連勤のリズムに戻っていた。


 朝食のあと、ベランダに出てラベンダーの鉢を確認した。

 葉先は朝の光のなかで斜め上のほうにきちんと戻っていた。彼女が言った通りの動きを三日続けて反復する、というのは、植物の昼夜のリズムの安定の証拠だった。土の表面は、今朝はわずかに乾きはじめていた。指の腹で触れた感触は、昨日の朝より乾いている側に半段だけ寄っていた。今夜の水やりの判断は、夕方の様子をもう一度見てから決める、というのが連休のあいだに俺の側で出来上がっていた手順だった。


 * * *


 午後、母は2時過ぎに起きてきた。

 新聞を読む順序は社会面、医療欄と生活面、最後に一面。前々日と同じだった。連勤のあいだの母の動きの安定は、シフトのリズムの繰り返しによって、母の身体の側で守られている。母が夕方17時前に夜勤の入りに出て、エレベーターの音が消えると、家のなかの空気は前々日と同じ静かさに戻った。母のいない夜の家。中学2年の冬以降の俺の夜の標準だった。


 * * *


 夕食はひとりで済ませた。

 肉じゃがの残りはもう尽きていたので、今夜は冷凍してあったハンバーグを電子レンジで温めた。ハンバーグはひと月ほど前に母が多めに作って冷凍したもののひとつだった。食卓のうえに、ひとり分のハンバーグと味噌汁とごはんが並ぶ。母とふたりの食卓のあとのひとり分の食卓は、テーブルのうえの絵の量が一段減って見えた。一段減った絵のうちのいくつかは、ふたり分のときに母が並べた小鉢の影だった。影はいまの俺の食卓のうえには直接は見えないが、頭のなかには記憶として薄く残っていた。

 食器を洗いながら、ふと窓の外のベランダを見る。ラベンダーの鉢の葉先は夕方の光のなかで、朝の角度から少しだけ姿勢を変えていた。日中の日差しの当たり方の差が、葉の角度のうえに小さな表情のずれとして表れていた。表情のずれを観察しているうちに、洗い物の手のほうも自然と止まる時間ができた。植物を一鉢預かるというのは、こうして家の家事の合間に視線の止まる先がひとつ増える、ということでもあった。


 * * *


 21時すぎ、俺はベランダに出た。

 空は今夜は雲が広がっていた。月の輪郭は、雲の向こう側で滲んだ円のように見えていて、はっきりした形は隠されていた。風はやわらかく、夜の温度は5月の連休の夜らしい温度。ラベンダーの鉢の葉先は、今夜もまた下を向いて垂れていた。土の表面は、夕方より少し乾いていたが、根腐れを避ける側の判断としては、今夜の水やりはまだ早かった。


 仕切り板の向こうの灯りは、点いていた。

 手すりに肘をついて待つこと数分、カーテンが動き、彼女が出てきた。今夜の彼女は、両手にマグカップを持っていた。湯気は太く、夜風のなかに長く尾を引いていた。


「こんばんは」

「こんばんは」


「お母さん、夜勤、戻りましたか」

「うん」

「昨日のお休みは、ゆっくり」

「うん」

「よかったですね」

「よかった」


 * * *


相川(あいかわ)くん」

 彼女が短く呼んだ。

「うん」

「昨日の」

「うん」

「お礼、というか」

「お礼」

「わたしも、少しだけ、話します」


 彼女の声には、夜のベランダのいつもの柔らかさのうしろに、わずかな硬さが混ざっていた。硬さは、これから自分の側の話を仕切り板の向こうに置く準備の硬さだった。(みなと)の昨夜の声の硬さの種類と、性質的にはほとんど同じ硬さだった。


「いいよ」

「いいですか」

「うん」

「踏み込まれたくなければ、どこでも止めてくれていい」

「はい」

「無理に、最後まで言い切ろうとしなくていい」

「ありがとうございます」


 俺はそう返した。

 昨夜の彼女の聞き手としての姿勢を、今夜は俺のほうの聞き手の姿勢として、対称な形で置いた。対称な形を作るのは、夜の会話の流れのなかで、ふたりのあいだの信頼の量を左右で釣り合わせるための作業だった。


