蛍の話
6月5日の木曜。午前のうちに一度降った雨が、昼前には上がっている。
午後の授業が終わって、帰り支度をしているところに、宗太が俺の机に椅子を寄せてきた。手にはスマホがあって、画面には地元の誰かが上げたらしい写真が開かれている。暗い水辺に、黄緑の光の点がいくつか、長く尾を引いて写っていた。シャッターを長く開けて撮ったらしく、一つひとつの光が、短い線になって流れている。
「蛍、出るらしいぞ」
「どこに」
「椿ヶ丘の、川のほう。せせらぎ公園の奥」
「近いな」
「今週いっぱいが見頃だと」
画面の光の線を、俺は思ったより長く見てしまう。
せせらぎ公園なら、昼に自転車で何度か通った。川沿いの細長い公園で、夜に行ったことは一度もない。蛍が出るという話も、聞いた覚えがなかった。星なら、この時期は南の低い空にさそり座の赤い心臓が見えはじめる頃だ、とすぐ出てくるのに、足元の川に光るもののことは、何ひとつ知らなかった。
「お前、こういうの好きそうだもんな」
「星と、同じ系統だ」
「出た、星」
「俺は団子のほうが好きだけどな」
「で、昨日さ、一年がボールをフェンス越えさせて、テニスコートまで飛ばしてよ」
宗太は蛍を置いて、ボールを拾いに行った一年が先輩に怒られて帰ってきた話を、楽しそうに始めている。蛍とはなんの関係もない。俺は相槌を打ちながら、画面の光の線をもう一度だけ追う。
長いシャッターが、点滅をひと続きの線に変えている。本物はこんなに速くないはずだ。星の瞬きとも、たぶん違う。
* * *
帰りの自転車で、せせらぎ公園のほうの川は、坂を下りた信号からは見えない。
川は公園の木立の奥にあって、道からは土手の緑しか目に入らない。その緑の向こうで、夜になると黄緑の光が点く。そう思うと、見慣れた土手が昼とは違う顔をする。けれど俺は、そのままペダルを踏んで、マンションのほうへ帰った。
* * *
21時すぎ、ベランダに出る。
雨上がりの空には雲が残っていて、月は出ていない。風はやわらかく、新緑とハーブの匂いに、午前の雨の名残がまだ薄く湿っていた。仕切り板の向こうの灯りは点いている。
待つほどもなく、カーテンが揺れて彼女が出てきた。左手のマグカップを手すりに置くと、湯気がひとすじ、夜の空気にのぼる。
「こんばんは」
「こんばんは」
「相川くん」
「うん」
「蛍の話、聞きました?」
「宗太からも」
「あ」
「今日の昼に」
「わたしは琴音さんから」
同じ蛍が、昼と夜から、二人のところへ来ていたらしい。
「せせらぎ公園の」
「川のほう」
「琴音さんは、もう見に行ったって」
「早いな」
「お姉さんと、昨日の夜に」
「写真も、送ってくれて」
「どうだった」
「光が、思ったよりゆっくり動くんです」
「ゆっくり」
「点いて、すうって消えて、また別のところで」
その「すうって」の言い方が、いつもの彼女より少しゆっくりだった。
マグカップが、手すりの上で少し傾く。仕切り板の向こうの彼女は、琴音から送られた写真を思い出しているのか、しばらく川のほうを向いている。
俺は昼に宗太のスマホで見た光の線を、頭の中でほどいてみた。あれが線でなく、点いて消える一つの光だったら、彼女の言う「すうって」に近いのかもしれない。
「見てみたいです」
彼女のその一言のあとに、ひと呼吸ぶんの間があった。
その間が何を指しているのか、俺には掴めなかった。掴めないうちに、間は過ぎていく。
* * *
「夜の、公園だから」
彼女が先に、声を落とした。
「うん」
「ひとりだと、ちょっと」
「だな」
「琴音さんは、お姉さんと行ったって」
俺は手すりの上で、左手の指を一度だけ握り直した。
二人で行くしかない。そこまでは出た。その先が、昼の廊下の「月島さん」「相川くん」につかえて、声にならない。
「一緒には」
彼女が言いかけて、止めた。
「行けないな」
俺が引き取ると、ベランダの上に、短い沈黙が降りる。
仕切り板の向こうで、彼女がマグカップを両手で包み直す。布のこすれる音が短く届いて、それきりだった。蛍の話を始めたときの弾んだ調子は、もうどこにもない。
昼に堂々と誘えたら、と一瞬思って、その考えに自分で苛立つ。
手すりの上の指を、もう一度握り直した。
「でも」
彼女が、沈黙のあとで口を開く。
「うん」
「琴音さんの写真、相川くんにも」
「送ってくれるのか」
「いま、送ります」
胸ポケットのスマホが、すぐに短く震える。
画面の中に、暗い川面と、黄緑の光の点がいくつか並んでいる。宗太のスマホで見たのとは別の角度の、別の夜の蛍だ。宗太のは光が線になっていたが、こっちは点のままで写っている。シャッターを短く切ったのか、川辺の草まで、うっすら見えた。
「これ、琴音さんの」
「お姉さんが、撮ったそうです」
「うまいな」
「わたしも、そう言いました」
「光が、点のままだ」
「線にならない撮り方が、あるみたいで」
点のままの光を、俺はしばらく見ていた。
止まっているように見えて、目を凝らすと、輪郭がかすかに尾を引いている。
* * *
「そろそろ、ですね」
彼女が静かに切り出した。
「うん」
「光が、点のままのほうが、好きでした」
「俺も」
「また明日」
「また」
短い挨拶のあと、ふたりはそれぞれの部屋に戻った。
* * *
自室の机で、琴音から回ってきた蛍の写真を、もう一度開く。
黄緑の点が、川面の暗さの上に散っている。スタンドの灯りを落とすと、画面の光だけが残る。さっき見た尾の引き方を、もう一度たどる。星はこんなふうに動かない。そこまで思って、画面を伏せた。
せせらぎ公園の夜の川には、たぶん今夜も、この光が点いている。
手を伸ばせば届く高さで点いて、消える。それなのに、俺はそこに行けない。
画面を消して、ベランダのほうへ目をやった。
仕切り板の向こうの灯りは、まだ点いている。あの板を一枚挟んだ向こうで、彼女も同じ蛍の写真を見ているかもしれない。別々の部屋で、別々の画面で。
蛍も夏祭りも、一緒には行けない。
その代わりに、この夜がある。




