ラベンダーの苗
4月30日の水曜日は、学校の休業日扱いの平日だった。
カレンダーのうえでは祝日ではないが、ゴールデンウィークのあいだの平日を学校のほうで休みにする運用が、桜丘高校にもあった。4月28日の月曜の午後に担任の牧田先生から配られたプリントに、そのことが書かれていた。学校休業日の指定は年度の最初に決まっていて、4月29日から5月2日までの四日間が、今年は休業日として連休に組み込まれていた。5月3日から5月6日までの四連休と合わせて、計8日の連休になる計算だった。
俺は朝、普段より一時間遅く起きた。
昨日の朝はもう30分遅らせたが、今日はさらに30分遅らせた。連休二日目は一日目よりさらに遠慮なく起きる時刻を後ろにずらすのが、連休の正しい過ごし方だった。空はまだ晴れていた。昨日の朝の空と雲の配置はほぼ同じで、春の4月下旬の晴れ方としてはいちばん落ち着いた形のほうに入っていた。
午前中は『黒いトランク』の続きを読んだ。
昨日抜けた列車の時刻表の章のあとの展開は、物語の構造の骨格を読者のほうにゆっくり提示する流れだった。構造の骨格を提示されると、古いミステリは急に読みやすくなる。構造が見えた時点で、読み手の頭のなかにあらかじめ仮説が立ちはじめて、その仮説と作者の手の差を見つけるのが、読む側の楽しみ方の一つになる。俺は1時間で20ページ進めた。先週の午前中と比べると、ページの進み方は倍近くに上がっていた。
昼前、母から短いメッセージが届いた。
『今日は帰り、遅くなりそう』
『了解』
『冷蔵庫のおかず、適当にね』
『うん』
母は今日も遅番だった。連休シフトのなかで、遅番と早番が交互に組まれている。俺は母の連休の動き方を、冷蔵庫のタッパーの残り具合から推測できるようになってきていた。タッパーのひじきの煮物が昨日よりさらに減っているのを、昼食の準備の最中に確認した。
昼食は、卵かけごはんと味噌汁で済ませた。連休二日目の昼食にしては質素だが、俺の連休の午前中の読書の密度を保つには、味噌汁と卵かけごはんで十分だった。母が作り置きの量のペース配分を組むのと同じように、俺も連休の昼食のペース配分を自分のなかで組んでいた。
午後は自室の机の前で、昨日とだいたい同じ時間を過ごした。
公園の子供の声は今日も聞こえた。昨日よりわずかに声の密度が低かったのは、連休二日目らしく、子供のほうも連休のリズムに身体を慣らしはじめている証拠かもしれなかった。
* * *
夕食は冷蔵庫のおかずとごはんで簡単に済ませた。
ひじきの煮物はタッパーのなかで少し水分が抜けて、作り立てより味が締まっていた。作り立ての味と、数日経った味の中間地点が、母の煮物のいちばん合う時間帯だった。食後の食卓の片付けは、母が帰ってから自分でやる、というのが最近のわが家のルールだった。俺が洗い場に置いておけば、母は夜の12時過ぎに帰ってから洗ってくれる。ルールの合理性は、母の疲労のぶんだけ少しずつ妥協してあった。
21時過ぎに、昨日と同じ時刻の前倒しで、俺はベランダに出た。
夜風は、昨日よりも少しだけ乾いていた。空は雲が薄く残っている。月は今夜は欠けのほうが少し進んだ姿で、雲の隙間からしばらく姿を見せていた。
仕切り板の向こうの灯りは、点いていた。
彼女も今夜は21時過ぎに出てくる予定だろう。予測の精度を、俺は昨日の夜に一度校正した。校正した結果は、今夜のために使う。21時5分に、仕切り板の向こう側でカーテンが動いた。
彼女の手には、今夜も小さな何かが握られていた。
昨日は手ぶらだったが、今夜はまた「もの」を手にしていた。紙の袋でも、透明なフィルムでもない。持ち方からして、もう少し固い形の何かだった。
「こんばんは」
「こんばんは」
短く挨拶を交わす。今夜の彼女の声には、朝から準備してきたことがこれから置かれる、という種類のわずかな緊張が混ざっていた。
「あの」
「うん」
「ちょっと、渡したいものがあって」
「また?」
「はい。飴と早見盤のときの方法で」
彼女はそう言って、手のなかの何かを仕切り板のこちら側にちょうど見える位置まで持ち上げた。小さな丸い鉢に、細長い葉を持つ苗が植わっていた。葉の色は鮮やかな緑より少し薄い、銀色を含んだ緑だった。
「ラベンダーの苗」
俺は苗の名前を口に出した。
「分かりますか」
