5-₍ᐢ.ˬ.ᐢ₎₍ᐢ.ˬ.ᐢ₎₍ᐢ.ˬ.ᐢ₎ (後)
「ひー。なにこれなにこれ。うちの前でやめて? なんで?」
突然、日常の風景が劇的に変わってしまった窓の外を凝視しながら、深ちるは頬を強ばらせてぶつぶつ呟いている。灯都も同様に窓の外を凝視し、言葉を失う。はっきり言えば、暴力とか暴行は日常の外側にある、自分たちの生活、世界からもっとも遠いものだと信じ込んで生きていた。あらゆるフィクションの中にだけ存在しているもの。それが急に、なんの前触れもなく〈自分たち〉に密接する世界にものすごい勢いでなだれ込んできて、世界はあっという間に汚れきってしまう。灯都はこういう世界での振る舞い方を知らない。ただ、恐ろしさだけが実感としてあるだけだ。
うさみちゃんヘルメットを被った人々は次々にデモを行っていた集団を襲い、傷を負った数人は道路に倒れ込んでいる。デモの集団は突然やってきた暴力の集団から逃げるために散り散りに走って行った。アスファルトの上に座り込んでいる人の額には血が流れている。それを介抱している人もまた、頬や手首に線状の傷がたくさんついている。
「ぽこぽこ」
非日常に突然変化した世界で、状況に追いつけずにただ慌てふためいている灯都と深ちるの脇でウィルは窓の桟に両手を掛けて、窓の外を覗き込んだまま言った。道路の向こうにはパトランプをつけて近づくうさみちゃん警察の赤い光が見える。「ぽこぽこ」。ウィルがもう一度呟く。
「……あれが自警団」
うさみちゃん警察と救急車が到着して、暴力と事件への世界はそれと同時に少し遠くなった。そのかわりに日常がすぐそばまで戻ってきていることに気づく。日常も非日常も、自分の肉体から勝手に離れたり近づいたりする。人間の意思ではどうすることもできない。人間が脳波を操って自分の好みの、空気中に、または別次元に漂う情報のつぶつぶにアクセスできないのと同じだ。人間はつねに受動と能動のまんなかで生きることを強いられている。生きることを強いられている、という観念もまた中動態的だ。
日常に戻る道のりを、深ちるは窓の側から離れて再びテーブルへ移動しながら言う。「さっきの」。
「どっち? なんか被ってたほう? あ、どっちも被ってるか」
灯都も同様にテーブルへ戻る。ボウルのなかには相転移による甘い液体が溜まっている。「あーあ、溶けちゃったね」。椅子に座った深ちるは甘い液体と、わずかに形を残すジェラートの残骸をスプーンですくって食べる。そして、続くようにスプーンでボウルの中身をすくう灯都へ言う。
「うさみちゃん被ってたほう。が、自警団とかいうやつ。あんまわからんけど。らしいよ」
「へー。あ、溶けててもうまいね。てか、暴力を振るうとか恐ろしすぎるんだけど何かを護る行為なのあれ?」
「うさみちゃん市でしょ。ほらこれ見て」
深ちるは右手のスプーンを指揮するように動かして、テーブルの上にテキストを投影させる。〝quzx〟。そこに書かれているのはうさみちゃん市への偏った批判のミルフィーユで、個人的意見のひとつに他ならないとも言える。灯都は読むのが次第に退屈になり、ウィルに要約を任せた。要約もまた、結局、一言にまとまる。「うさみちゃんシティへの個人的批判」。
灯都はすこし悲しい気分になった。それは自分が住んでいる街が批判されているからではない。ネガティヴな言葉をウィルに言わせてしまったということだ。この街に移住してきた少ない人数の住人たちが、かつてつくったルールのようなもの、目指していたもの、ポジティヴでしあわせな気分だけ持った人が集まったら、ポジティヴな情報とたくさん繋がっている人が集まったら、その周囲にも明るくてしあわせな情報が満ちる。その中にいられたらしあわせだと思う。だからウィルにもネガティヴには近づけたくないのだった。自分と同じように。
ウィルは要約と、そこから連なる情報を続けて話す。「このquzxの思想に同意する人々が、現在、うさみちゃんシティへやってきて活動しています。多くはうさみちゃんシティの破壊を目的とする、過激的な活動です」。
「それがどっちなの?」
ウィルのかわりに深ちるが応える。「ぴたぴたのほう」。テーブルの脇に立つウィルのからだの表面にさっきみた、ソフィースカーフとぴたぴたの服の集団と同じような服が表示される。ウィルが着ている、灯都と同じ制服の下に重ね着したみたいに見える。
「おおおウィル。おしゃれしてんね。チャンドラーの服を全部着たジョーイみたいじゃん」
ウィルはしあわせの香りを醸して喜ぶ。すべてのネガティヴが、さっきまでそこにあった悲しみが消える。
