8-₍ᐢ.ˬ.ᐢ₎ (前)
₍ᐢ.ˬ.ᐢ₎{8-₍ᐢ.ˬ.ᐢ₎ はちょっと長くなったので前・後編にわけて公開します
ドアをくぐるために並んでいる人間たちの渋滞。人間が近づいたのを察知してドアの周辺に白すぎるライトがいくつも点灯し、まるで光のゲートのように見える。ドアをくぐっていく人間たちの中で、ときどき弾かれる人間もいる。エラーのようなブザーが鳴り、目の前に通行を制止するバーが現れる。通行者を顔かデバイスで認証するゲートを兼ね備えているらしい。
凛斗とウィルはなにか話し合いながら人間たちの流れ、この場における秩序の方向へ向かう。アクティブマターの液晶的秩序。灯都と絢吏はそのあとをのろのろ続いた。あのドアをくぐるとき、間違いなく弾かれる、と灯都はすこしの緊張を感じている。この緊張は隠しているけど、きっと、灯都がいつもまわりにいる人間から受信するように、隠された内在の気分を受信できる誰かが知るだろう。そして、いくつもの言葉が彼の脳の中に巡り、だから彼は黙ったままで――あまりに多くの情報が流れ込む脳の中では、発言すべき言葉を絞り込むことができない――灯都とはなんの関係も持たずに過ぎ去るだろう。灯都がいつもそうであるように。
心拍数が上がったのを知ったウィルが灯都の隣にやってきて、腕をのばし、灯都の手に触れる。「深呼吸をしましょう」。そう言って大袈裟に深呼吸をしてみせる。大きく鼻から――ウィルには目立った鼻が見つからないのだが――息を吸うポーズ。ゆっくりと口から長く吐き出すポーズ。ウィルはなんでも知っている。
ドアへ続く列の最後尾へと並ぶ。不規則な群れの列には、しかし、きちんと倫理的な秩序があって、並んだ順番を誰もが把握している。だから我先にと進む者はいないし、我先に進むことにメリットがないからなのか列全体はのんびりしている。
よく見ると誰もが片手にうさみちゃん印のお水を持っていて、別売りの高価な壜を持っている人もいた。その人物の服装に見覚えがある。ソフィスカーフとぴたぴたの服。うさみちゃんシティを破壊するためにやってきたはずの人間たちの一部は、いまここでブレインレインの指示通りに行動している。洗脳。という言葉が自動的に頭のなかに浮かんで、不意に背中に悪寒のようなものが走り灯都は身震いする。「だいじょぶ灯都?」。のんびり聞く絢吏の手にもうさみちゃん印のお水のボトルが握られている。
灯都たちの群れは、ウィルを先頭にのろのろ進んでいる。ドアが近づいてきた。誰もが認証をパスしてドアをくぐっていく。灯都は不安をおぼえる。正規のやりかたでここへ入ってきたわけじゃない気がする自分は、きっとあの認証で弾かれる。その場合、置いてかれるのは自分だけだ。たぶん。そしたらどうしたらいいのかわからない。
ててててて、と歩いてドアに向かったウィルは、ドアフレームをくぐる前に一旦停止し、右腕を上に伸ばした。見えないなにかとハイタッチするような仕草だった。その手がどこかに触れたのか、触れていないのかわからないけど、ぱっ、と目の前の風景が変化した。ドアの向こう側に開けていた〝向こうに伸びる通路〟のすべてが、発光しているような白色になった。
「おー。やっぱ間違いなかったね。ウィルありがと」
そう言いながら凛斗はウィルと一緒にドアをくぐる。そのあとを絢吏が続く。なにも考えていないか、なにも気づいていないようにすたすた歩いて白い空間へ行く。灯都はすこし躊躇った。弾かれる可能性。とはいえ、ここにとどまるわけにもいかない。灯都は大きく息を吸って、胸を突き出すように――それは気分だけで、実際は背を丸めて歩いていた――ドアをくぐる。ウィルと凛斗と絢吏と合流する。エラーのようなブザーは鳴らなかったし、制止バーも現れなかった。
「おおおおお」
根拠のない、理由のわからない達成感に満たされて灯都は思わず唸る。しかし誰もが気にしていなかった。彼らの共感性のなさが、灯都には寂しく、そしてひどく心地よかった。
白い通路は窓も、行き着くべき場所も――この先に〝なにかある〟と思わせる不明瞭さも――なかった。さっきまで、ドアの向こうにはドアの向こうたるべき世界が開かれていたはずだ。いや、あるはずだ、と人間は思い込むようにできているのだ。経験によって。今まで、すべてのドアの向こうにはドアの向こうたるべき世界が広がっていたから。
白い通路には奥行きがあるように感じたが、奥行きは一瞬で縮まった。見覚えのある箱型の空間。凛斗は眼鏡型デバイスを操作してウィルに命令を送っている。「ウィルちゃんと凛斗くんはすごく仲がいいんだね?」。箱型の空間の端に立つ絢吏は、傍らで同じように壁に沿って立つ灯都に話し掛ける。ふたりだけの世界に入り込んでいるように集中して作業しているウィルと凛斗を見つめながら、灯都は微笑んで答える。「まあ、ウィルの脳をつくったのは凛斗だから」。