「前にハーブの本で、葉の形だけは」
「じゃあ、ちょうどよかった」
彼女は小さく笑った。笑いのなかには、朝から苗を用意していた側の安堵の気配があった。
「日の当たり方が、うちのベランダのほう、ちょっとだけ強すぎるみたいで」
彼女が苗を少し持ち直しながら言った。
「ラベンダーは真夏の直射だと葉が焼ける種類もあって。うちの南西のちょうど一番当たる位置で」
「うちも同じ階で、同じ南西だ」
「でも仕切り板の位置で、午後の西日のあたり方がうちのほうが強いんです」
「そうなのか」
「はい、微妙にですけど」
マンションの同じ階の隣同士でも、仕切り板の一枚の位置の違いで、午後の日光の当たり方が少し変わる。彼女はそれを自分のベランダの観察で確かめていたらしい。苗を植えて一週間育てたあとに、夏を乗り切る位置として俺のほうのベランダを候補として考えた、という流れだった。
「相川くんのベランダにも、少し緑があるほうがバランス的に」
「バランス」
「はい。うちが三鉢でそちらが0鉢だと、このベランダの列は少し偏っていて」
「偏ってるのか」
「……気のせいかもしれませんけど」
「気のせいだとしても、分かる気がする」
彼女の「バランス」の言い方のなかには、苗の譲渡の正当化の論理と、彼女自身の気持ちの両方が入っていた。論理は表向きの説明、気持ちは裏側の動機。表と裏のどちらが主なのかは、俺のほうから断定する手段はなかった。ただ、苗を受け取る理由としては、どちらであっても十分だった。
受け渡しは、飴と早見盤の段取りを引き継ぐ形で進んだ。
ただ、今夜の受け渡しは、飴や筒よりもひとつだけ作法が増えていた。植わった苗は、傾けると土がこぼれる。受け取る側の手の角度は、これまでの物よりも注意が要った。
「たぶん、少し、ゆっくりで」
彼女がそう言いながら、鉢を手すりの上に置いた。
「うん」
「重心は、真ん中」
「了解」
一度、彼女が鉢を両手で水平のまま持ち直した。持ち直したあと、仕切り板のきわにいちばん近い手すりの上面に、底面をまっすぐ着地させた。着地の音は、金属の上にプラスチックの底が乗るときの軽い擦れの音だった。
置いたあと、指先がすぐに離れる。俺は自分の側から手を伸ばして、鉢の縁を両手で支えた。鉢はプラスチック製の軽い鉢で、苗と土を含めても片手で持てる重さだった。両手を使ったのは、重さのためではなく、苗を傾けないためだった。
鉢を仕切り板のきわから俺の側に引き寄せる動作のあいだ、指の腹は鉢のプラスチックの表面の温度をわずかに感じ取っていた。ぬるい温度だった。彼女のほうでつい先ほどまで持っていた名残の体温が、鉢のプラスチックの側に少しだけ移っていた。移っていたというより、プラスチックの表面が放熱するまでのあいだに、俺の手の側がそれを受け取ったのだった。体温の直接の移動ではない。プラスチック越しの、ほんの薄い温度の気配だけが、俺のなかに入ってきた。
仕切り板のきわを鉢が越える瞬間、いつもの「越えた」の感覚が立ち上がった。今夜の「越えた」は、これまでの「越えた」よりサイズが少し大きかった。飴は指先に収まる。早見盤の筒は片手で持てる細長さ。今夜の鉢は両手が必要な体積を持っていた。体積のぶんだけ、越えたあとの空気の変化も、今夜は少しだけ厚みがあった。
鉢を自分の側の手すりの内側の床に置いた。
置く場所は、彼女の側の鉢の並びと、仕切り板を挟んでちょうど対称の位置。彼女の側のローズマリーとタイムとミント育成中のプランターが並んでいる列の、延長線上のような位置。その場所に、俺の側のラベンダーが一つ加わった。
床に置いた鉢の底と、コンクリートの床とのあいだに、俺は自分の手元にあったマンションの広告のチラシを二つ折りにして敷いた。鉢底と床が直接接すると、通気の関係で苗の根にあまり良くないらしい、と以前に理科の授業か何かで聞いたような気がした。気がしただけの知識でも、今夜のラベンダーの苗に対しては、俺のできるかぎりの配慮を払っておきたかった。
3プラス1で4つの鉢。鉢は仕切り板の両側に分かれているが、マンションの外から見たら、このベランダの列に4つの小さな鉢が並んでいるように見えるだろう。見えるだろう、という仮定だが、見えたとしても見えなくても、俺の側のベランダに今夜から緑がひとつ増えたのは確かだった。
「水やりは朝か夕方、乾いてから」