「で、その活動してるのを潰そうとしてるのが自警団。らしいよ」
と言われても、過激な活動をしている集団も、それを過激なやりかたで排斥する自警団という集団も、灯都にはただのやばいやつらにしか見えない。異なるようで、まったく同じもので構成されているのではないだろうかと思う。
「quzxのミームが広がってこんなになってるってこと? そもそもquzxってなんて読むんだろ。有名人?」
もともとのからだに戻ったウィルが答える。「quzxという言葉は見当たらないけど、メタ構文変数quxの可能性がある」。
「なるほど、『意味ない』ってこと。AIが作ったのかな」
灯都と深ちるは顔を見合わせて、二度、深く頷いた。意味なし、から広がる意味のない行為と行為者たち。意味ない。それに巻き込まれることもまた、『意味ない』。
「なんか物騒な街になっちゃったね。前はさ、ここにまだブレインレインもなくて、住人も少なかった頃さ、もっと街全体がこう……平和だったよね? 空気がさ。うまくいえないけど」。そして深ちるは喉の奥で詰まった言葉をいったん飲み込むようにして、続ける。「単純に人口が増えると、へんな思考持った人が、負の情報を身体の周りにくっつけてるような連中のことだけどさ。そういうのが増えて、やがて全体はエントロピーが減少する」。
「いたって自然だね。そういうふうにできてんだもん」
灯都は溜息をつきながら答える。溜息の理由は深ちるにも理解できている。『それでも、もともとの住人たちが目指していたような、単純なしあわせの空気だけの街を造りたいと思ってるのに』。『たぶんそれは途中まで、不可能じゃなかったはずなのに』。
「だって今さ。ここは平和だもんね。めちゃくちゃ」
そう言って深ちるは自身と灯都とのあいだの空気をかき回すように、下に向けた人差し指をテーブルの上でくるくる回した。灯都は頷く。ウィルも灯都のまねをして頷いている。
「そう、こないだ和玖さんとも似たような話しててさ。俺らも、ブレインレインも、素敵な街ってのをつくりたいのに、全然違ってるだけなんだよなって。考えかたが」
「素敵な街い?」。深ちるはひどく高い声で反応する。「ブレインレインがあ?」。
「うわ驚いた。やめてよいきなり叫ぶの」
「ぽこぽこ」
「ごめんごめん。でもさ、和玖さんもそう思ってんの? 嘘でしょ。え、灯都もそう思ってんの?」
「や、どうだろ。でもブレインレインはそう言ってる……」
「ぽこぽこ」
すでにジェラートのなくなった空っぽのボウルを片付けようとした深ちるが行動する前に、ウィルがふたりの前に置かれていたボウルをさっと取り上げ、キッチンへ運んで行った。そして食器洗浄機へ入れ、スタートさせる。キッチンから戻ってくるついでにウィルはキーマン茶が入ったガラスボトルとカップをふたつ持ってきて、テーブルの上に置いた。
「ありがとウィル。ウィル、心が読めるわけね。違うか。ここに繋がってる情報――」と言って深ちるはこめかみのあたりを指さす。「が、ウィルには見えるってことか」。そしてカップに注がれたキーマン茶を一口飲む。「そうなの? 灯都」。
「さあ。わかんない。だって、存在するかどうかすらわからないものを読み取る方法なんて、誰もまだ知らないよ」
答えた灯都の顔をじっと疑い深い表情で見つめ、深ちるは諦めたように「まあいいや」と言って首を傾げた。
「和玖さんの作品が壊されたときも思ったけどさ。ブレインレインは素敵な街なんて造ろうと思ってないでしょ。ただ表層的な『なんかおもろそう』がほしいだけじゃん。詐欺師がハイブランドで全身かためてんのと一緒。そんで、自分の力で利益を創造できない人のテンプレを吐くのね。『ひとりが得た利益はみんなで分け合いましょう』」
ウィルが注いでくれたカップを受け取り、灯都はそれをゆっくりと一口飲む。そうすることで返事をするという動作を曖昧にして、灯都は黙ったまま視線をすべてのものから遠ざける。
「ぽこぽこ」
「そだ。これ見てよ灯都。これ見ても……」
「やっほー灯都。そっちはどう?」
そのときちょうど凛斗から通信が入って、ウィルは腕で輪っかを描いて映像を空中に展開させた。灯都には音声も映像も見えているけど、深ちるにはなにも聞こえていないし映像はトランスペアレントになっている。灯都は映像と音声を深ちるに共有し、挨拶を返す。「やっほー凛斗」。
「あ、凛斗くんだ。こんにちは。久しぶりだね」
そう言って深ちるは手のひらを振る。会話に参加する深ちるに気づいて、凛斗は笑顔で手のひらを振り返す。「わー。久しぶりだね。げんき?」。