「ありがとう」

 彼女は短くそう返した。

 返したあと、手すりのうえで右手の指先をわずかに内側に折り曲げた。話す側の準備の身体の動き。昨夜の俺の動きとほとんど同じ動きだった。


「前の街で」

「うん」

「親しい友達が、ひとりいて」

「ああ」

「同じ、小学校から」

「中学までずっと?」

「中3のはじめまで」

「そうか」

「それで、その子と」

「うん」

「うまくいかなくなって」


 * * *


「うまくいかなくなって」

 彼女は同じ言葉を少し声を低くしてもう一度繰り返した。繰り返しの言い方のなかには、その当時の自分の側の選びの仕方を、いまもう一度なぞるような響きがあった。


「具体は、言わないけど」

「うん」

「期待の、すり合わせ、みたいなもので」

「うん」

「お互いが、間違えて」

「ああ」

「気づいたときには、もう」

「分かった」


 俺はそう短く返した。

 詳細は分からなかったが、形だけは分かった気がした。仲のよかった相手とお互いの期待の方向がずれて、ずれた方向の差を埋めるタイミングを逃した、というかたちの失敗。誰もが多かれ少なかれ似たような形を、人生のどこかで一度は経験する種類の失敗だった。彼女の場合、その失敗の相手が長く親友だった一人だったというところに、傷の深さがあった。


「それで、引っ越してきた」

「家庭の事情のほうが大きかったですけど」

「うん」

「でも、わたしのほうも新しい場所でと思って」

「そうか」

「新しい場所で、最初から、線を引きました」

「線」

「深入りされる前に、こちら側で線を引く」

「ああ」

「そうすれば、もう間違えない」


 * * *


 彼女のその言い方は、長く考え続けてきた末に出てきた、彼女自身の側の自衛のかたちだった。線を引く、というのは、相手を遠ざけるためというより、自分の側の予測を間違えないためのものだった。予測を間違えなければ、相手を傷つけずに済むし、自分も傷つかずに済む。一見冷たく見える言い方の裏側に、傷ついた経験者の慎重さが透けていた。


琴音(ことね)さんには」

 俺は短く聞いた。

琴音(ことね)は、引っ越してくる前から知ってる人」

「ああ」

「だから、線の外側」

「そうか」

「新しい街で、線の内側に入れた人は、まだ、いません」


 彼女のその言い方は、桜丘高校に転入してから一ヶ月余りのあいだに、彼女の側の線の内側がどう描かれていたかについての、丁寧な開示だった。線の内側にはまだ誰も入れていない。学校でもクラスでも、彼女は線の外側でひとりの位置取りを保ってきた。


「俺も、線の外側」

 俺は静かに聞いた。

「夜のベランダは別」

 彼女が短く返した。

「別なのか」

「はい」

「ベランダは、もとから線の外でも内でもなくて」

「うん」

「仕切り板が、最初から、ある場所」

「ああ」

「最初から仕切り板がある場所のほうが、わたしには、ちょうどいい」


 * * *


 彼女のその説明は、夜のベランダの会話のいまの形を、彼女の側からどう受け取ってきたかについての、はっきりした答えだった。仕切り板は、彼女にとっての引かれた線の機能を、最初から物理的に果たしている。そのうえで、夜の時間だけは仕切り板越しに声を交わすことができる。物理の制約と、時間の制約。二つの制約が同時に効いている場所のほうが、彼女の側の予測の精度を保ちやすい場所だった。


「分かった」

 俺はそう短く返した。

「分かりますか」

「分かる、気がする」


 気がするという言い方を、俺はあえて選んだ。完全に分かったとは言わなかった。彼女の側の傷の深さの単位は、(みなと)の側の経験の単位とは違う形をしているからだった。違う形を、俺の側で完全に共有する、という言い方は今夜は重すぎる。気がする、までに留めるのが、夜のベランダの応答の量としてはちょうどよかった。


 彼女は仕切り板の向こうで、小さく息を吐いた。息のなかに、こちらの「気がする」を肯定的に受け取った気配が混ざっていた。


「ありがとう」

 彼女が短く言った。

「いや」

「聞いてくれて」

「うん」


 昨夜の俺の「ありがとう」と、今夜の彼女の「ありがとう」。同じ言葉が、対称の形で夜のベランダのうえに置かれた。対称な配置のなかに、ふたりのあいだの信頼の左右の釣り合いの取れ具合が、静かに目に見える形で表れていた。