彼女が説明を続けた。
「はい」
「真夏までは、うちの水やりのタイミングと、ほぼ同じで大丈夫」
「うん」
「土の表面が乾いていたら、鉢の底から水が出るくらい、たっぷり」
「了解」
「受け皿に水がたまったら、捨ててください」
「はい」
「根腐れが、ラベンダーはいちばん怖いので」
「気をつける」
彼女の水やりの説明は、テキストの朗読のように順序立っていた。朗読のような順序は、朝から苗を用意していた彼女の準備の丁寧さを、仕切り板越しに俺の側に伝えてきた。
「花が咲くのは、早いと6月、遅くても7月」
「夏前か」
「はい。花が咲いたら、葉の香りも少し変わります」
「変わるのか」
「はい、ラベンダーは花と葉と茎で、少しずつ香りが違うんです」
「へえ」
「楽しみですね」
彼女の「楽しみですね」のなかには、彼女ひとりで楽しむのではなく、俺と二人で楽しむことを前提にした響きがあった。前提は言葉のなかで明示されたわけではないが、仕切り板越しに確かに伝わってきた。
俺は鉢に顔を近づけて、香りを確認した。
葉からはまだほとんど香りが立たない。摘んで潰さなければ、ラベンダーの香りは部屋中に広がる種類の強さにはならない。鉢の近くの土の匂いと、葉の薄い青の匂いが、俺の鼻の先にかすかに触れた。その匂いが、仕切り板の向こう側から届くときの彼女の側のハーブの匂いと、だいたい同じ系統の空気を作っていた。
同じ系統の空気を、仕切り板の両側にいる二人が、それぞれの鼻で別々に嗅いでいる。これまでは、彼女のベランダから届く匂いを、俺は受け取る側のまま嗅いでいた。今夜からは、俺のベランダからも、わずかに彼女の側に届く匂いが出る。量はごくわずかだろうが、出る方向と受け取る方向の両方が、今夜から俺の側にも用意された。双方向になったという事実を、俺は鉢の上の葉の影のなかで確認した。
「ありがとう」
「いえ」
「大事にする」
「ぜひ」
彼女はそう返して、自分の側の手すりに肘をついた。今夜の彼女は、手を空けたあとの姿勢の収まり方がいつもより静かだった。朝から用意していた苗を、計画通りに俺の側に届けられたことの、自分のなかの達成の気配が仕切り板越しに届いていた。
「じゃあ、そろそろ」
「ああ。おやすみ」
「おやすみなさい」
カーテンが閉まる。灯りは点いたまま。俺はしばらく残って、自分のベランダの床に置かれたラベンダーの鉢のことを、何度か視線で確認した。置いた位置は変わっていない。変わっていないが、今夜の俺のベランダの床の風景は、昨日の夜までとは少しだけ違って見えた。
自室に戻って、机に向かう。
机の右上には相変わらず飴のフィルムの三角形。机の左側には『黒いトランク』。そして今夜からは、自室の窓の向こうのベランダの床に、小さなラベンダーの鉢がひとつ増えた。机の上ではなくベランダの床、という位置は、今までに増えたどの物とも少し違う位置だった。物の並びの地図が、今夜また一つ書き換わった。
ベッドに入って電気を消す。
天井の暗さのなかで、ラベンダーの苗の葉の色をもう一度思い出した。銀色を含んだ薄い緑。その色が俺のベランダの床に今夜から並ぶ。並び続ける期間はうまく育てれば何年にもなる。何年、という時間の単位は、今夜の俺が彼女のベランダから受け取る物の単位としては、一番長い単位だった。一番長い単位の物を受け取ったということの意味を、俺は天井の暗さのなかでゆっくり確認した。
ハーブを育てるというのは、物を預かるだけでは済まない種類の物の持ち方だった。水と日光と風通しを、育てる側の生活のなかに組み込む必要がある。組み込むというのは、植物の時間のリズムと、自分の生活のリズムを合わせるということだった。夜の彼女のベランダのリズムと、俺のベランダのリズムは、今日までは別々の速度で進んでいた。今夜から、ラベンダーの苗を介して、同じ速度で進む部分が少しだけ生まれた。水やりの時刻。葉の観察。花の時期の予測。これらの細かい時刻のひとつひとつが、俺のベランダと彼女のベランダを静かに縫い合わせていく予感があった。
予感のほうは、言葉にするとかなり大きく響きすぎる種類のものだった。言葉にするのは今夜はやめて、天井の暗さのなかだけに置いておいた。
俺のベランダに、緑が増えた。
それが嬉しいのか照れくさいのか、うまく分からなかった。