「さっき灯都の髪の毛切ってあげたとこ。そだ。凛斗くんもこれ一緒に見てよ。いま、うさみちゃん市に出没する過激な集団。知ってる?」
デバイスを操作して深ちるは灯都と凛斗へ映像を共有する。空中に投影されている映像の隣に新しい映像が歪な丸のかたちになってふわふわ浮かんで、いま灯都たちを取り囲んでいる世界とはまったく別の世界がざわついた音量で突然始まる。
ざわついた音量は暴力的だ。人間の精神に、脳に、一瞬で〝危険〟の信号をもたらす。映像はさっき見たのと似た、ソフィースカーフとぴたぴたの服の集団だった。似たような服を着ていると、これがさっき深ちるの家の前でデモ行進していた集団と同一人物たちなのかまるでわからない。ただ、この街の市民全てが強いられている〈制服〉というシステムと同じように、外部から一目でなにものであるかわかる点は共通している。ある共通する情報を持った人間たち。
映像は集団がうさみちゃん市へ乗り込むところからはじまる。市境を跨ぐ前に、集団は円陣を組んで士気を上げている。肩を組んで屈んでいるので、なにを言っているのか不明だが、不明瞭な言葉で一人が腹の底から声を上げ、それに続いて集団たちも声を上げる。「おおー!」。そして集団はやけに意識的に――ふだん、市や区を跨ぐときに誰もが意識しないのに――せーの、のかけ声でうさみちゃん市へ入る。
「なにこれプロモ?」
一緒に映像を見ている深ちるのほうを向いて灯都は聞いた。深ちるは首を傾げながら「わからん」と答える。同じ映像を見ている凛斗も、二人の会話に頷いている。
そこから集団はうさみちゃん市のあらゆるところへ移動し、デモを行っていたが、あまりに冗長だったので二倍速で流し見した。二倍速でもじゅうぶん理解できる密度の内容だった。途中、ブレインレイン社への道のりを何度も間違うようすが何度か繰り返された。何度も同じ映像がループされているように感じたが、そうではなく、通行を許可されていない者たちが近づこうとしてもブレインレイン社への道のりのあるどこか――それは通行している者も、撮影された映像を観ている者も、まるでわからない――で別の道路へと弾き出され、気づいたらブレインレイン社とはまるで違う方向へと歩いているのだった。
その後、集団はブレインレイン本社――いちごがのったホールケーキの形の建物――から離れた場所で、いちごのてっぺんを背景になにか険しい顔でカメラに向かって訴えていたが、二倍速だったから言葉が聞きとれなかったしキャプションも読めなかった。そもそも興味がなかった。けれど、内容がほとんど把握できない早回しの映像から灯都の悲しみが刺激された。内容ははっきりわからなくても、いちごがのったホールケーキの建物が――実際はその中にいるブレインレイン本社なのだが――を、彼らは強く批判しているのがわかったから。まるで、建物を否定することが、かつてのこの街、この街に流れていた雰囲気すべてを否定することに繋がっているように感じた。
いちごのてっぺんが見える場所から、集団は再び移動しはじめた。拡声器のマイクを口に当てて、なにか訴えながら。そして切り替わった風景は灯都の記憶を刺激する。梅の木が林立するエリア。そこで深ちるは再生速度を戻した。そして、灯都を視線の端で見た。意思をはらむ視線。
「こないだここで……」
映像による想起。灯都の脳裡には、このあいだ会った渡鬼関が蘇っている。そのことを衝動的に深ちるに伝えようとしたところで、映像の雰囲気が突然変わった。外部へとげとげした攻撃性をまとって歩いていた集団が、突然、梅の木が立ち並ぶ畑の向こう側へと走り出した。手には大きなハンマーのようなものを持っていて、彼らはうさみちゃんの石像を目指しているのがわかった。灯都の言葉は喉で詰まり、出てこなくなる。からだが強ばる。
集団はあっという間にばらばらのスピードで、集中線のように一点を目指してダッシュする。そして到着した者から、暴力的な振る舞いをもって、うさみちゃん石像によじ登り、頭の上に足を乗せたり腹を蹴ったりする。
遅れて大きなハンマーを持った人間や、スプレー缶を持った人間たちが到着した。「ブレインレイン社の象徴、この石像は我々が壊す」。映像の中の誰かが叫んで、ハンマーを持った人間たちは両手で大きく振りかぶる。
「うわあああああああ!」
それは無意識の衝動的叫びだった。灯都のからだから、一瞬でありえないくらい膨張した恐怖と一緒に、叫びが飛び出した。そして灯都は映像から目を逸らす。そのあいだの時間は灯都の肉体から、肉体の周辺から、一切が消えていた。すべてが真空の中で起こった出来事のようだった。
