8-₍ᐢ.ˬ.ᐢ₎₍ᐢ.ˬ.ᐢ₎ (前)
₍ᐢ.ˬ.ᐢ₎{8-₍ᐢ.ˬ.ᐢ₎₍ᐢ.ˬ.ᐢ₎はちょっと長くなったので前・後編にわけて公開します
完全に決別してね、うさみちゃん市から離れたどっか、行こうかなと」
凛斗がそう言うのと同時にウィルが口笛みたいな音を鳴らした。ぴゅう。目的地に到着したときの音。凛斗がコラージュとなって映っていた壁は天井から、どろどろに溶けていくチョコレートが崩れ流れていくみたいに消えていく。そこに現れるのは新しい〈世界〉の輪郭だった。モッコウバラの生け垣。灯都の車。振り返るといちごのかたちの建物。
「わー! ウィルさいこう! じょうずにできた!」
周囲の壁がすべて溶けてしまうと、凛斗は飛び上がってウィルに抱きついた。頬をすりすりされてウィルも喜んでいる。しあわせの香りがウィルから発せられて、それに気づいた絢吏は満足そうに頷き、あたりを見渡して戸惑ったようなようすを見せる。
灯都はぼんやりしている。周囲を見渡すと、さっきまでいたはずのごちゃごちゃしてうさみちゃんロボットの棺がたくさんあった屋内――たぶん白くて四角い建物の中――ではなかった。ウィルと一緒にやってきたこの場所に戻ってきたのかもしれない。視覚による情報を鵜呑みにするならたぶんそうだ。
処理しきれない情報のつぶつぶが灯都の脳とつながって、ただぼんやりしているように見えるがものすごいスピードで思考が巡り続けている。そのどれもすべてが、灯都のなかで灯都の言葉として変化しない。内向きの思考がそこにあるだけだ。
「あー。外だ。え、外に出たんだ」
ぽーぽうっぽぽー。ここから見えない鳩が鳴いている。風が、木々を、葉っぱを揺らしてざわめく。戸惑いながら周囲の変化を実感し、絢吏は呟く。「めちゃあっけなく外に出られた。だってさあ、進んでも進んでもおんなじ道に戻って、結局ブレインレインから出られなかったんだよ」。
呆然としたままどこか熱を帯びたような声で力説する絢吏を見ながら、灯都はさっき聞いた話を思い出している。帰れなくて力尽きた先にセミナー室がある、というローチモーテル的ダークパターン。
隣に立つウィルは課せられた仕事を終えたので、撫でられるのを待っているポーズをしている。灯都は手を伸ばしてウィルのおでこを撫でる。いつものようにウィルは、もっと撫でて、という意思のようなものをおでこを強く押しつけることで表現する。「ウィルがんばった!」。具体的になにをがんばったのかよくわからないけど、灯都は撫でながらウィルを励ました。
凛斗は微笑んで、力強く何度か頷く。「ウィルがうまくやってくれたから成功したね」。そう言って、灯都が撫でている手を邪魔するようにわしゃわしゃとウィルのおでこを撫でる。ウィルはさらに喜んでいる。
「ウィルどうやったの? めっちゃ落ちたとこあったよね」
ねぎらいとふれあいに闖入してきた凛斗の手に弾き出されるかたちで、ウィルから手を離して撫でるのをやめた灯都は、いちごの建物から入ったときと、さっきまでの移動の記憶を振り返りながら聞く。いずれも箱の中にいて周りは見えなくて、ただ体感だけがあった。
「凛斗くんの命令で、ブレインレイン社が所有する建物を繋ぐトンネルをいくつか使ったのねん」
語尾が気になる、と思いながら灯都はいちごの建物を振り返り、そしてこの地中にあるらしいトンネルを想像する。うさみちゃん市にもいくつか設置されている、車専用のトンネル。灯都は一度も通ったことがないし、ウィルが経路を提案してきても敬遠してきたけど、知らないあいだに〝通っていた・通ってしまっていた〟。
意思にはない行動をとってしまったことにやりきれなさを感じるが、もうすでに行動は過去のものとして、いっこの過去として確定してしまったのだからしかたない。後悔とは、未来に無限に存在する可能性と、たったひとつの過去とのあいだに生ずる差である。
「とりあえずこっから出られたし、俺は家に帰っていいのかしら。てか、また道路がいつのまにかここに繋がって帰れなくなったりすんのかしら」
絢吏はプリン型の自宅のあるほうを指さして言う。とはいえここから、もともとの住民たちが暮らしているエリアは建物に阻まれて見えない。
「不安だったら、車乗ってく? 送るから。俺もなんか心配だし。気になるし。凛斗もどこに行くか知らんけど、とりあえず移動するでしょ。一緒に行く?」
話しながら灯都は脳にせり上がってくる情報が言葉になりそうなのを喉の奥で堰き止める。絢吏の家がいまどういう状況なのかわからないし、すでに住める状態ではなくなってるかもしれない。という可能性は言葉にしたくなかった。
「うん、とりあえず行くとこがないから一緒に行く」
ぽーぽうっぽぽー。灯都が駐めてある駐車スペースを三人の足の裏が歩くじゃりじゃりした音と、鳩の鳴き声と、ウィルがててててて、と歩く音だけがここには存在していて、凛斗は灯都を振り返らずにそう言いながらまばたきでデバイスを操作している。
「凛斗くんと一緒にいられるなんて嬉しいな。わーいわーい」
一步先を歩いていたウィルが振り返って言った。その言葉すべてに恣意的なものを感じる。「言わせた? ウィルに?」。灯都が聞くと、凛斗はそちらを向かずに「灯都はいっつも鋭い人間ぶるからなあ」と言って肩をすくめる。その仕草すべてにからかいの気分が混じっているのを灯都はびしびし感じる。