「そう。ウィルのなかみはほとんど俺がつくったけど、ウィルというか、うさみちゃんという肉体を与えたのが灯都。だね」
凛斗の補足に驚きか感心のような唸りを絢吏が漏らした瞬間、白い箱型の空間が細かく左右に揺れた。空間を照らす明かりが瞬停し、そして再び灯る。足元が動いている感覚が、ゆっくり、すこしずつ加速しているのがわかる。さっきいちごの建物の内部に入ったときに似ている、と灯都は思う。あのときの恐ろしい下降を思い出すと股の辺りからつめたくて粘度のある電気が上昇してきて背中や顎や側頭部にいやな痺れが残る。
閉じられた空間は移動している。ように感じる。上昇するジェットコースターに似た速度でゆっくりと前進している。ように感じる。しばらくゆっくり進んでいた箱、もしくは空間が不意に止まり、足に伝わる感覚として、箱か空間が浮遊しているように感じる。
と、突然ものすごい早さで下降する感覚に襲われる。からだ全体が浮き上がるような圧を感じたあと、からだの内側で臓器のすべてが浮く。さっきと同じだ、と灯都は再び恐怖する。隣で絢吏は手のひらを両頬に押し当ててきゃあきゃあ叫び、喚いている。「まじで無理だから! 俺こういうの無理なんだって! とめてとめてとめてえええええ!」。
誰もが及び腰の姿勢で壁にしがみつきながら下降する重力に耐えていると、突然、箱か空間の中に音楽が流れ始めた。そして、壁だと思っていた灯都たちを囲む平面すべてがぱっとカラフルになる。叫び喚いていた絢吏が音楽に気づいてきょろきょろする。「え、俺この曲知ってるわ」。大衆的印象のイントロ。そして、壁にはかつてアイドルだったころの凛斗の映像――ライブ、スタジオライブのほか、たとえばバラエティプログラムや舞台やショーすべて――がコラージュ状に映り、流れはじめた。
恐怖を忘れて灯都は呆気にとられた。箱か空間の中で、凛斗は流れてくる音楽に合わせて口ずさんでいる。
「……なにこれ」
呆気にとられたまま灯都が尋ねると、かつて凛斗がリリースした曲を口ずさみながら灯都のほうを向き、凛斗は笑顔で答える。壁じゅうに映る凛斗と同じ笑顔で。「いや、移動のあいだ、退屈かなって思って」。
ばらばらの映像のすべてにばらばらに動く凛斗が映し出される壁を見上げながら――頭上にも凛斗の映像はあった――、灯都はすべての言葉を失って映像をただ見上げる物質になった。いまよりもひどく幼く見える十代の凛斗もいるし、ついこのあいだに感じる数年前の凛斗もいる。そして、箱か空間の中には計算しつくされた大衆的リズムをはらんだ商業音楽と凛斗の歌声がてれてれ流れている。その音楽から想起される情報がくっついていて、灯都はこの曲が使われていた凛斗主演のドラマのタイトルを思い出すことができない。結局、誰もが知ってる情報は、情報そのものが薄められて広域に届いただけで、薄い内容の情報は誰の記憶にも残らないらしい。不確かな〝引っかかり〟のようなものだけが残るだけで。
灯都と絢吏は、箱か空間の中に流れる映像を見せられながら急下降していた。壁にしがみつくと、映像の凛斗と抱き合うような格好になることに気づいて灯都は体幹をフル稼働して両脚だけでこらえた。それでもからだはふらつく。思わず手のひらを壁に突いた。
そこにはちょうど大写しでカメラ目線を送る凛斗が映っていて、まるで映像の凛斗を掌底打ちしたみたいになってしまった。「痛っ。やめてよ灯都」。そのようすを見ていた、箱か空間の中にいるリアルの凛斗はにやにやしながら訴える。その隣でウィルは凛斗を心配するように見上げている。
「うん。でも反則じゃねえからね」
下降する箱か空間の中で壁にしがみついていたはずの絢吏は、急な横方向への揺れに耐えきれずよろめいて、映像の凛斗の前立褌あたりを掴んだような格好になった。反則。
下降していた箱か空間はしばらく揺れたあと、横方向へと進んでいるような感覚に変わった。壁に映る凛斗の顔に手を突きながら、灯都はまるでわからない現在についてウィルに聞く。「ウィル、俺はこっからどこに行くの。どうなんの」。
「あ痛っ。目潰しすんなし」
灯都が突いている壁には凛斗が大写しになっていて、灯都の指先がちょうど目玉に刺さっていた。「ああ、ごめんごめん」。指を引っ込めると、拳が目玉を突いているみたいになる。面倒臭い、と灯都は思う。しなくていい気遣いを強制させられるこの空間がしんどい。ふらついたら壁に自由に手を突いて転倒するのを防ぎたいのだ。
「凛斗くんの命令に沿ってこの位置を目指していますよ」。ウィルが答える。ウィルは人間の肉体をもつ凛斗ではなく、映像の中で肉体が動いている凛斗を指している。