 彼女は手すりの上のマグカップを、右手から左手に持ち替えた。持ち替えの動きは、長く話したあとの彼女の身体のこわばりを少しだけ解く動作のようだった。マグカップから立ちのぼる湯気の量は、最初に彼女が出てきたときよりも細くなっていた。話のあいだに、夜のベランダの空気の温度がカップの中身を冷ましていた。


 仕切り板の縁から夜風が一筋抜けた。

 ハーブの匂いが、いつもより薄く流れてきた。今夜のあかりの側のプランターの匂いの薄さは、彼女のほうが手すりに近いほうに身体を寄せていなくて、少し離れた位置で話していたからかもしれなかった。少し離れた位置で話す、というのは、自分の側の話の重さを仕切り板の向こうにあまり近づけすぎないための、彼女の身体の側の自然な調整に見えた。


 * * *


「じゃあ、そろそろ」

「うん」

「明日も、出ますか」

「出る」

「わたしも」

「じゃあ、また」

「また」


 短い挨拶のあと、ふたりはそれぞれの部屋に戻った。

 カーテンが閉まり、灯りはどちらも点いたまま残された。


 * * *


 自室に戻って、机の前に座った。

 彼女の「線」の話を、頭のなかでもう一度なぞり直した。線を引くのは、相手を遠ざけるためじゃない。線を引くのは、自分の側の予測を間違えないためだった。間違えないために、最初から距離を取る。距離を取れば、相手を傷つけることも自分が傷つくこともない。一見、防衛的で消極的な姿勢に見えるが、傷ついた経験者の慎重さの形としては、たぶんこれ以上ないほど合理的なやり方だった。


 合理的だが、寂しさはある。

 線の内側に誰も入れない、というのは、線の外側の世界からは自分の側もある程度遠ざかる、ということだった。遠ざかった距離のあいだに溜まる種類の寂しさを、彼女は一年あまりひとりで抱えてきたはずだった。抱えてきたぶんの重さを、今夜のベランダの仕切り板越しに、(みなと)は少しだけ受け取った形になった。


 ベランダは別。

 彼女のその言葉は、夜のベランダの仕切り板越しの会話を、彼女が彼女の側で大切にしている、という事実のひとつの表現だった。線の内側にも入れず、線の外側でもない、第三の領域。その第三の領域に、(みなと)の存在は今夜のベランダのうえで明確に置かれた。


 ベッドに入って、電気を消した。

 天井の暗さのなかで、彼女の「線」の話を、自分の側のことに照らし合わせた。(みなと)にも、似た形の線があった。父を亡くしたあと、深く関わると失う、という静かな恐怖を抱えるようになった。深く関わらなければ、失うこともない。彼女の防衛の形と(みなと)の防衛の形は、種類は違うが、線を引くという機能の点ではよく似ていた。

 ふたりの線は、原因も形も別々の場所で引かれたものだった。彼女の線は前の街での親友との関係の壊れ方から引かれた。(みなと)の線は中学2年の冬の家のなかの空気の変わり方から引かれた。原因は別、引いた時期も別。それでも、引いた線の機能の方向は、防壁という同じ方向を向いていた。同じ方向を向いている線同士は、たがいの存在を遠くから認め合うことができる。今夜の夜のベランダで起きたのは、たぶんその「認め合い」のいちばん初期の形だった。

 似た形の線を持っている者同士が、夜のベランダの仕切り板越しに声を交わしている。仕切り板は二人にとっての防壁の物理化された形であり、同時に二人の声を細い隙間から通す装置でもあった。防壁と装置のふたつの機能が、同時にひとつの場所で成立している。これが今のふたりにとっての夜のベランダの、いちばん丁寧な定義の形だった。


 ふたつの似た形の線が、夜のベランダのうえで一度すれ違うように交わった、というのが、今夜のいちばん丁寧な表現だった。すれ違うようにというのは、相手の線の存在をそれぞれが認めたうえで、自分の線をすぐには動かさない、という形のことを指していた。線はそれぞれの場所に引かれたまま、しばらくはそこに置かれる。動かす速度を急がないというのも、線を引いた者同士のあいだに通る種類の暗黙の約束だった。


 認め合いの形が出来上がったあとも、線そのものはまだそれぞれの場所に残ったままだった。残ったままでよかった。今夜の段階で線を消す必要は、ふたりのどちら側にもなかった。


 線を引くのは、防壁のためだ。

 それは俺にも、少し分かった気がした。


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