車のドアはふつうに開いたし、車内のようすも変わってなかったし、車の周囲にはどの人影も、うさみちゃんロボットもいなかった。まるでこの周辺が時間ごと取り残されていたようだった。さっきまでの経験がすべて白昼夢のように感じる。精緻なゆめを見て目覚めたときのような感覚。
たしかに、灯都の肉体に作用するできごとが――あまりにも強烈な体験が――あったはずなのに、肉体には感覚がもうほとんど残っていないことに気づく。喉の奥に血の味がするくらい走ったのに、心拍数と呼吸がある程度落ち着くとその苦しさをほとんど忘れるのに似ている。そうやって忘れることができるから人間は生きていけるのだ。そうやって忘れることができるから、人間は何度もトライアンドエラーを繰り返すことができるのだ。
エンジンが始動すると、ウィルはいつものように優秀なコ・ドライバーを務めた。絢吏の家まで誘導をはじめる。
バックミラーに収まったいちごのホールケーキ型の建物がゆっくりと角度を変えながら小さくなっていき、そして木々に、建物に隠れて見えなくなる。似たような景色とカーブが続くブレインレイン本社の敷地内は、何度通っても現在位置の感覚を狂わせる。
運転しながら灯都は胸の辺りに常に消えない不安を感じていた。靄状の不安は、そちらに意識を向けると形を変えて、具体的な不安の正体を隠す。
「そういえばさっき『どっか行こうかな』って凛斗言ってたけど」
ウィルの言うとおりに車を走らせながら、後部座席に座る凛斗と絢吏の気配に意識を向けて灯都はたずねた。
「うん。あー、ね、これ食べていい? アイスあるよ絢吏くん」
ぱたむ。ソファに座っていたはずの凛斗が簡易冷蔵庫を開けて聞いた。それと同時に絢吏が「アイス! 甘いものずっと食ってねえわ」と抑えきれない喜びの声で言ったので、もはや灯都に残された答えはたったひとつしかなかった。「どうぞ」。
「絢吏くんどっちがいい? 練乳と練乳しかないけど」
「練乳かあ……気分じゃねえなあ……じゃあこっちの練乳のほうにするわ」
「いや、気分じゃなかったら無理矢理食べんくていいのよ。それ、俺が食べたかっただけだから。ミルク味とか練乳とか好きだからさ、俺用に買っといただけだから」
運転席から、半ば冷めた声で灯都が言うと絢吏は慌てて否定する。「わわ! 違う違う俺も練乳だいすき食べてーなと思ってたとこ」。
ビニール包装をばりばり剥がし、練乳味の氷菓を囓る二人の声と、助手席のウィルの声を聞きながら灯都は運転を続けている。ちらっとルームミラーを見遣ると、氷菓を囓っている二人のにやにやした顔と、その後ろに再びいちごのホールケーキ型のブレインレイン本社のてっぺんが映った。
和玖が建てたケーキのかたちの建物は、かつては喜びとか楽しみといった種類の気分を想起させるものだったはずだ。なのに今は、ミラーに映り込んだとたん、なんだか不安な気分が発生する。「練乳とこのしゃりしゃりが合うわあ」。「しあわせの味がするわあ」。後部座席できゃっきゃしながら氷菓を囓っているふたりのやりとりを聞いていると、灯都に発生した不安はだんだん〈無〉になっていく。それは中和されたのではなく、ただなにもない状態に変わっていくだけだ。なにも無い状態。それは、極めて平凡で極めて平和だ。
道路脇の歩道にはうさみちゃんロボットが行き交っている。対向車線にはうさみちゃん型のりものピクピクに乗って移動する人々がいる。いつもの風景。さっきまで後部座席の二人が閉じ込められていたうさみちゃんロボット供養の作業所とか、ブレインレイン社のトンネルを使って上昇したり下降して移動したことなどすべてが幻だったように感じる。
ブレインレイン社の広大な敷地から一般道へ出る手前の信号まで辿り付いた。赤信号で止まり、バックミラーを見る。やっぱりいちごのホールケーキの建物はうしろにある。それを確かめて、灯都はほっとした。ブレインレイン社から離れようと進んだ絢吏が何度も何度もブレインレイン社へ向かっていた話が、ずっと心の中で不安として残っていたのだ。
「ウィル、ブレインレイン社出たから、あとどんくらいで着くかな。混んでるかな」
助手席のウィルはすぐに計算して答える。「あと十五分で到着するよ。トンネルを使えばもっと早く到着できるし燃費もよいでしょう」。
「うん。でもトンネルは使わない道で」
信号がもうすぐ青に変わる。ここからまっすぐに伸びる道路の向こうには何基か信号が点在している。ひとつ向こうの交差点に、アドトラックが進入してきて左折した。横断歩道の手前で一時停止したアドトラックの側面に文字が浮かんでいる。『一秒先を、彩る』。
やがて信号が青になり、車を進めるとアドトラックとすれ違った。その瞬間、後部座席の凛斗がまるで無感動な声で呟いた。「あ、アドトラックだ」。その声にはなんの感情も含まれていないことが灯都にはわかった。
けれど、なんの感情も含まれていない声だけど、凛斗の肉体から感傷のような気分が情報のつぶつぶとなって発せられていて、それらはルーバーから噴き出る冷たい風に逆らって――風と情報のつぶつぶは互いに独立した世界にいて、干渉することはないのだ――運転席の灯都の肉体のとても深い部分へと届く。




