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夜のとなりはベランダ1枚分  作者: Studio Yodaca
仕切り板の向こう

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42/42

蛍の話

 6月5日の木曜。午前のうちに一度降った雨が、昼前には上がっている。

 午後の授業が終わって、帰り支度をしているところに、宗太(そうた)が俺の机に椅子を寄せてきた。手にはスマホがあって、画面には地元の誰かが上げたらしい写真が開かれている。暗い水辺に、黄緑の光の点がいくつか、長く尾を引いて写っていた。シャッターを長く開けて撮ったらしく、一つひとつの光が、短い線になって流れている。


「蛍、出るらしいぞ」

「どこに」

「椿ヶ丘の、川のほう。せせらぎ公園の奥」

「近いな」

「今週いっぱいが見頃だと」


 画面の光の線を、俺は思ったより長く見てしまう。

 せせらぎ公園なら、昼に自転車で何度か通った。川沿いの細長い公園で、夜に行ったことは一度もない。蛍が出るという話も、聞いた覚えがなかった。星なら、この時期は南の低い空にさそり座の赤い心臓が見えはじめる頃だ、とすぐ出てくるのに、足元の川に光るもののことは、何ひとつ知らなかった。


「お前、こういうの好きそうだもんな」

「星と、同じ系統だ」

「出た、星」

「俺は団子のほうが好きだけどな」


「で、昨日さ、一年がボールをフェンス越えさせて、テニスコートまで飛ばしてよ」

 宗太(そうた)は蛍を置いて、ボールを拾いに行った一年が先輩に怒られて帰ってきた話を、楽しそうに始めている。蛍とはなんの関係もない。俺は相槌を打ちながら、画面の光の線をもう一度だけ追う。

 長いシャッターが、点滅をひと続きの線に変えている。本物はこんなに速くないはずだ。星の瞬きとも、たぶん違う。


 * * *


 帰りの自転車で、せせらぎ公園のほうの川は、坂を下りた信号からは見えない。

 川は公園の木立の奥にあって、道からは土手の緑しか目に入らない。その緑の向こうで、夜になると黄緑の光が点く。そう思うと、見慣れた土手が昼とは違う顔をする。けれど俺は、そのままペダルを踏んで、マンションのほうへ帰った。


 * * *


 21時すぎ、ベランダに出る。

 雨上がりの空には雲が残っていて、月は出ていない。風はやわらかく、新緑とハーブの匂いに、午前の雨の名残がまだ薄く湿っていた。仕切り板の向こうの灯りは点いている。


 待つほどもなく、カーテンが揺れて彼女が出てきた。左手のマグカップを手すりに置くと、湯気がひとすじ、夜の空気にのぼる。


「こんばんは」

「こんばんは」


相川(あいかわ)くん」

「うん」

「蛍の話、聞きました?」

宗太(そうた)からも」

「あ」

「今日の昼に」

「わたしは琴音(ことね)さんから」


 同じ蛍が、昼と夜から、二人のところへ来ていたらしい。


「せせらぎ公園の」

「川のほう」

琴音(ことね)さんは、もう見に行ったって」

「早いな」

「お姉さんと、昨日の夜に」

「写真も、送ってくれて」

「どうだった」

「光が、思ったよりゆっくり動くんです」

「ゆっくり」

「点いて、すうって消えて、また別のところで」


 その「すうって」の言い方が、いつもの彼女より少しゆっくりだった。

 マグカップが、手すりの上で少し傾く。仕切り板の向こうの彼女は、琴音(ことね)から送られた写真を思い出しているのか、しばらく川のほうを向いている。

 俺は昼に宗太(そうた)のスマホで見た光の線を、頭の中でほどいてみた。あれが線でなく、点いて消える一つの光だったら、彼女の言う「すうって」に近いのかもしれない。


「見てみたいです」


 彼女のその一言のあとに、ひと呼吸ぶんの間があった。

 その間が何を指しているのか、俺には掴めなかった。掴めないうちに、間は過ぎていく。


 * * *


「夜の、公園だから」

 彼女が先に、声を落とした。

「うん」

「ひとりだと、ちょっと」

「だな」

琴音(ことね)さんは、お姉さんと行ったって」


 俺は手すりの上で、左手の指を一度だけ握り直した。

 二人で行くしかない。そこまでは出た。その先が、昼の廊下の「月島(つきしま)さん」「相川(あいかわ)くん」につかえて、声にならない。


「一緒には」

 彼女が言いかけて、止めた。

「行けないな」


 俺が引き取ると、ベランダの上に、短い沈黙が降りる。

 仕切り板の向こうで、彼女がマグカップを両手で包み直す。布のこすれる音が短く届いて、それきりだった。蛍の話を始めたときの弾んだ調子は、もうどこにもない。


 昼に堂々と誘えたら、と一瞬思って、その考えに自分で苛立つ。

 手すりの上の指を、もう一度握り直した。


「でも」

 彼女が、沈黙のあとで口を開く。

「うん」

琴音(ことね)さんの写真、相川(あいかわ)くんにも」

「送ってくれるのか」

「いま、送ります」


 胸ポケットのスマホが、すぐに短く震える。

 画面の中に、暗い川面と、黄緑の光の点がいくつか並んでいる。宗太(そうた)のスマホで見たのとは別の角度の、別の夜の蛍だ。宗太(そうた)のは光が線になっていたが、こっちは点のままで写っている。シャッターを短く切ったのか、川辺の草まで、うっすら見えた。


「これ、琴音(ことね)さんの」

「お姉さんが、撮ったそうです」

「うまいな」

「わたしも、そう言いました」

「光が、点のままだ」

「線にならない撮り方が、あるみたいで」


 点のままの光を、俺はしばらく見ていた。

 止まっているように見えて、目を凝らすと、輪郭がかすかに尾を引いている。


 * * *


「そろそろ、ですね」

 彼女が静かに切り出した。

「うん」

「光が、点のままのほうが、好きでした」

「俺も」

「また明日」

「また」


 短い挨拶のあと、ふたりはそれぞれの部屋に戻った。


 * * *


 自室の机で、琴音(ことね)から回ってきた蛍の写真を、もう一度開く。

 黄緑の点が、川面の暗さの上に散っている。スタンドの灯りを落とすと、画面の光だけが残る。さっき見た尾の引き方を、もう一度たどる。星はこんなふうに動かない。そこまで思って、画面を伏せた。


 せせらぎ公園の夜の川には、たぶん今夜も、この光が点いている。

 手を伸ばせば届く高さで点いて、消える。それなのに、俺はそこに行けない。


 画面を消して、ベランダのほうへ目をやった。

 仕切り板の向こうの灯りは、まだ点いている。あの板を一枚挟んだ向こうで、彼女も同じ蛍の写真を見ているかもしれない。別々の部屋で、別々の画面で。


 蛍も夏祭りも、一緒には行けない。

 その代わりに、この夜がある。


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