隣で立っていたウィルが灯都の急激な心拍数の上昇を感知して、しあわせのにおいとは違う、べつのにおいを醸す。イソボニルアセテートみたいなにおい。そして、灯都の首元にウィルが手を置く。ぴた。その感触に気づいた瞬間、灯都は自分の心臓がひどく速いスピードで強く打っていることに気づいた。気づいたときからようやく、灯都の肉体と、その周辺の世界が動き出した。
「だいじょぶ? 灯都」
騒がしい映像から灯都へと視線を移して深ちるが言う。その言葉にふと不安になって、灯都はべつの映像に浮かんでいる凛斗を見た。まるで動じていない。
「あ、ごめ……俺だけ取り乱しちゃった、のかな?」
「だいじょうぶ? 灯都」
映像の凛斗が言う。いつもの凛斗の声で。いつもの凛斗の笑顔で。
「……うん、だいじょぶ。ありがと」
そうしているあいだに映像はさらに変化をすすめる。うさみちゃん石像はソフィースカーフとぴたぴたの服の集団に占拠され、破壊されようとしていた。そこへ、うさみちゃんのヘルメットを被った、さっき見た集団が、残飯に群がる大量の蠅みたいに群がってきて、石像を占拠する集団を取り囲み、そして引きずり下ろす。暴力に対抗する暴力。
やがて映像の中はさっき見たのと同じ、排他的な暴力だけで構成される無秩序へ変化していく。そこにあるのは偏った信心からなる短絡的衝動だ。うさみちゃん石像から引きずり下ろされ、ソフィースカーフの集団たちはうさみちゃんヘルメットの自警団の暴力に抗う。そして、彼らの目的はもみ合いの中で、うさみちゃん石像の破壊や阻止から、単純な、目の前の敵を潰したいという欲求に変わっていった。どちらの集団も、次第に負傷者が増えていく。
映像の中の時間が止まる。そして深ちるは大きく溜息をついた。「これが昨日のことだって」。
ふたつの映像が空中に浮かんでいるうちの、凛斗が映っているほうを灯都は見た。意識的に。凛斗には動揺したようなようすも見られない。とはいえ、人間は実際に生身の肉体が向かい合うのと、映像を通して見るのとでは、感覚的にまったく違う。灯都には、凛斗から出ている〈感情〉のようなものをキャッチできない。映像の向こうの凛斗はただ、映像として投影されたつくりものの凛斗で、そこには肉体の内側が持つ情報のどれひとつもくっついていない。
「やっぱりそうなると思った」
キーマン茶を空いたカップに注いでもらいながら深ちるが言う。ウィルはカップに注ぎ終わると、灯都のカップの中身を確かめて、なにも言わずにポットを置いた。
「そうなる?」
「や、怒るかショックを受けるか、どっちかだと思ったから」
なにかを試すために深ちるはこの映像を見せたのかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。それより、灯都の脳の中であまりにもたくさんの情報が渦を巻いて言葉がうまく出てこない。瞬発力を持たない者の性。いつだって、完璧に言葉を用意したころにはもうすでに流れが過ぎ去っているのだ。
「だって……うさみちゃんは……うさみちゃんは、だいじ」
これでは幼児の喃語と大して差がないと思いながら灯都は言葉をつないでいく。「和玖さんの建物も、だし、この街にもともとあったのとか」。
「そうだよ。うさみちゃんはみんな、昔から大切に思ってるもん。ねー。ウィル」
首を傾げながら深ちるに「ねー」と話を振られたウィルは、深ちるとおんなじ角度に首を傾げて「ねー」とまねをした。その仕草がとても愛らしかったので灯都は胸がいっぱいになってすべてのことがもうどうでもよくなる。深ちるはウィルのほうを向いたまま続ける。「うさみちゃんは、灯都たちがつくるとこを見てきた人たちの大切なものだよね」。
そう言って深ちるはウィルに向けていた顔を、空中に映る凛斗へ向ける。「だよね。凛斗くん」。
凛斗は笑顔を――それは友人たちに向ける笑顔ではなく、もっと外側にいる〝大勢〟へ向けたつくりもののように見えた――つくって、全身で肯定を表すように頷きながら言った。「そうだよね」。
どこか他人事のような雰囲気が、たったひとことに詰まっているような気がする、と思いながら灯都は鼻で細く溜息をついて凛斗に聞く。「そういえば凛斗、なんか用があったんじゃないの?」。
「そうだ。ツアーが終わったから報告」
「へー。じゃ、凛斗もこっち帰ってくんの?」
「いや。俺はまだ戻れないんだよね。もうちょっとやらなきゃいけないこともあるし。新しい




